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最後生き残った人、彼女はキム・ジンスクです

[寄稿]塩の花キム・ジンスクと『85号クレーン』

ソン・ギョンドン(詩人) 2011.03.30 10:37

これは小説ではない。だが小説よりさらに小説的だ。

この文を書かなければならないと思ったのは、もう3か月ほど前だが、私はこの 文章を書くことができなかった。みだりに書くにはあまりにも悲劇的な話だっ たからだ。十日ほど前から毎日座ってみたが、一文字も書けなかった。

そんな時も私はまた四編の追悼詩を書いて読まなければならなかった。双竜車 無給者のイム・ムチャン氏の追悼時で、23年前にシヌン精密で焼身したパク・ ヨンジンへの追悼時だった。サムスン電子で死んだ半導体労働者ファン・ユミ と46人への追悼時で、数日前、また双竜自動車労働者14人の死を追慕する詩だった。

だが最後の四つ目の追悼時を読み続けている途中で、私は本当に不思議な経験 をした。一瞬、私ではない誰かが私の中に入ってきて、私の代わりに詩を読み ながら泣いているのだ。私は妙な戦慄に包まれたまま、その人の代わりに泣き わめいた。この話の主人公になる人だった。始めて私はこの話が書けると思った。

この話は1975年以後、釜山のある造船所(大韓造船公社、現韓進重工業)をめぐ る人々の涙ぐましい話だ。いやその前から、その造船所で働いてきた人々の話 だ。いや、これはこの時代の小人たちのとても佗びしい現代史についての話で、 今を生きる平凡な人々の運命に関する話だ。

この話の主人公は五人だが、残念なことに4人は死に、1人だけ生き残った。生 き残った人は、今、そのうちの1人が首を吊った厳しいクレーンに上がっている。 今日で81日目だ。何日か前に追悼時を読んでいた時、私の中で、私の代わりに 勝手に文章を奪い取って読んだ人。キム・ジンスクだ。

弔問に行く時間が残業の次に長い工場

「朝礼の時にずらっと並ぶおじさんたちの背にみんな白い塩の花が咲いていて、 そうして立っている彼らは塩の花の木のようでした。それが本当に佗びしかっ たです。私の後に立っている誰かは私の背中に咲いた塩の花をまたそう見てい たのでしょう。塩の花を咲かせる木、黄金がたわわに咲く木、しかしその木は たった一個の黄金も占有できない」 - 『塩の花の木』より

溶接スラグで顔が割れ、目に溶接の火粉が入り痛くて声も出せなかった工場だっ たという。刑務所の飯より臭い麦飯にネズミのクソが混じりの弁当を工業用水 と混ぜて食べなければならない工場だったという。1か月の残業128時間、土曜、 日曜もなく毎晩8時まで働く工場だったという。飛んだ溶接の火花で焼けた作業 服をテープでベタベタつなぎ、雑巾のように縫って着て、冬も冷水で顔を洗い、 ネズミが走り回る生活館でネズミのようにぐちゃぐちゃに暮す工場だったとい う。いつ爆発するかわからないタンク中で虫のように這い回り、溶接をして、 切断をした工場だったという。真夏に感電事故ですべての血管が切れて死んで も、雨の降る日に足場から滑り落ち、ラーメンのドンブリのように脳髄がちり ぢりになって死んでも、海に落ちてぶよぶよにふやけて死んでも、労災が何な のかも知らない工場だったという。一年にも数十人の労働者が骨盤圧搾で、頭 部狭窄で、墜落事故、感電事故で死ぬ工場だったという。それで怪我をした同 僚の見舞いにいって、死んだ同僚の弔問に行く時間は残業の次に長い工場だっ たという。それでも御用労組は組合費を横領しようとちゃんと生きている組合 員のおばあさん、おじいさん、さらに子供たちまで書類上で殺し、相助費を恐 喝して行った工場だったという。

この絶望の造船所にキム・ジンスクは、初の女性溶接工として1982年、21歳の 時に入社した。中学校を卒業して家を出て、タイミングをくらいながら服地を 縫うミシン工暮しよりマシだと言われた。降りる時は先に右足を出せば轢かれ て死なないという122番華津旅客の市内バスの車掌よりマシだと言われた。きっ ちり5年働けば家も買え、車も買え、ぜいたくに暮せると信じられてもいた工場 だったという。

