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「戦争へのハードルが下がっている」〜作家・映画監督の森達也さん講演会

    林田英明

 垂れ目の奥から、時代を見据える視線が鋭い。作家で映画監督の森達也さん(60)が5月28日、福岡市で講演、自主規制が漂う日本社会の画一化に抗う姿勢に108人の参加者が熱い質疑で応じた。PP21ふくおか自由学校主催。森さんは大学卒業後、回り道をしながらテレビ番組制作会社に転職。ディレクターとして報道とドキュメンタリーに携わってきた。最新作は、佐村河内守氏を追ったドキュメンタリー映画『FAKE』だ。

 この日はまず、1999年に制作した『「放送禁止歌」〜唄っているのは誰?規制するのは誰?〜』を上映。日本民間放送連盟が1959年に定めた内規で「要注意歌謡曲」に指定されると、差別を恐れる勝手な思い込みに責任逃れが加わって、法的拘束力はないにもかかわらず『竹田の子守唄』などまで自主規制が進んでしまった事実を、歌手のみならず民放連や部落解放同盟まで多角的に取材して明らかにした。フジテレビの深夜帯だったにもかかわらず反響を呼び、再放送限度の2回、オンエアされたという。現在、ユーチューブで視聴することができる。

●「自由」が怖くて自縄自縛

 森さんは「日本のメディアは世界のトップテンに入るほど自由」と紹介する。それでは、なぜ自主規制がこうも簡単に生まれるのか。「逆に、自由が怖くなるから」と明かす。「広い原っぱで遊ぶのが怖い。そこで自ら標識を作って『こっちから向こうは危険』とし、手前で遊ぶ。いつしか標識を作ったのが自分だということも忘れてしまう」と心情を告げ、「何か分からないけど、やるのをやめよう」と放送する側に自己保身が働くのだ。森さんは、日本の横並び意識の強さを指摘しつつ、「これでは歌が死ぬ。表現が死ぬ」と自縄自縛を嘆じた。ナチズムに傾倒したドイツを考察したエーリヒ・フロムの『自由からの逃走』を挙げて日本の現況と重ね合わせたのも分からないではない。

 米国にも放送禁止歌はある。しかし、それを決めるのは個人である。暗黙のルールが全局を覆い尽くすような一色化はない。ベトナム戦争時にクリーデンス・クリアウォーターが歌った『雨を見たかい?』は放送禁止となった。天気雨の風景に揺れる心を歌っているように見えるが、「雨」はナパーム弾を指すものとされた。愚鈍な中学生だった私には曲の存在すら記憶にないが、多感な高校生だった森さんは自ら訳して強く感じるところがあったようだ。個人の判断として流す局もあれば流さない局もあるのが米国である。人類の平和を願うジョン・レノンの『イマジン』をニール・ヤングが「9・11」の米同時多発テロ直後の犠牲者追悼コンサートで歌う姿を「カッコイイ」と森さんは評する。自粛リストのこの一曲も、流す局はある幅の広さが日本とは違う。「米国はどうしようもない国だが、表現に関しては骨格がしっかりしている」と森さんは認めざるを得ない。

●組織と個人の違いの差

 日本との彼我の差はどこに原因があるのか。「答えは組織と個人の違い」と断じる。「日本では『社員A』『社員B』になってしまう。その時に優先されるのは組織」と続け、個人が踏ん張れば「ジャーナリズム」だが、組織が表に立てば「広報メディア」と化すと説く。

 組織に縛られる部分はどうしてもある。日本は株式会社が中心であり、営利企業としての性格を脱することは不可能だろう。しかし、営利すなわち部数や視聴率が最優先されれば、大多数が喜んで欲しがる分かりやすい内容に堕してしまう。森さんは「それでいいのか」と問いかけ、企業としてのリスクはあっても「見たくなくても見てください」と火中の栗を拾う反骨精神に期待する。「個人の感覚が組織の中で消えかかっている」と挑発すらした。それだけ危機感が強い。

 ここで話は人間社会に移る。直立二足歩行を始めた人間は、天敵だらけの自然界にあっては弱小だ。そこで群れをつくる。一人では生きていけない弱さゆえの本能。森さんは、たたみかけてくる。「群れは一斉に動く。同調圧力が働く。そして強いリーダーの言葉が欲しくなる。不安や恐怖があるからだ」。1990年代にインターネットが発達していく過程で情報も単純化、二元化されていく。「敵か味方か、社会全体が二項対立を求める」と核心に迫り、オウム真理教や朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)などを頭から悪とし危険視することで、より一層、集団化が進んでいくと解説した。

