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基地の村、洗濯する女性たち

[3・8世界女性の日特別企画(2)]排除された女性たちの都市

ユン・ジヨン、ウン・ヘジン記者 2020.03.04 09:55

〈3・8世界女性の日特別企画〉

(1) 東豆川、トッコリマウルには

(2) 基地村の村、洗濯する女性たち

(3) 基地村お母さんとマミー(mommy)

(4) 東豆川、相変らず排除された女性たちの都市

(5) 東豆川のエジプト女性難民、モナ

▲トッコリマウル[出処:ワーカーズ取材チーム]

米軍部隊洗濯工場

トッコリマウルで暮らす女性たちは洗濯をした。 米軍の軍服と下着を洗い、基地村の女性たちの服を洗い、家族の服を洗った。 米軍部隊に入って洗濯し、村を横切る東豆川に集まって洗濯物をたたいた。 この60年間、彼らの手から水気がかわく日がなかった。

京畿道安城で生まれたチェ・ヒスン(75)氏がトッコリマウルで移住したのは 中学校2年の時だった。 両親と共に暮らしていた家に大きな火事が起き、内部事情が困窮した。 両親は姉が家を出て、住んでいた東豆川トッコリマウルから彼女を送り出した。 彼女の兄は家でめいの世話をするより、働いたほうが良くないかと話した。 それで彼女は1960年代の初め、十七の年齢で 米軍部隊のキャンプ ホビー(Camp Hovey)の洗濯工場に就職した。

洗濯工場は米軍部隊の中にあったが、社長は韓国人だった。 米軍が韓国人の親子に下請に出したという。 工場の中にはチェ氏と同じ年頃の女性がこの仕事をしていた。 工場は24時間休まずに稼働した。 60人の女性は30人ずつ組をつくり、12時間ずつ2交代で働いた。 朝6時に出勤し、晩6時に退勤して、翌日の午後6時に出勤し、翌日の朝6時に退勤した。 洗濯はいくらしても終わりがなかった。 数百着の軍服が毎日工場に入ってきて、 労働者たちはその洗濯物を洗濯機から脱水機に、また干場に移した後でアイロンがけをした。 ワイシャツはぱりぱりにアイロンをかけ、軍服には角がきっちり出る折り目を付けた。 手が早い人は一日に二百着以上の軍服にアイロンをかけた。

老人の女性たちは米軍のランニングシャツとパンツ、靴下を洗って干した。 工場にはいつも米軍の下着が山のように積まれていた。 老人たちは仕事で苦しくなったり、寒さに耐えられないときは、 積まれた下着の山の中に入って仮眠を求めた。 毎日繰り返される労働はつらかった。 だが彼らは疲れを知らなかった。 つらくない仕事はなかったが、何よりも疲れる時間もなかった。 それでもチェ氏の唯一の楽しみは、同年代の友人とつきあえることだった。 学校をやめた彼女には、友人ぐらいうれしい相手はなかった。 彼らは時折、疲れたひきずって峠を越え、映画館見物に通った。 それは彼女らにとって最大の贅沢であった。

チェ氏は洗濯工場でもらった賃金のほとんどを実家に送った。 チェ氏だけではなかった。 未婚の女性労働者のほとんどは、家の暮らしの足しにするために金を稼いだ。 洗濯する女性たちも、基地村で性労働をする女性たちも、境遇は似たり寄ったりだった。

▲キャンプ ホビーの前基地村路地[出処:ワーカーズ取材チーム]

彼女らはお金が必要だった。 そして村で金になる所は米軍部隊しかなかった。 米軍部隊で洗濯をする女性たちは、部隊の食堂でコーヒーやソーセージ、 肉のような食料品を買って工場の中に隠しておいた。 そして退勤する頃にそれらをスカートに隠したり、もっこに入れて部隊の塀の外に投げたりした。 部隊で買った食料品を転売すると、かなりいい金になった。 もちろん、いつも部隊正門を無事に通過できたわけではなかった。 検問所で摘発された日には、彼女たちは部隊の外にることができなかった。 そこで食料品を持ち出した同僚の名前を言えと追及された。 同僚は彼らを取り返すために金を集めた。 同僚の姉さんが捕まると、チェ氏も数ケ月分の月給を用意して彼女の釈放を助けた。 一日で大金が空しく飛んで行ったが、ただ自分の名前を素直に言わなかった姉さんが有難いだけだった。