そんな21歳キム・ジンスクの人生はその後どうなったか? 『26歳で解雇され、 3回対共分室に連れていかれ、二回懲役に行き、手配生活5年、釜山市内のすべ ての警察署に行き、そうして青春が流れて52歳』の頭が白くなった解雇女性労 働者になった。

奪われたパク・チャンスの死

もう一人のこの小説の主人公であるパク・チャンスは、キム・ジンスクと入社 同期だった。江原道太白で生まれ、太白工業高校3年の実習期間中の1982年2月 に大韓造船公社訓練所(現在の韓進重工業職業訓練所)28期に入所し、6か月の 修習期間の後、8月に韓進重工業船舶工事部に入社した。

歳月が流れ、1986年のある日、パク・チャンスは工場正門の前で警備員と御用 労組幹部に踏みにじられるある女性を見た。前に勤労条件改善を要求する宣伝 ビラを配って解雇されたキム・ジンスクだった。パク・チャンスの心の片隅で も怒りが高まっていた。自然に彼らは『民主労組』という一つの船に乗ること になった。外ではキム・ジンスクたちが『造工労働者新聞』を作り、パク・ チャンスはこれをひそかに工場で入れて配った。

1987年6月抗争が始まった頃、彼らはその年の7月25日に初めて工場で立ち上がっ た。それまで何も言えずに受けた『刑務所の臭い飯よりひどい麦飯にネズミの クソが混じった弁当』を、数千の塩の花の木がいっせいに投げ捨てた感動の瞬間 だった。彼らが87年6月抗争を続け、本当に韓国社会を変革に率いた87-88年の 労働者大闘争の主役だった。

パク・チャンスはこうした時代の使命から逃げなかった。1990年、組合員93%の 圧倒的な支持で労働組合委員長に当選した後、全労協釜山労連副議長と、連帯 のための大企業労組会議(大企業連帯会議)の共同代表として、民主労組運動の 最先鋒に立った。政権は彼をそっとしてはおかなかった。1991年2月、議政府の タラグォンキャンプで開かれた大企業連帯会議修練会場で、彼は急襲した警官 に踏みにじられながら連れていかれた。

その後はよく知られている話だ。長安洞の対共分室からソウル拘置所に収監さ れた彼は、その年の5月4日、不審な怪我で安養病院に運ばれた。頭を38針も縫 う重傷だった。本当の事件はその次だ。5月6日の明け方、彼は尋ねてきた情報 機関の人に付いて行った後、病院の裏庭で変死体で発見された。1987年6月抗争 の導火線になったパク・チョンチョルの死ほどに大きな衝撃だった。当時警察 は全面ストライキを宣言してやってきた造船所の労働者と遺族と社会団体、学 生が守っていた病院の霊安室の壁をハンマーで壊して入り込み、パク・チャン スの遺体も奪っていった。有り得ないことだった。警察が発表した死因は、 『単純墜落死』だった。毎日のように人々が踏みにじられ連れていかれる63日 の長い闘争だったが、力不足だった。その年の6月20日、空が崩れるような気持 ちでキム・ジンスクは彼を胸に刻んだ。こうして一人の友人が往った。

私たちの時代の偉人、キム・ジュイク

この小説の悲しい二人目の主人公はキム・ジュイクだ。パク・チャンスが捕っ た議政府のタラグォンキャンプの会議にも参加した人だ。幸いにも当時、彼は 拘束されなかった。

生き残ったキム・ジュイクは、パク・チャンスの終えられなかった命も生きる ために最善を尽くした。警察と使用者側の指示で動く御用から民主労組を守る ために、すべてを捧げた。1994年、韓国初の船上ストライキだったLNG船上スト ライキを主導して拘束されたが、釈放後も粘り強い復職闘争で、また工場に戻っ た。また数年間の活動の末に、彼が民主労組の旗を立て直して委員長になった のは、2000年の10月だった。するとまた政権と韓進重工業使用者側の波状的な 攻撃が始まった。労使合意を一方的に破り、希望退職、名誉退職、整理解雇を 断行した。この過程で600人ほどが追い出された。

