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追い出される人々:シナ鋳物、テグァン精密、クァンシン工業社

[イシュー: ヒップチロの内部事情]

キム・ハンジュ、ユン・ジヨン、ウン・ヘジン記者 2019.11.25 14:10

昨年11月から今年1月まで、3か月で世運3-1、4、5区域が強制撤去された。 ここで小さな工場を運営していた約350軒の工具商は、 何十年も働いてきた生活の基盤を奪われた。 施行社は強制撤去に抵抗する工具商に対して 数億ウォン台の損害賠償訴訟を請求すると圧迫した。 清渓川乙支路保存連帯によれば、追い出された商人の約11%は廃業を選択した。

再開発地域に入っている乙支麺屋(世運3-2区域)、 ヤンミ屋(世運3-3区域)などの老舗が撤去され、 複合団地ができるという知らせに反対の世論が高まった。 結局、ソウル市は撤去直後の1月23日、 世運再整備促進地区整備事業を再検討し、 今年末までに総合対策を立てると明らかにした。

だが世運商街群一帯の再開発は相変らず続いている。 ソウル市が事業施行認可を出したため、 世運3-2、6、7区域の商人は相変らず再開発と撤去の威嚇に苦しむ。 何十年も乙支路・清渓川一帯で技術協業の生態系を作った商人に対する移住対策は 何もない。 商人が追い出された場所では高層アパート建設の真っ最中だ。

[出処:キム・ハンジュ記者]

#シナ鋳物

世運3区域にあるシナ鋳物は、清渓川・乙支路一帯で一番古い工場だ。 創業者のおじいさんは、朝鮮戦争以後、日本人から学んだ技術でシナ鋳物を創立した。 おじいさんから孫まで3代にわたり工場を運営し、現在の主人に工場を売却したので、 見当をつけても60年を越える歴史が蓄積されたところだ。

現在、シナ鋳物を経営するキム・ハンニュル社長は18年前に工場を買収した。 当時数千万ウォンのプレミアムを付けてシナ鋳物を買収するという人々が結構いた。 だがシナ鋳物の社長は当時、周辺で清渓鋳物を経営していたキム・ハンニュル社長に 工場の買収を提案した。 一生鋳物だけ扱った技術者に工場を任せたいという欲だった。 ただし買収条件があった。 シナ鋳物という看板を保存しなければならないという条件だった。 キム・ハンニュル社長はかなり魅力的な提案だと考えた。 彼は1年間経営してきた清渓鋳物工場を整理して、 数十年の歴史が宿るシナ鋳物の看板を受け継いだ。

キム・ハンニュル社長がシナ鋳物を買収したのは単なる偶然や人脈のためではなかった。 彼は年数にして45年間、鋳物だけ扱ってきた専門技術者だ。 18歳で従兄弟が経営する鋳物工場に就職し、10年間、 まともにお金ももらえないまま仕事を学んだ。 長い歳月に耐えた後、彼が逃げるように工場を抜け出した時、 財産とは五千ウォンの紙幣一枚とトークン二つが全部。 以後、いろいろな鋳物工場を経て、清渓川まで流れてきて、30年を過ごした。 こつこつとお金を貯めて、社会生活27年で清渓鋳物を創業したが、 IMF経済危機の余波が残っていたため経営は容易ではなかった。 その時のシナ鋳物社長の提案は、それでもその時期を粘る動力だった。

もちろんシナ鋳物を買収した後も、かなり長い間、困難を経験した。 経済危機の前、シナ鋳物は外商をしなくても仕事が入ってくるかなり堅実な工場だった。 だが現金商売だけでは生き残るのが難しく、その後10年間外商をして粘りに粘った。 賃貸料を払うのもギリギリの時期が続いた。 それでもその時間を耐えれば残るものがあった。 固定の取引先の顧客だけでなく、あれこれの噂を聞いて訪ねてきた客がますます増えた。 長い間、同じ場所にあるので、これを覚えていて訪れてくる客もたまにあった。 彼らがうわさを流してくれるおかげで、 社長があえて走りまわったり広告をする必要もなかった。