17歳から35歳になるまで、チェ氏は18年間、毎日洗濯工場で働いた。 知らずに始めた仕事になれる頃には、彼女も若くない年齢になっていた。 あくせく生きてきたと考えたが、貯めようとした金は貯まらず、 さまざまな重い病気だけが溜まった。 チェ氏は理由がわからない無力感に苦しんだ。 その頃はそんな時期だった。 不当なことを体験しても、それが不当なことなのかも知らず、 訴えたくても訴える所がなかった。 米軍部隊によって形成された村で、村はそのまま米軍部隊だった。 米軍がたくさん行き来するホール(遊興店舗)を運営する人がすぐ村の地主になった。 彼らから憎まれれば村で暮らすことは難しかった。 たびたび夜に恐ろしい事件や騒乱が起きたが、誰も村人を保護しなかった。

チェ氏は一週間無断欠勤をした後、工場を出た。 米軍部隊を出た彼女にできる仕事は多くなかった。 雇用と言っても主に基地村の女性の服を洗い、彼らが生んだ子供の世話をして、清掃をする仕事だけだった。 そしてその時、米軍部隊内に慰安施設が設置され、キャンプ ホビーとケイシーの間に連結通路ができて村の商圏は衰退しつつあった。 チェ氏は自分の意志半分、他意半分で生活戦線に飛び込むのを止めた。 その代わりに弟が生んだめいを育てて家事労働をした。 そして40歳になった年、米軍部隊で通訳者として働いていた男性と結婚した。 彼と共に働いた同僚もいち早く結婚すると同時に工場から出ていった。 工場を辞めて家庭に定着した女性労働者たちは、 洗濯物を大量に持ち出して、村の小川で再び洗濯をした。

基地村、女性、洗濯、そして排除された村

村が衰退期に入った1984年。 クァク・ファスン(65)氏は夫とともにトッコリマウルに引っ越してきた。 東豆川市内の貸間で煉炭ガスに苦労していたところだ。 夫は空気がきれい所で暮らそうと言って引越の荷物をまとめ、 全く知らない村で荷物を解いた。 引越の荷物を入れた日、クァク氏は荷物を解かないと言って泣いた。 生まれて初めて出会ったトッコリマウルは無法天下の歓楽街だった。 家の外に出ると危険を感じた。 米軍部隊の警備労働者だった夫は、一年だけここで暮らそうと言ってクァク氏をなだめた。 そうして一年の歳月が幾重にも重なり、いつしか36年の歳月が過ぎ去っていた。

夫の稼ぎは思わしくなかった。 米軍は警備業務も韓国人に下請に出した。 間で下請の社長が金を取って行くので、賃金が豊かなはずがなかった。 二人の子供を育てるには、クァク氏も雇用を得なければならなかった。 クァク氏の事情をどこで聞いたのか、近所のおばあさんが彼女を呼んだ。 基地村の女性に部屋を貸す家主のおばあさんだった。 おばあさんはクァク氏に自分の家に家賃を払って暮らす基地村の女性の家を清掃して 洗濯する仕事をしてみないかと、そんな仕事ができるかと尋ねた。 ただ自分の家の洗濯、清掃をするようにすれば良いのだろう。 クァク氏はそうして雇用を受諾した。 初めは恐ろしかった町の風景も、だんだん馴染み始めた。 クァク氏が家事の世話をした基地村の女性が米軍について米国に渡っていくまで、 彼女はそこで働いた。

▲トッコリマウル[出処:ワーカーズ取材チーム]

村の風景に馴染んでも、日常の疲れにも慣れたのではなかった。 路地のあちこちにあふれる歓楽と狂気は、普通の人々の日常を揺さぶった。 男たちは仕事が終わると賭博をして酒を飲んだ。 夜になると光る道路に人々は一晩中溢れていた。 通りが豊かなほど貧しくなる人が増えた。 クァク氏は夫に米軍部隊の仕事を止めなければ、 一人でここから出ていくと喚いた。 米軍部隊の警備労働者として10年間働いた夫は、 クァク氏の言葉に勝てずに他の工場に職場を移した。

