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LNJ Logo 美術館めぐり:東京都美術館「ミロ展」
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 志真斗美恵 第12回(2025.6.23)・毎月第4月曜掲載



●東京都美術館「ミロ展」

どこまでも自由を求めて―ジョアン・ミロの世界

 「ミロ展」を見るため、東京都美術館に行った時は、上野の山には桜が咲く気配もなかった。ところが、今は熱中症を心配している。会期は3月1日から7月6日までと長く、私は、ジョアン・ミロ(1893-1983)を愛している1人で、展覧会が始まるとすぐに訪れた。 展覧会のチラシに、〈夜空に描かれた希望――「星座」が織りなす詩〉と書かれている。「星座」シリーズは、代表作とされる。23点あり、第2次世界大戦下の生活の中で、持ち運び可能なように制作された長辺50�僂燭蕕困両�品である。今回は「明けの明星」「カタツムリの燐光の跡に導かれた夜の人物たち」「女と鳥」の3点が展示されている。

 展覧会は、章立てがなされている。第1章は「若きミロ 芸術への決意」。ミロは、父親の意向で一旦は会計の仕事につくものの画家の道をあきらめきれず美術の道に進んだ。故郷スペインのカタルーニャの土の色・茶褐色を基調とした「ヤシの木のある家」(1918)や生涯ピカソが持っていたといわれる「自画像」(1919)が目をひく。

 第2章「モンロッチ―パリ 田園地帯から前衛の都へ」。パリではシュルレアリスムの詩人や作家と交わった。「オランダの室内�機�(1928)は、17世紀のオランダの画家の作品「リュートを弾く人」を、奔放なミロの発想によって、色彩や形態を再構成したもので、すでにミロの本領をうかがうことができる。

 第3章は「逃避と詩情 戦争の時代を背景に」。1936年にスペイン内戦が勃発し、翌年にパリ万国博覧会が開かれると、ミロは大壁画「刈り入れ人」(行方不明で今は、写真でしか見られない)を制作した。この時出品されたピカソの絵画「ゲルニカ」は、その後の変転も含めて有名だが、ミロは、今回展示されているポスター「スペインを救え」も展示した。巨大な握りこぶしを掲げたカタルーニャの農夫を色彩鮮やかに描き、その周りには「スペインを救え」「1フラン」という文字がある。さらに、署名入りで、フランス語の文章も書かれている。その収益金はフランコ軍と対峙する人民戦線政府への援助になった。

 第4章は、「夢のアトリエ 内省を重ねて新たな創造へ」。作品をカバンに詰め転々とした生活が終わりスペインに帰国したものの、フランコ独裁は続き、カタルーニャに対する弾圧も終わらなかった。カタルーニャ語は使用禁止で、集会の自由はなく、ミロの作品はスペイン国内では見られなかった。「この苦難こそが、ミロの自由で奔放、時にはユーモアを織り交ぜる独自の作風を生み出した」とミロ財団のダニエル会長は語っている。

 最終章の第5章「絵画の本質へ向かって」には、70年代に制作した大作が並んでいる。白いキャンバスに思いきり黒い絵の具をたらす(「花火��~�掘廖法�キャンバスを焼く(「焼かれたカンヴァス2」)など、さまざまな試みがなされている。陶芸や立体、ポスターの展示もあり、ミロの全体像がよく分かる。
     (2025.3.1〜7.6 東京都美術館)

 最近、たまたま実家に預けていた本の整理をしていると、1984年発行「ミロ回顧展」の図録(182頁)が出てきた。冒頭の主催者あいさつに、生誕90年記念展として企画したつもりの展覧会が、前年(1983)12月25日にミロが亡くなり追悼展になったと書かれていた。1966年、大岡信の、来日したミロと会ったことから書き始めている「ジョアン・ミロ―大地と自由の証人」。1940年に世界で初めてミロに関する本を書いた瀧口修造(1903-1979)の詩「ジョアン・ミロに」と彼の文章が掲載されている。フランスのシュルレアリスムの詩人・ブルトン(1896-1966)、エリュアール(1895-1952)、プレベール(1900-1977)等のミロへのオマージュなども載せられていて、思わず読みふけってしまった。

〈美術短信〉
 ちひろ美術館・東京で、「ヒロシマ🍅トマト 司修展」が7月21日まで開かれている。(9月5日〜11月9日まで安曇野ちひろ美術館に巡回予定)

 司修は、1936年前橋市生まれで、9歳の時前橋空襲を体験。中学卒業後、独学で絵をまなぶ。絵本、版画をはじめ、書籍の装幀、挿絵にとどまらずに、小説、エッセイ、脚本、批評、映像等で幅広く活動を展開し、89歳になるいまでも活躍を続けている。(私は、司の岩波新書『戦争と美術』を持っていて、『図書』の表紙絵と文を司が担当していた時には、毎回楽しみにしていた)今回の展覧会は、彼の世界に迫ろうとしている。絵本『まちんと』(文・松谷みよ子1978 偕成社)の原画のすべてが展示されていた。1945年8月6日の朝、広島で被爆した少女が「もう少し=まちんと」とトマトをねだりながら死んでしまう話である。どのように絵本にしようかと逡巡して、司は、大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』(岩波新書)を読み、1年かけて絵を描き、出版社と松谷との打ち合わせに行く。そのあと、いったん描いたものすべてを破棄し、さらに1年かけていまの形に仕上げた。そして、1983年の改訂版の際に2枚書き足し、既存の絵にも手を入れた。それによって、いっそう〈広島の原爆〉は遠いことではないことが私たちに伝わる。

 同時に、「アンデルセン生誕220年 ちひろと見つめるアンデルセン」も開かれている。


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