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衰退した基地村の村、排除された人々の記録

[3・8世界女性の日特別企画(1)]東豆川、トッコリマウルには

ユン・ジヨン、ウン・ヘジン記者 2020.03.03 10:41

〈3・8世界女性の日特別企画〉

(1) 東豆川、トッコリマウルには

(2) 基地村の村、洗濯する女性たち

(3) 基地村お母さんとマミー(mommy)

(4) 東豆川、相変らず排除された女性たちの都市

(5) 東豆川のエジプト女性難民、モナ

米軍基地を見下ろす墓

駐韓米軍キャンプホビー(Camp Hovey)を見下ろす坂道の途中に パク・スンジャ氏の墓がある。 村の住民たちは彼女がキャンプに近い基地村で働いていた多くの女性の1人だという。 基地村で会った米軍人と、米国に行こうとしたが結局行けない事情があった。 ひとりで米国に戻った米軍人は、彼女が死んだ後、この墓を作ったという。 米軍人が自ら刻んだ墓碑銘には「パク・スンジャ、行かないで」 という字がぎこちなく彫られている。

墓から見えるキャンプ ホビーは巨大な村のようだ。 村よりも大きな村、それで村を飲み込んでしまった村。 そこはもう物寂しさで埋まっている。 車両が1、2台通るだけで、人の気配はほとんど感じられない。 その代わりにキャンプ後方の建物から巨大な雲塊のような蒸気が休むことなく上がる。 村の入り口にあるそこは、2015年に竣工したLNG複合火力発電所だ。

墓からの道を通って村に降りると、キャンプ ホビー入口の前に 小さなアパート団地がものさびしく立っている。 以前は百世帯近くが暮らしていたそのアパートには、 今ではもう四世帯しか残っていないという。 キャンプの入口からずっとのびる路地には、うらさびしい風が長いあいだ留まっている。 昔、米軍人たちが出入りした質屋やトロフィー製作商店は、 色あせた英文看板がぶら下がっているだけで門戸を閉ざしていた。 そしてその路地を埋める基地村性売買店舗と米軍クラブなども、すべて痕跡をなくした。 それら全てが消えた路地には、まだ過去を消せない痕跡が殻のように残っている。 そして路地裏の丘のみすぼらしい家にもまだ人の痕跡がある。

米軍部隊と発電所で囲まれた村。 全てが消えたが、依然として残っている町。 排除されつづけてきたが、必ず記録されなければならない所。 以前からのここの地名は「トッコリマウル」だ。

トッコリマウルには

東豆川中央駅から東に3キロほど離れたところにトッコリマウルがある。 市内から地域内バスに乗れば約10停留所、徒歩では50分かかる人里離れた町だ。 村のまん中に流れる東豆川に沿って行くと、 米軍部隊のキャンプ ホビーが見えてくる。 キャンプ ホビーの規模は14.05平方KMで、 東豆川市全体面積(95.67平方KM)の15%ほどを占めている。 1951年から東豆川に駐屯し始めた駐韓米軍は、 1954年、ここにキャンプ ホビーを設置した。

▲キャンプ ホビー前の故パク・スンジャ氏の墓[出処:ワーカーズ取材チーム]

キャンプ ホビーはキャンプ・ケーシー(Camp Casey)とともに 東豆川で最大の米軍基地だ [1] 。 小さく静かだったトッコリマウルは、 キャンプ ホビーができると巨大な基地村に変貌していった。 米軍部隊関連の従事者が村に駆けつけ、 米軍部隊の正門の前に基地村性売買集結地ができた。 米軍のためのクラブと酒場などの遊興やサービス業者が町を埋めた。 1980年代の初めまで、東豆川全体人口の70%ほどがキャンプ・ケーシー前の ボサン洞とキャンプ ホビー前のクァンアム里(トッコリマウル)、 そしてセンヨン洞に居住していた [2]

「その時はバスが毎日人で埋め尽くされた。 とても人が多くてバス運転手が、わざわざ乱暴にブレーキを踏んで、 人を押込んだほどだから。 路地でも人の隙に挟まるようにして通わなければならなかったし。 今の梨泰院よりはるかに人が多いところだったよ。 夜もきらびやかで、ポップソングが終わらない」。 トッコリマウルの住民、ソ・テスン氏は当時の村をこのように記憶していた。 実際に、トッコリマウルはキャンプ・ケーシー前のボサン洞と共に、 東豆川で最も繁華な基地村として名前を馳せた。

トッコリマウルの住民のほとんどは米軍を相手に仕事をした。 仕事は多かったが雇用の種類は多くなかった。 女性たちは米軍部隊の中の洗濯工場に就職して軍服を洗い、アイロンをかけたし、 基地村性売買女性の清掃や洗濯、育児の代わりをして金を稼いだ。 食堂や店を運営したり性売買店で働く女性もいた。 村の全てが米軍部隊で形成され、住民たちは米軍部隊によって生存した。

金と音楽と遊興があふれて村は繁盛したが、 ここの女性の暮らしはいつも危なっかしいものだった。 毎晩人々の大声と悲鳴が聞こえ、殺人、強姦、暴力、放火のような凶悪犯罪が絶えなかった。 1964年には基地村の性労働者、キム・オッキ(28)氏が家で変死体として発見された。 顔には傷があり、首をしめた痕跡もあった。 殺人を犯したのはキム氏に月5ドルを与えて同居していた米軍だった。 彼は普段も他の女性の首をしめるクセがあったことが明らかになった。 同年、三人の米軍人がタクシー運転手をナイフで刺して現金2千ウォンを強奪する事件もあった。