キム・ジュイクには選択の余地がなかった。当時、21年間働いて彼が受ける月 給は、基本給108万ウォンだった。各種の控除の後の手取りは八十何万ウォンだっ た。使用者側は労組幹部110人に18億もの損賠仮差押さえをかけ、キム・ジュイ クなど14人を告訴告発し、26人を懲戒委員会に回付した。会社が苦しいからで もない。2002年に韓進重工業は売り上げ1兆6千億、当期純益は239億ウォンの絶 好調の企業で、社主は毎年50億から100億もの配当を持っていった。

▲85号クレーンの上故キム・ジュイク支会長の姿[出処:金属労組]

2003年6月11日、キム・ジュイクは最後の決断をする。暴雨が降っていた明け方、 一人で100トンジブクレーン、高さ35mの『85号クレーン』に上がった。『私の 墓は85号クレーンだ。君たちが私の命をよこせと言うのなら喜んで捧げる』と いう切迫した呼び掛けだった。だがその決意を誰も信じなかった。警察はいつ も公権力をいつも投入し、国民の政府に続く参与政府という政権も『死が闘争 の手段になる時代は過ぎた』と言い切った。元気付けられた使用者側はキム・ ジュイクが命がけでクレーンにいる間、一度も交渉にも出てこなかった。

彼はすでにチュニョプとヘミンとチュナ、そんな2男1女の子どもを持つ中年の おじさんになっていた。普段とても本が好きで、少し時間があれば手から本を 離さなかった。クレーンから降りれば子供たちに『ヒリス』の運動靴を買うと いう気が利くお父さんだった。あどけない子供たちは「クレーンの上にいるお 父さんに。お父さん、ぼくが仕事を見つけるから、もうやめてくれませんか。 そうすれば運動会、学芸会で父さんに会えるから! 他のともだちはお父さんを 自慢するのに.. 私がすぐ仕事を見つけます! ファイティング!」と手紙を書き 送った。

彼はこうして『ヒリス』の運動靴を買うという子供たちとの約束と、弾圧を止 めなければ死んで降りるという約束の間で二つ目の約束を選んだ。2003年10月 17日、85号クレーンに上がってから129日目。彼はクレーンの手すりで首を吊っ た。次は彼が最後に残した短い遺書の最後の一節だ。「私の死の形態がどうで あれ、私の遺体がある所は85号機クレーンです。この闘争が勝利するまで私の 墓はクレーンしかありません。私は死んでも闘争の場を守り、組合員の勝利を 守ります。」

守らなくても良い約束を、守ってはいけない約束を、彼は守ってしまった。

涙の葬式、クァク・ジェギュ

この話の三人目の悲しい主人公は、もう一人の老いた労働者クァク・ジェギュだ。

死んでもクレーンの上から降りなかったキム・ジュイクを地面に降ろしたのは、 パク・チャンスとキム・ジュイクよりずっと前に造船所労働者になったクァク・ ジェギュだった。彼は当時、整理解雇対象から除かれた別名『生きた者』だっ た。彼はそれがとても申し訳なく、私がジュイクを殺したとし、キム・ジュイ クの遺体のない遺体安置所を毎朝訪れ、ひざまずいて涙を流したという。

他人のように話は上手くないが、クァク・ジェギュはキム・ジンスクとパク・ チャンスとキム・ジュイクが率先して戦う時、いつも一緒にいた心暖かい先輩 だった。1975年に中学を卒業し、造船所労働者になったクァク・ジェギュは、 学習への欲望が強く、産業体夜間高等学校の後、夜間専門大学まで出た勤勉な 労働者だった。溶接なら溶接、エンジン組み立てなら組み立て、造船所業務全 体を貫く有能な労働者でもあった。善良な人だった。

キム・ジュイクが85号クレーンを降りずに命を絶ってから半月。クァク・ジェ ギュは85号クレーン向かい側のドックの上で、恨み多い命を投げた。死んでも クレーンを降りられないバカな後輩に『勝利』を抱かせようとした涙ぐましい 投身だった。

2003年11月16日。キム・ジュイクとクァク・ジェギュの合同葬儀が行われた。 目を開けて見ていることができず、二度とあってはならない慟哭の葬式だった。 35メートルの高空クレーンからキム・ジュイクの遺体が降り、11メートル地下 ドックにあったクァク・ジェギュの遺体がこの土地に上がってきた。

[出処:チャムセサン資料写真]