 森さんには、オウム真理教に密着し社会との関わりや影響を監督として追求した映画『A』(1998年)と『A2』(2001年)がある。映画祭など国内外で高い評価を得ながらも上映する場は極めて限られ、日本では多様なものの見方を考えづらい状況になっていると感じるからこその強い発言だ。

 2013年には北朝鮮を訪れ、平壌を観光した。人民服か軍服姿の小柄な男女ばかり。がたいのいい森さんは人民服を買おうと女店員に尋ねたが「あなたのサイズはないわよ」との返答。「金正恩(キム・ジョンウン)がいるじゃないか」と最高指導者の名を出したら店員たちの爆笑を呼んだという。スマホやパソコンは国外にはつながらず、新聞は朝鮮労働党の広報機関紙で、事件報道の社会面などない。「世界から狙われている」「わが国は米帝と、かいらい国家・日本に襲われかねない」と国民は日々吹き込まれる。話せば感情のある一人一人も、情報が遮断されれば防衛のために戦いの先頭に立つ。「独裁国家が成り立つのは、メディアが機能しないから」と森さんは感じ入った。

●恐怖の裏返しの自衛意識

 安倍政権の日本はどうだろう。国際NGO「国境なき記者団」の世界報道自由度ランキングで今年72位まで転落していても、ブービーの北朝鮮よりはるかに上だと自慢すべきなのか。そうではあるまい。ベトナム戦争時、現在と同様、米国追随路線を歩んでいた政府・自民党は、TBSの田英夫キャスターが現地に入って「北ベトナムは負けていない」と報道したところ、反米的とたたいてTBSの首脳に圧力をかけた。放送免許更新停止もちらつかせたのか、田キャスターは降板となる。2016年の現実と何やら似ている。だが当時は、メディアは毅然と対応したと森さんは見る。市民の支持もメディアにはあった。ところが、今は新聞・テレビの大手メディアへの支持が弱まっている。社会全体が右傾化していることも背景にあるようだ。「政治、社会、メディアは三位一体」と森さんは言う。全体の軸が国家主義へと動いている。メディアだけの責任ではないものの、メディアがジャーナリズムの理念を捨ててコケてしまえば日本の在りようは一気に変わる。

 「絆」という言葉がある。和をもって貴しとなすなら、その精神は気高い。しかし、不安や恐怖の裏返しとしての「絆」なら集団化へ一直線に向かう。「わが社」「わが町」「わが国」「わが軍」……。森さんは「主語が大きくなると述語も大きくなる」と警戒し「成敗する」へ結びつくことを恐れる。

 「9・11」後の米国民を襲ったのは、異質な集団による不意打ちへの恐怖。ここで、ジョージ・W・ブッシュ大統領(当時)が「敵か味方か」と正邪二分法の短い言葉で人心を掌握した。森さんは「自衛意識が高まると、敵をつくる必要がある」と話す。愛国者法を成立させた米国は、その後、アフガニスタン、イラクへ侵攻し、今も「イスラム国」(IS)をはじめ敵を探している。米国に限らず、世界中の軍隊は「自衛」のために存在し、「侵略」を掲げる国家はない。過剰な自衛意識のコントロールが難しいのだ。

 日本は湾岸戦争後、自衛隊の海外派兵はあっても辛うじて「敵」に弾を撃つことはなかった。しかし集団的自衛権の行使を伴う安全保障関連法は3月に施行され、いつでもその準備はできている。安倍晋三首相は何度も「私は立法府の長」と言い間違えながら恥じるところはない。「昔ならアウト」と森さんは辞任に匹敵する放言だと突き放すが、国民は安倍内閣を4割台の支持率で見守る。森さんの言うように、東日本大震災と原発震災が、むしろ強いリーダーを望んでいるのだろうか。なるほど、石原慎太郎氏や橋下徹氏といった政治家が支持される空気は、仮想敵国を前にして自分たちの自由を束縛するリーダーに全権を委ねようとしているようにも映る。

 森さんは歴史を振り返り、明治政府の脱亜入欧のいびつさを挙げた。植民地とならず、ヨーロッパの列強に伍したプライドがアジア蔑視から抜け出せない。だから、第二次世界大戦で中国に負けた事実から目をそらす。「根拠のない優越感」と森さんはあきれ、戦後、経済大国でアジアの覇者となると今度は「優秀な民族」と鼻を高くする。「何の根拠もない」と、これも一蹴した。「世界の差別は宗教と民族から来る。ところが日本は部落差別。なぜこんな差別が生まれたのか。自分たちより下の存在が欲しい。少しでも上にいたい、さもしさではないか。これこそが自虐史観だ」と怒りをあらわにする。