だがシナ鋳物が積み重ねた長い歴史もまた、 清渓川・乙支路再開発事業の前では空しく崩れそうだ。 最近、シナ鋳物の前には狭い路地を挟んで建設機械が陣を敷いている。 朝昼夜と土をすくって運ぶおかげで、工場内外はホコリと媒煙でかすむ。 施行社が路地を統制したため車両が出入りできず、 工場に材料を搬入することも難しくなった。 いくら中区庁に民願を入れてみても変わらなかった。 毎日、掘削機の騒音と媒煙、土ぼこりが彼を困らせた。

昨年まで工場の扉をあけると、数十年間顔を突き合わせて暮らしてきた工具商たちの 古い工場が狭い路地に沿って並んでいた。 だがまたたく間に、町全体が崩れ落ち、荒野だけが残った。 地方自治体と施行社は、そこに高層アパートを作るとし、商人を追い出した。 数十年間、毎朝一緒にコーヒーを入れて飲んだ同僚の商人たちは、 それぞれちりぢりに散っていった。 昨年の冬、工場の前の商人が移住した光景を思い出すと、 キム社長はどうしようもなく胸が詰まった。 すぐに自分にもやってくることなので、 しばらくは恐慌状態から抜け出せなかった。

予想通り、表の町が崩れるとすぐ、シナ鋳物をはじめとする裏の町が 次の撤去のターゲットになった。 何か月前から鑑定評価士が工場に出入りし始め、 すぐに撤去が始まるといううわさも回った。 家主は12月中に建物が施行社に渡るという知らせを伝えてきた。

一時は多くの人の声が集まれば町内を守れると期待した。 だがソウル市がすでに世運36区域の再開発を承認しており、 これを取り消さない限り、撤去は避けられなかった。 その渦中にも中区庁は観光客を集めて「乙支遊覧」という路地ツアーイベントを続けた。 彼らはシナ鋳物がソウルの文化遺産だと言って取材して行った。 キム・ハンニュル社長は腹が立って、彼らに尋ねた。 一方で文化遺産だと奉りながら、もう一方ではそれを壊そうということが 話になるのかと。 その返事は資本主義社会で仕方ないではないかという言葉だけだった。

歪んだ社会構造は、彼らが積みあげた共同体と技術協業を一気に押し倒した。 大量生産ではない少量製作、機械ではない手作業、 小さなアイデアで技術革新を作り出した世運3区域は、 資本主義の開発の嵐により、のけものに転落した。 だがキム・ハンニュル社長は相変らず協業の力を諦められない。 彼は作業をして解けない技術的問題があると、 いつも周辺の商人の所に行った。 互いが互いに聞いて答えれば、解けない問題はなかった。 目が細かく広い関係網を利用して、 彼らは共に技術的な答えを見つけていった。 あえて酒一杯を飲まなくても、熱心に泣いて訴えなくても、 彼らはいつも新しい技術を共有し、新しい技術を作り出した。 清渓川・乙支路に生まれた技術的協業生態系は必ず守られなければならないものだった。

キム・ハンニュル社長はまだ撤去以後の人生を想像することができない。 45年間守ってきた鋳物工場をそのままにしておくのは空しくて、 そのまま入っていれば重いだけだ。 他に移住するとしても、全ての顧客の60%を占めるフリーの客らがなくなるので、 工場の経営は容易ではない。 6か月頑張れば長くやれると言われたが、 その時間を耐えるほどの体力がまだ残っているだろうか。 一日に何十回も気持ちが床を打つ。 それでも、もしまた鋳物工場を経営する機会ができれば、 彼はシナ鋳物という看板だけは必ず付けておきたい。 どんなものも簡単にはなくせないということを見せてやりたいという気持ちのためだ。

[出処:キム・ハンジュ記者]