キム・ジュイクとクァク・ジェギュの命が犠牲になって、政府と使用者側は降 伏した。経営が苦しく、整理解雇しなければならないという話は真っ赤な嘘だっ た。パク・チャンスとキム・ジュイクとクァク・ジェギュを賛える追慕公園が 造船所の中に作られ、整理解雇計画は白紙化され、労働組合の建物が5階福祉館 として立派に建てられて、30億をかけて食堂が新しくでき、賃金と成果給が上 がった。数十年戦ってもできなかった事が一日でできた。

闘争の鉢巻きを巻いたままほろ酔い気分で入ってきたというクァク・ジェギュ。 特に、カルククスとスイトンが好きだったというクァク・ジェギュ。彼の娘の キョンミンは、今も韓進重工業の横を通るときは、その絶望の工場を爆破して しまいたいという。彼の妻のチョン・カプスンは今も道ですれ違う背が低い男 を見ただけで、自転車に乗って出勤する韓進重工業労働者を見るだけで、涙が 出るという。

資本家が沈む太陽なら、労働者は昇る太陽、盧武鉉

だが、次に登場する人は意外な人物だ。あるいはこの小説のようでない小説 で、最も幸福でなければならない人だ。

彼も一時はこんな韓進重工業の労働者たちと一緒だった。『資本家が沈む太陽 なら、労働者は昇る太陽だ』と明るく話していた人だ。だから全泰壹烈士の命 日には共に香を焚いたりもした人だ。キム・ジンスクとは労働者も理論がなけ れば世の中を変えられないと、小サークルも一緒にした人だ。催涙弾の粉が雨 あられと降り注いだポムネッコル国民運動本部の屋上でマッコリを分け合って 飲んで楽しんだ人だ。

一体、彼は誰か? 故盧武鉉前大統領だ。一時はキム・ジンスクとキム・ジュイ クの同志であり、顧問弁護士だった人だ。短い縁だったが、彼も彼らと一緒に した時期があった。

だがキム・ジュイクが85号クレーンに上り、クァク・ジェギュがドック地下に 身を投げた時、あいにく彼はこの国の大統領になっていた。キム・ジンスクの 言葉を借りれば、むしろ『彼の時代に一番多くの労働者がクビになり、一番多 くの労働者が拘束され、一番多くの労働者が非正規職になり、そして一番多く の労働者が死んだ。軍事独裁の時期には立ち向かう労働者だけがクビになった が、彼の時代には誰もが切られた。庶民の友だった人が大統領になったのに、 金持ちと貧者の隙間ははるかに広がった』。核廃棄場建設に反対する扶安住民 も殴られ、帝国主義石油戦争のイラク派兵に反対した市民も殴られた。セマン グム開発に反対して生態開発を叫んだ住民も殴られ、農水産物市場開放に反対 する農民も殴られ、平沢米国基地移転拡張に反対する大秋里住民も殴られた。 韓米FTAに反対する国民も殴られた。キム・ジュイクとクァク・ジェギュの他に、 ペ・ダロ、キム・ドンユン、チェ・ボンナム、チョン・ヨンチョル、ホン・ド クピョ、イ・ヨンソク、イ・ヘナム、イ・ヒョンジュン、チョン・ヘジン、ハ・ ジュングン、パク・スイル、ホ・セウクなど、多くの労働者・農民・貧民が死 んだが、何一つ変わらなかった。生きる道が詰まった多くの人々が死んでいき ながら『自殺共和国』になり、不動産投機共和国になり、非正規職は800万を越 えた。だが彼はむしろ『企業に良い国』を約束して労働者民衆を遠ざけ、ハン ナラ党に大連立政権を提案した。87年6月抗争と7、8、9労働者大闘争を通じて できた手続きによる民主主義が、職場と生の場所の実質的な民主主義に移行し ていくべき歴史的な過渡期に、彼は多くの哀訴にもかかわらず、超国籍資本の 利害にこたえる別名『左派新自由主義者』としての路線を忠実に進んだ。