永遠かと思われた繁華な村の道は、1990年代中盤になると、衰退した通りに転落した。 米軍部隊を中心に形成された商圏と雇用も明らかに減った。 それでも働かなければ暮らせなかった。 クァク氏は仕事を探して転々とした。 村の農地を借りて5年間農業をしたし、 電子工場の労働者としても仕事をした。 スーパーのキャッシャーと刺身屋のサービス、 助産婦など雇用があれば片っ端から仕事をした。 そうして暮らしても、暮らしはいつも最悪だった。 工場に入って5年もたたずに夫は病気になり、クァク氏が45歳の年に死んだ。 当時、飯場で働いていたクァク氏は、子供を育て、夫の病看護をし、家事労働をして、 飯場仕事をしながら生計を立てた。 そして夫が死んだ時、この村は明らかに鬼で埋まっているのだと考えた。 彼女は働けば働くほど貧しくなり、病気にかかり、衰退していく村が心から嫌いだった。

あれほど多かった米軍と、基地村女性と、商人と、外部の人が痕跡をなくした頃。 それでもう道路に人々の声が聞こえなくなった頃。 町にLNG複合火力発電所ができるという知らせが聞こえてきた。 米軍のために、米軍によって興亡盛衰の道を歩いて捨てられたところに、 それで今は老人だけが残された村に、また恐ろしいことが行われていた。 米軍が占領軍のように入ってきた甘い村だから、またこんなことができるのか。 村の老人たちはこれ以上自分の人生と根拠地が巨大な何かから思うままにされるのを見ていられなかった。

2013年の夏。 チェ・ヒスン氏とクァク・ファスン氏、そして彼らをはじめとする100人ほどのトッコリマウルの住民たちは、 LNG複合火力発電所建設敷地の前に座込場を整えた。 子ども二人を前後に背負った女性たちと、村の老人たちは、毎日座込場で叫んだ。 全てが衰退して行くこの村に最後に残ったもの。 ここの自然を傷つけるな。 地方自治体と施行社はびくともしなかった。 建設工事の車両は毎日土ぼこりをあげて村を走り回った。 結局、その年の7月2日、数十人の老人が発電所建設現場の地面に並んで横になった。 彼らは建設敷地に入ろうとしていた工事車両をからだで防いだ。 婦人警官100人を含む400人の警察公権力が彼らを襲った。 警察の強制鎮圧で2人が失神し、5人が業務妨害で連行された。

▲キャンプ ホビー前のソンウアパート[出処:ワーカーズ取材チーム]

翌年の1月末、困難な闘争が一段落した。 施行社は発電所の稼動による窒素酸化物の排出濃度測定値を分期別に提出し、 法定規定分に違反すれば住民委員会と共同調査をすることを約束した。 発電所の雇用には住民を優先的に採用し、32億ウォンの村の発展基金を出すことにした。

そして住民たちは32億ウォンほどの基金で村に洗濯工場を作った。 一生洗濯を業にしてきた彼らにできる唯一の選択だった。 チェ・ヒスン氏はここでまた町の住民と洗濯をした。 米軍部隊の洗濯工場の時と違っているとすれば、 非正規職アルバイトの身分だということだった。 チェ氏は毎日二時間ずつ、最低賃金で働いた。 しかしすぐに工場の運営で不正問題が出てきて、 その上に深刻な赤字運営が続いた。 チェ氏は18か月後に、二か月分の月給と退職金を受け取れないまま工場から出た。 そして村の住民たちがたてた工場は外部の人に売却された。

村の入口にできたLNG複合火力発電所からは、毎日膨大な量の蒸気が吐き出される。 発電所の雇用に住民を優先採用するという約束も、 村の電気とガスを提供するという約束も、何も守られたものはない。 巨大なキャンプ ホビーと発電所で囲まれたトッコリマウルは、 誰も知らない間にまた排除と孤立の村として衰退していきつつある。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2020-03-31 09:12:42 / Last modified on 2020-04-04 12:46:08 Copyright: Default

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