#テグァン精密

2か月前、テグァン精密のチョ・ムホ社長は、家主から内容証明を受け取った。 契約満了日が近付いてくるので10月30日までに建物から出て行ってくれという内容だった。 幸い家主がまだ施行社に土地を渡しておらず、 チョ・ムホ社長は今まで商売を続けている。 だが強制退去の圧迫がいつやってくるかわからない相変らず不安な気持ちで一日一日を粘っている。

清渓川・乙支路一帯の工具商を対象として行われる撤去と再開発は、 あまり社会に知られていない。 チョ・ムホ社長は8か月間、商人がデモをしたが、 放送もされないことがとても苦しかった。 施行社は年を取った家主に強制収容を云々しながら横暴を働き、 鑑定評価士は路地を歩き回りながら賃借人の引越費用を策定した。 鑑定評価士は工場を一回ざっと見て、あらまし価格を付けて帰っていった。 賃借人たちは鑑定評価士を雇用する権利さえないので、 ただ彼らの目分量だけに頼らなければならない。

ソウル市は清渓川工具街一帯を壊して、青年にアパートを供給すると言う。 だがチョ・ムホ社長は彼らの本当の意中が疑わしいだけだ。 ここに新しくできるアパートの坪当たりの価格は3200万ウォン程度。 その上、坪当たりの相場が上がり続けているのに、 果たしてどんな青年がこのアパートで暮らすのだろうか。 ただ不動産投機屋と金持ちの腹を肥やす政策としか思えなかった。

一番恐ろしいのは、清渓川一帯にできた産業生態系が崩れることだった。 ここが撤去されれば、周辺の印刷、電機電子、ジュエリー、ミシン店も 打撃を受けるのは明らかだった。 大学の研究所や学生、研究開発者にとっては、 小規模生産ができる唯一の場所が消えることでもあった。

テグァン精密には大学生の客がたくさん出入りした。 先日はある学生が訪ねてきて、椅子の図案を出した。 文来洞から清渓川一帯をすべて歩き回ったが製作を引き受けてもらえず、 ここに来たという。 照明や世帯をデザインする学生は、図案を持ってたびたびテグァン精密にやってきた。 金属工芸をするある大学生も記憶に残る。 チョ・ムホ社長は彼に卒業作品につける取っ手を作ってくれと頼まれた。 彼が今は堂々たる大企業会の社員になったのが変に誇らしい時がある。

チョ・ムホ社長はテーブルや椅子、照明のような世帯道具から、 釣り竿、コーヒーマシン、ピザメーカーまで、 形態も大きさも無関係に多様な物品を作り出した。 病院の医療機械やLG化学のような大企業に依頼された機械部品も作った。 砂漠でドームに使われるグリスポンプも製作した。 彼が依頼された物は、周辺の商人との協業により、完成品の形を備えた。 グリスポンプ一つを作るためには、材料屋から材料を供給し、 塗装屋で色をつけ、バフ屋で磨く作業を経なければならなかった。 これらすべての工程は半径500mの中でなされた。 ここの工具商店街が撤去されるということは、 清渓川の協業システムが崩れることを意味した。

李明博(イ・ミョンバク)元ソウル市長の時期にはガーデンファイブというビルを 再開発の代替敷地として提示した。 だが技術者が少なく、協業ができないそこに入る理由がなかった。 分譲価格が安いわけではなかった。 李明博元市長の時に 8000万ウォンで分譲するというガーデンファイブは、 呉世勲(オ・セフン)前市長の時には2億ウォンに上がった。 ホテルのように華麗に作られたその建物は、地面を掘って機械を取り付け、 とけた鉄を沸かす工具商の作業場には合わなかった。 それでもその時は商人が一緒に移住できる代替敷地を考えることはしていた。 だが今は華やかな高層アパート建設だけに血眼になっていて、 商人の移住対策は何一つ出てこない。

