本文の先頭へ
LNJ Logo 報告(笠原眞弓) : 関東大震災90周年 ほうせんかの夕べ
Home 検索
 




User Guest
ログイン
情報提供
News Item 0907kasahara
Status: published
View


関東大震災90周年 韓国・朝鮮人犠牲者追悼式とほうせんかの夕べ
粛々とそして陽気に犠牲者を悼む

             報告=笠原眞弓

9月の第1土曜を追悼の日と決めて32回目を迎えた7日は事件が起きてちょうど90周年だった。私もプンムル(韓国の民俗芸能・別名農楽)の一員として参加するようになって、10年以上が経つ。虐殺が行われたという木根川橋たもと、荒川の河川敷(旧四ツ木橋)で、今年も追悼式が行われた。

堤防のすぐ内側の、追悼碑にまずお参りした。やっと仮に建てられたこの碑をめぐっては、長い年月の国とのやりとりがあった。本来は事件のあった河川敷に建てるべきものだが、1級河川の河川敷には、恒久的な建造物は建てられないということで、未だに認めてもらっていない。以前追悼式のあとに必ず寄っていた飲み屋のオヤジさんのご好意で、土地を提供していただき、4年前にやっとたったのである。その碑の周りには、韓国の国花であるムクゲの数種、どんなに踏みにじられても春には花を咲かせる鳳仙花、そして韓国人の好きなチンダレ(朝鮮ヤマツツジ)が所狭しと植えられている。手入れは、近所の方々が黙ってしてくださっているとか。敷かれた小さな玉石も洗われて清々しい。

いつもと変わらないメンバーが、いつものように受付をしている。毎年見えている方たちに加えて、今日は大勢の方がいらしている。毎年追悼歌を歌ってくださる李松子(イソンジャ)さんは、お父様が自警団に追いかけられ、近所の日本人に匿われて北海道に逃れて生き延びたとか。

挨拶にたった辛淑玉(シンスゴ)さん(写真上)は、「私は3代続いたチャキチャキの江戸っ子です」といい、おばあさんが、いつもは日本語なのに、夜中に起きて部屋をあったこちするときだけ韓国語だったと。韓国人の友だちと話していて、「うちも」「うちも」と言っていた。それは、震災後の虐殺の悪夢が体に染み付いていたからだという。それなのに、北朝鮮に“帰還”した夫やその弟とは行動をともにせず、「私のふるさとは日本」と言って亡くなったいうことだ。

今年は、珍しいお客さんを迎えていた。それは、中国人の、やはりあの時の犠牲者の親族(写真上)で、中国からいらした。最近の新聞で読むまで、私は中国人犠牲者については、全く知らなかった。

式の最後は、例年のようにプンムルで恨を解く。今年は仲間のひとりが教えている小学生たちも加わって、朴慶南(パクキョンナム) さんや辛淑玉さんなど来参者たちも一緒に盛り上がる。

追悼式後は、「ほうせんかの夕べ」である。李政美(イジョンミ)さん(写真上)と朴保(パクポ)さんの歌。もちろんジョンミさんの伴奏は、ギターの矢野敏夫さん。次々繰り出される歌に会場も沸き、コンサート後の交流会では、かんしょ踊りまで飛び出した。見れば、福島の「原発いらない福島の女たち」の黒田節子さんたちがマッコリを傾けながら踊っている。私も負けずにその輪の中に入った。とっぷりと暮れた川岸で、さっきまで釣りをしていた子どもたちの姿はもう見えなかった。


Created by staff01. Last modified on 2013-09-09 10:28:53 Copyright: Default

このページの先頭に戻る

レイバーネット日本 / このサイトに関する連絡は <staff@labornetjp.org> 宛にお願いします。 サイトの記事利用について