だが、そのようにしてパク・チャンスとキム・ジュイクとクァク・ジェギュと キム・ジンスクから離れた彼の暮しも幸せではなかった。2008年5月23日、彼は 歴史の敗北者になり、一人淋しくボンハ村のみみずく岩に上がらなければなら なかった。彼の死は実際、出口を失った1987年6月体制の死だった。どこにも行 く道を失い、絶望に陥り、歴史の迷子になった彼の遺書には、キム・ジュイク が死をかけても守ろうとした『闘争の広場』も、どんな社会的・歴史的な未練 も残っていなかった。悲しいことだった。

そんな根元から始まった四人の運命は、道は違ったが終わりは同じだった。無 慈悲な資本の秩序による社会的他殺だという点が同じだった。超国籍資本の時 代に、ハエ一匹の命になる歴史的庶子の運命のようだ。こんな残酷な資本の時 代に耐えられなかったという点で似ている。ただし加害者の側に立ったのか、 抵抗する人の側に立ったのかが違うだけだ。先に往った彼らに問うことはでき ないが、私はそれで盧武鉉が一国の大統領までした偉大な人だったとしても、 その生活の価値はキム・ジュイクとクァク・ジェギュに至らないと思う。長い 歳月が必要だろうが、朝鮮王朝時代どの王の名前より、騒動を率いたチョン・ ボンジュンとキム・ゲナムが歴史に長く残る理由だろう。

解雇は殺人だ

では、これらすべての死を通過して勝利した者は誰か。

韓進重工業。そうだ。三星グループ。そうだ。現代自動車。そうだ。双竜自動 車。そうだ。大宇自販。そうだ。コルトコルテック。そうだ。ヴァレオ空調。 そうだ。才能教育。そうだ。全州バス。そうだ。李明博。そうだ。

現象的に見れば、そうだ。パク・チャンスとキム・ジュイクとクァク・ジェギュ の命を飲み込んだ韓進重工業は、今年も最後に残った工場人員の1/3の400人を 整理解雇すると言っている。十数年で数万人もいた労働者が、800人ほどしか残 らず、すべてクビになった。ほとんどは非正規職になった。この隙に工場は数 兆ウォンをかけ、フィリピンのスービックに移転した。2010年だけで非正規職 を含む3000人ほどがクビになり、300人が強制休職になり、蔚山工場が閉鎖され た。経営が危機だったのか。とんでもない。2011年、今年また270人ほどを希望 退職で整理して、残った170人ほどに整理解雇通知した翌日、代を継いだチョ・ ヤンホとチョ・ナモ、チョ・スホ社主一家は176億の高配当を持っていった。

韓進重工業だけだろうか? 『イ・ビョンチョル会長の息子が李健煕会長で金持 ち1位になり、またその息子の李在鎔常務が金持ち2位になる国。鄭周永会長の 息子が鄭夢九会長になり、またその息子チョン・ウィソン副会長が財界4位にな る』国だ。すでに900万もの労働者庶民が非正規職の奈落に落ちたが、それで終 わらず、今日も『社会的殺人』そのものである整理解雇と非正規職化、公共部 門の私有化など、資本の危機を労働者民衆の危機に転嫁する構造調整は絶える ことなく続く。

また85号クレーン、キム・ジンスク

そして2011年1月6日。午前3時。ある女性労働者が一人でキム・ジュイクの霊魂 がまだ降りてこられずにいる85号クレーンの冷たい手すりをつかんで上がった。 使用者側が整理解雇リストを発表する前日だった。8年前、キム・ジュイクとクァ ク・ジェギュが死で守った民主労組と、組合員の生存権がすべてこなごなになっ た時だった。最後生き残った者。キム・ジンスクだった。

彼女は8年間、部屋で火をたかずに暮した。85号クレーンで一人で寒さと孤独に 震えて死んだキム・ジュイクのためだった。そんな彼女が、なぜか1月5日の晩、 一緒で暮らしていた後輩のファン・イラに、一緒に食事をしようと言って、8年 ほど行かなかった浴場に行ったという。二日前には始めて8年間火をたかなかっ た部屋にボイラーをつけたという。そうして入浴して夜遅く出て行った彼女は、 夜明けに携帯メッセージを送ってきた。『驚かずに机の上の手紙を読め』とい う携帯メッセージだった。『海千山千、みんな体験したと思ったが』、『平凡 ではない生活を送り、多くの決断の瞬間があった』が、『85号クレーンがどん な意味かを知っているので』、『今回の決断の前、とても悩』んだと言う。いっ たいその煩悶がどんな意味なのだろうか。私はいきなり涙があふれ、考えるこ ともできない。