●消されていく加害責任

 大阪市の大阪国際平和センター「ピースおおさか」が4月にリニューアルされ、満州事変から太平洋戦争までの「15年戦争」の展示コーナーが消え、旧日本軍の加害行為や侵略を自省することはできなくなった。被害としての大阪空襲がメインとなる。表情は変えないが、森さんの沸点が高くなっているのが分かる。「人間の歴史は集団の誤りの歴史。個人ではない」と語気を強めた。気のいいオッチャンが戦場に行けば、集団の一人として残虐な行為に手を染める。「正義」を与えられれば罪の意識もない。「ヘイトスピーチも一人ではしないよね」。確かに、在日特権を許さない市民の会(在特会)はネットという集団を味方にして雄たけびを上げている。

 かつてのような軍事国家に日本がなるとは森さんも思ってはいない。だが、自己を相対化できるかどうかが運命の分かれ道のようにも聞こえた。集団への帰属性が高く、自己規制が強い国民性。戦争へも加害の反省が薄く、人によっては全くない。むしろ、中韓に対して嘲笑すらし、歴史を捏造しているのは向こうだといきり立っている。司馬遼太郎が日本人の特性として「一極集中・付和雷同」を挙げていると森さんは示し、同時に中韓の人たちの心奥には「日本は集団になったら、とてつもないことをやる」と警戒を隠していないと付け加えた。ドイツのメモリアルデーは1月27日と30日。アウシュビッツ解放の日とヒトラーが内閣を組閣した日である。加害の日とファシズムが始まった日をドイツ人は心に刻む。一方、日本のメモリアルデーはどうか。8月6日、9日、15日が大勢だろう。原爆投下と終戦記念日。東京大空襲や沖縄慰霊の日を入れる人もいるかもしれない。しかし、いずれも加害ではなく、被害の始まりと終わりの日である。

●遺族の思い知ればこそ

 質疑の時間も濃密だった。中でも「元少年A」による『絶歌 神戸連続殺傷事件』出版批判への森さんの異論が聞き逃せない。メディアやネットでは、被害者遺族に断りもなく望まない出版をした元少年Aと出版社に対し非難の同調がある。森さんは、本の内容についての批判ならともかく、遺族感情を理由にするのは間違いだとはっきり言う。理由は次の通りだ。「報道の人間は、事件が起これば遺族を2次被害で傷つけるかもしれないと分かっていてもニュースにする。それなのに今回は、手のひらを返したようになぜ遺族感情を持ち出すのか。全く理解できない。表現は人を傷つけるが、やらなければいけない時がある。遺族感情を理由に表現をやめれば、原爆ドームもホロコーストも消えてしまう。それではスペイン内戦時の都市無差別爆撃を描いたピカソの『ゲルニカ』や丸木位里・俊さんの『原爆の図』はどうなる」

 そして、ある講演会場でのやりとりも再現した。「死刑廃止を主張する森さんが自分の子どもを殺されても犯人を殺すなと言えるのか」との問いに「そうなったら、自分で犯人を殺します」と答えて質問者を驚かせ、会場を異様な雰囲気に包み込んでしまう。やがて「ダブルスタンダードだ」との声が上がる。森さんは率直に二重基準を認めて、こう言う。「その瞬間、僕は当事者だから当たり前。だけど、いま僕は非当事者で、非当事者には非当事者の役割がある。全員が当事者になったら社会は壊れる。今の社会は、みんなが被害者感情を共有しようとしている。でも本当に共有はできない。遺族にたくさん会っているが、彼らは皆、自分を責める。あの日の朝、『きょうは行くのをやめたら』と声をかけてたら(わが子は)刺されてなかった。私が悪いんだ、と。地獄の思いです。そういう気持ちを誰も共有してない。そういう人に限って『遺族の思いを知れ』と言う。冗談じゃない。新聞読みながら、おせんべいかじりながら共有できるようなものではない。でも、そういう人は共有できた気分になっている。で、『おまえは遺族の気持ちを分かってない』と人を攻撃するパターンが多い」

 断片だけとらえればバッシングの大合唱になりかねない強烈な主張である。しかし、本音をさらして世に問う覚悟が森さんにはあった。ある新聞社の求めに応じて『絶歌』出版批判への反批判のコメントを上記の趣旨で寄せたところ、穏当な表現に変えられてしまったという。記者からは「森さんの身を案じておもんぱかりました」と釈明が返ってきたが、これも無用な自主規制だった。

 加害意識を忘れた集団は、暴走すると止まらない。「戦争へのハードルが下がっている」と静かに語る森さんの、絶望に満ちた憂いは深い。


Created by staff01. Last modified on 2016-06-07 10:17:51 Copyright: Default

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