1971年には村の住民150人と米軍憲兵80人が大喧嘩をした。 争いになった理由は、その日の夜、ある米軍人が性労働者キム・スングム(23)氏を 何の理由もなく殴って失神させた後、 部隊に逃げ込んだからだった。 この日の喧嘩で住民5人と警察官1人が重傷を負った。 2007年にはある米軍人が夜明けに村を歩き回り、植木鉢を壊し、ガラス窓を破り、 家に侵入し、ついに美容室で強盗と放火をした。

知らされない事件は果てし無い。 一日とたたずに性労働女性の遺体を積んだ花棺が村を出た。 トッコリマウルの住民チェ・ヒスン氏は 「恐ろしいほど殺人事件がたくさん起きた」とし 「基地村で働く人はほとんど実家にお金を送るために生活戦線に飛び込んだ人だ。 そんな人たちがここでたくさん死んだ」と回想した。 ソ・テスン氏は「朝起きると窓が割れていたりもしたし、 事故がおきても犯人をつかまらないことが多かった」と説明した。

排除された村、トッコリマウル博物館

永遠に繁盛するかと思われたトッコリマウルは、 1980年代に入ると衰退の道に入った。 韓国の経済成長でドルの値うちが下がり、 米軍部隊内に慰安施設が設置されるなどの変化が始まってからだった。 そして米軍部隊内にキャンプ・ケーシーとキャンプ ホビーをつなぐ橋ができて、 もう米軍がトッコリマウルに出てこなくなった。 その上、2004年のイラク戦争当時、 キャンプ ホビーに駐屯していた米2旅団がイラクに発ち、 米軍兵士の数が急激に減った [3] 。 現在、キャンプ ホビーは米軍駐屯地ではなく、循環基地の形で運営されている。

[出処:ワーカーズ取材チーム]

米軍がいなくなって生計がたてられなくなった住民も荷物をまとめた。 商店は扉を閉め、空き家は増えた。 人がいなくなった場所には寂しさが垂れ込め、村はさらに衰退していった。 行く所がなかったり、出て行くには遅すぎる、 あるいは出て行く金がない貧しい老人たちだけが村に残った。 「浴場、病院、薬局のようなものがみんななくなってしまった。 病気になるとタクシーに乗って東豆川市内に出て行って薬を買わなくてはならない」。 村住民のクァク・ファスン氏が話した。

彼が言うように、いくら村を歩いても、病院どころか薬局一つ見えなかった。 村にできる予定だった1000病床規模の済生病院はすでに20年間、工事が中断された状態だ。 その上この病院も営利病院と言われ、論議がおきた。 村住民のほとんどが高齢の老人なのに、保健所一つできなかった。 昨年の12月には郵便局までこの村からなくなった。 地域のバスも減り、村に入るバスさえない。 地域のバスは村の入り口にあるバス停留場をかすめるように過ぎる。

崩れかかった基地村を満たしたのは、以前と同じような、別の遊興店舗と療養病院だった。 今、村の路地に立ち並ぶクラブには韓国人が出入りし、ここで働く女性もフィリピンやロシアなどの外国の女性たちに変わった。 そして2012年、サムスン物産と韓国西部発電、現代産業開発は、 トッコリマウル一帯にLNG複合火力発電所を建設すると発表した。 全てが衰退した村にも木が育ち花が咲くというものだ。 村住民はこれ以上村が壊れ、破壊されることを望まなかった。 それで村の老人たちは闘争に立ち上がった。 大声をあげて抵抗し、デモと座り込みをして、警察に連行された。

だが彼らは結局、政府と企業との戦いに勝利できなかった。 2015年、予定通りに村の入り口にLNG複合火力発電所が竣工した。 そして村住民には32億ウォンほどの村発展基金が与えられた。 その時から村住民の間で対立と反目が始まった。 村発展基金で作った洗濯工場は、不正疑惑と赤字に苦しんで売却された。 この過程で住民は互いに傷を負い、背を向けた。 数十年間積み重なった彼らの共同体は、そうして崩れた。

▲トッコリマウル博物館[出処:ワーカーズ取材チーム]

2019年11月30日、小川の前の「カフェ・サンジェリエ」で、 トッコリマウル博物館の開館式が開かれた。 芸術家たちと村の住民たち、地域研究者、活動家が集まって作った空間だった。 これまで誰も記録しなかったトッコリマウルの話を集めるという趣旨であった。 住民の舎廊房になるここは、住民間の信頼を回復するための空間でもあった。 住民と芸術家、活動家は、ここを拠点に村音楽会を開き、 村創作教室を運営しながら、住民たちの生涯史を記録している。

トッコリマウル博物館館長のイ・ヘジン作家は 「トッコリマウルは女性、軍人、村という3つの重要な主題意識がある。 ここを彼らの歴史を記録できる場所にしたい」と話した。 旧基地村の飲み屋を復元した博物館には、 トッコリマウルの歴史と基地村女性の話と、住民たちが描いた村の絵がききれいに展示されている。 衰退した村の外れに小さく立っている博物館には、毎日住民たちの足が絶えない。 米軍部隊と発電所で囲まれた村。 排除され続けて消えたが、必ず記録されなければならない所。 トッコリマウルの記録は今、第一歩を踏み出した。

〈脚注〉

[1] キャンプ・ケーシーの面積は14.15平方KMだ。

[2] 基地村また富は『春風』、東亜日報、1981.2.3

[3] 土と記憶:東豆川トッコリマウルと共同体アーカイブ、京畿文化財団北部文化事業団、2017

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2020-03-31 09:12:42 / Last modified on 2020-04-04 12:44:28 Copyright: Default

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