彼女はその意味を知っているから、自分だけは『ジュイク氏ができそうもない と思ったこと、とてもやりたかったのに、結局できなかった、自分の足でクレー ンから降りるということを必ずやります』と話している。『この85号クレーン がもはや死ではなく、もはや涙ではなく、もはや恨みと腹立たしい悲しみでは なく、勝利と復活』の場にしようと、『まだ85号クレーンの周りをぐるぐると 回っているジュイク氏の霊魂を抱いて、必ず生きて降りる』と言う。

▲85号クレーン上のキム・ジンスク指導委員[出処:金属労組釜梁支部]

みんなが心配しないように、零下10度前後のクレーンの上で、むしろ『空気が きれいで、眺めがよくて、一番いいのは何かご存知ですか? みんなひと目で見 えます。ちょっと部屋が小さいけれどバルコニーも広いです。春がくれば菜園 を作り、秋に収穫します』と冗談を言う。『まだ水脈が見つからない』、『歯 磨きは偶数日だけ』と、『ユン・ソクポム同志が結婚する日は必ず顔を洗う』 という。『35mのクレーンの上で焼きイモ食べたことがある人』はいるかと聞く。 服役した時は一日4520ウォンくれたが、今日からは一日損賠100万ウォンの人間 になったと、ようやく私の価値が認められたようだと喜んでみせる。

上がってみると『仲間たちがたくさん集まった日は生の側に、仲間たちが集ま らない日は死の側に危険に揺れながら』129日間がんばったキム・ジュイクの気 持ちが分かると、キム・ジュイクを殺したのは、あるいは私だったのかもと書 いたりもする。双竜自動車解雇労働者のように皆が個別化され、佗びしく死ぬ なという。『生きている者と死んだ者は、彼らの分断でしかない』という。 『私たちは昨日も一つで、今日も一つ』、『私たちの団結という防弾チョッキ』 を着て、最後まで団結して、必ず勝利しようという。

韓進重工業には、私たちだけが通っていたのではないという。『一生、朝食の 仕度をして、夫が出勤ている間も少しも安心できなかった妻も通ったし、お父 さんが帰ってくる時間を首を長くして待ち、お父さんの顔を描いてねむる子供 たちも通っていたし、心労焦燥して息子が心配で一時も気楽な日がない両親も』 通った工場だという。いったい数十年間『日曜日も特別勤務に出て行った』私 たちのどこが悪いのか、どうして私たちが経営を苦しくしたのかという。『妻 や子の横にいる時間より、会社にいる時間のほうがはるかに長かったあの人が、 いったいなぜこんなに会社を難しくできるの』かと言う。自分は『イェジュン の二歳の誕生日もこの工場で見て、ミンソクが三歳になるのもこの工場で見て、 ユジュが学校に入るのも、タリムが中学生になるのも、ヒョンソが健康にしっ かり育つのも、この工場で』見守るとし、みんな一緒に戦おうという。

これらすべては他人の話ではない。私はこれほど惨めでありながらも美しい 文学を読んだことがない。

『1970年に死んだ全泰壹の遺書と、世紀を越えた2003年のキム・ジュイクの遺 書が同じ国。世紀を越えて、地域を越え、業種を越え、子々孫々続く資本の連 帯はこんなに強固なのに、私たちはどれほど連帯しているのでしょうか。私た ちの連帯はどれほど強固でしょうか。非正規職を、障害者を、農民を、女性を 無視しては、私たちは資本に勝てません。いくら恐ろしく、いくらくやしくて も、私たちはたった一日も彼らに勝てません。彼らがまともに勝つのではなく、 私たちが連帯できずにやられているのです。毎日私たちだけが死に、毎日私た ちだけが敗北しているのです。いくら慟哭して、もがいても、彼らの手中から 一時も抜け出せません。この胸が潰れるような怒りを、血が逆流するようなこ のくやしさを、いつかは返さなければなりません。父母の日、ヤクルトの瓶に カーネーションをさしてお父さんを待っていたヨンチャン。お父さんの顔を描 きながら、仕事を見つけるから大好きなお父さん、はやく帰ってといったヘミ ン。その子供たちが暮す世の中は、少しは変わらなければなりません』という 時代の絶叫を私は聞いたことがない。これほど美しく尊い人間の言葉を聞いた ことはない。

共に行こう、この道を

彼は今、韓進重工業の同僚労働者とその家族だけのために戦っているのではな い。この悲しい話は、今の時代の平凡な人々が一緒に暮らしてきた一時代の話 だ。今ここで暮すすべての人の運命に関する話だ。

私はここであえてそんなキム・ジンスクを『小英雄主義』だの、『手続きと指 針』に従わず組織を壊す非組織的な行動とか言う人に話をする理由は感じられ ない。自発的に組合員が張ったテントを撤去して、『使用者側の協力を得て、 会社のCCTVを分析して』、誰がキム・ジンスクが上がるのを助けたのかを調査 して、キャンドル文化祭の音響提供も拒否し、クレーン座り込みの初期にキム・ ジンスクを非難したという韓進重工業労組指導部について話す必要もないと思 う。むしろその後、団結して、今また高さ47mの第2岸壁クレーンに上がった金 属労組釜山梁山支部長、ムン・チョルサンと韓進重工業支会長チェ・ギリョン のことを考えて、近くの巨済島でまた非正規職撤廃を叫び、15KWの電流が流れ る送電塔に『シンナー』を持って上がったというキム・ジンスクのもう一人の 友、カン・ビョンジェだけ話せばいいと思う。

14人の同僚を失い、今日も街をさまよう双竜自動車労働者と、その追慕祭が開 かれた日、才能教育本社前で削髪して断食を宣布した才能教育非正規職のユ・ ミョンジャとその同僚の話も身にしみるが、あえてしなくてもいいと思う。大 法院の判決による正規職化要求をしたところ、拘束され解雇され懲戒されて、 蔚山現代車工場の前で今日も連行される現代自動車社内下請非正規職の話をあ えてしなくてもいいと思う。梨花大と高麗大と延大で座り込みをしていた清掃 用役労働者を、フランス大使館前でもう何か月も野宿をしているヴァレオ空調 コリアの労働者を、また何年も戦っている国民体育振興公団の非正規職を、こ れからまた通りで座り込むことになった大宇自販の労働者を、また櫓を作って 上がったという全州バス労働者を、5年間偽装廃業した工場を守り、編物で一日 を送り、基金を作るためにCMS申込書を作ったから一度見てくれと送ってきたコ ルト-コルテック・ギター作っていた労働者のことをあえて話さなくてもいい と思う。

こんな時、民主労総が立ち上がり、金属産別が立ち上がり、サムスンで、双竜 自動車で、そしてまたどこかで死んでいく労働者について汎国民的な抵抗を始 めるべきだと、毎日青瓦台と全経連と経済人総連に進撃する闘争をせざるをえ ないのではないかと、あえて話さなくてもいいと思う。

この話の主人公だった盧武鉉の継承者たちが今すぐすべきことは、パク・チャ ンス、クァク・ジェギュ、キム・ジュイクの友であるキム・ジンスクがまた 『85号クレーン』に上がったように、新自由主義という野蛮の行進を止めるみ みずく岩に断じて上がることについてあえて話さなくてもいいと思う。リップ サービスではなく、本当の民主大連合を望むのなら、今またキム・ジュイクと クァク・ジェギュの背を押さず、時代に懺悔しながら、今すぐに助けが必要な 人々のところに駆け付けて『勝てなければ生きて帰らない』というキム・ジュ イクの決意ほどの真心を見せろとあえて話さなくてもいいと思う。

これは今の時代、すべての運命に関係する話だ。あの下の方の海辺でのことだ からといって、遠くに見えるのではない。いつあなたと私がまたこの小説の主 人公になるかもしれない。共に立ち上がり、、私も塩の花の木キム・ジンスク がキム・ジュイクの悲しい霊魂を美しく抱いてあの85号クレーンから降りられ るようにしよう。私たちの時代が苦しむすべての隣人たちを共に抱き、もう少 し安全で、平和で、平等な社会に進めるようにしよう。

その為に、もう一歩だけわれわれ自身の未来のために、今、力が必要な人々の ところに共に駆け付けよう。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2011-04-02 01:44:44 / Last modified on 2011-04-02 01:44:45 Copyright: Default

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