チョ・ムホ社長は84年に清渓川に来た後、36年間ここで技術者として働いた。 周辺の技術者もたいてい30〜40年の経歴を持っていた。 彼らは古い技術力を基づいて新しい技術を想像し、 新しい製品を作り出す職人だった。 チョ・ムホ社長自身もさまざまな挑戦を経験してきた。 1995年に彼が作ったロボットがコエックスに展示され、 当時のサムスン副会長が500万ウォンでそれを買った。 彼らは町の見かけのように、古くて錆ついた技術者ではなかった。 誰かがこの古い技術を受け継ぐことを、 それで新しい技術を作り出すことを望む人々だった。 今の彼らが昔の職人の技術を伝授されたように、 チョ・ムホ社長は青年に多様な技術を知らせ、彼らと協業する未来を想像する。

[出処:キム・ハンジュ記者]

#クァンシン工業社

クァンシン工業社のイ・ゴン社長は最近、涙がとても多くなった。 清渓川工具街だけで30余年. その長い歳月の痕跡が一瞬で崩れると思うと涙が出た。 まだ韓国社会が独自の技術力を確保していなかった時、 彼は今の大企業と共に世運商街の周辺で技術を習得して開発した。 今になって人々は清渓川・乙支路一帯の工場が時代に遅れた死んだ産業だと非難するが、 これは事情を知らない人がいうことだ。 清渓川・乙支路は昔も今も製造業の軸を固め、 新しい技術を想像する実験室だった。 社長は若い時から鉄に触るのが好きだった。 20歳頃、知人が経営する洋服店に裁断師として就職したが、適性に合わなかった。 半年も経たず、洋服店を飛び出した。 そして遠い親戚が経営していた乙支路のクァンシン社という工場に就職した。 鉄を彫刻する小さな店だ。 何か素質があったのか、彼はただ鉄を触るのが好きだった。 仕事がおもしろいので技術もすぐ身についた。 特に技術力をつけようと欲張ったわけではないが、 技術を体得する期間が他人よりすばらしく早かった。 それで彼は14年で親戚から今のクァンシン工業社を譲り受けた。

イ・ゴン社長が覚えている清渓川・乙支路は、貧しい人々が雇用を作り、分けあう所だった。 一人ぼっちで一銭もなく上京しても、手押車一つあればここで暮らすことができた。 小さな空間を見つけた人は小さな工場を開いた。 東大門平和市場、南大門市場、鍾路貴金属通り、乙支路印刷社などが入り、 清渓川・乙支路一帯の工具街も活気を帯びた。 小さな機械一台で作れないものはなかった。 これは社長もまた機械部品と鉄道部品から会社のロゴ、 ベルトやカバンに入る装飾品まで、多種多様な物を作り出した。 鉄で作るものなら何でも可能だった。 もし可能でなくても大きな問題ではなかった。 どうせ完成品にするには多くの人の手を経なければならなかった。 路地に立ち並んだ小さな工場は、すべてそれぞれの特性と専門性を持っていた。 自分にできないことは隣りに渡し、製品一個を作るには少なくとも5、6軒の分業が必要だった。

清渓川・乙支路の工具商は数十年間協業して技術を共有してきた。 人々が自由に訪ねてきて、技術者と直接疎通しながら技術を学べる所は、 清渓川・乙支路地域だけだった。 壊さなくてもこの地域を再生して活用する方法は多かった。 だが地方自治体と政府は、ただこの地域をなくそうとした。 イ・ゴン社長は数十年前からこの地域が再開発されるという声を聞いて暮らした。 町内がとてもみすぼらしく、古くて汚いということだった。 再開発に対する期待が高まり、大家は古い建物をわざわざ修理しなかった。 その上、政府がこの地域に高度制限を適用したため、 水が漏れる屋根一つ直すのも容易ではなかった。 町内はますます古くみすぼらしくなっていった。 商人がここで何をして、どんな人生を暮らしてきたのかは重要ではなかった。 古くみすぼらしいことに対する拒否感は、それらを真っ先に消した。

イ・ゴン社長はこれほど早く再開発されるとは夢にも思わなかった。 賃借人の立場としては、土地の所有が施行社に渡ったのかどうかも知る術がなかった。 表の町の人々も正確な情報を知らないまま右往左往して、一気に追い出された。 最後の引っ越しの日、ただ機械をボッと見つめるだけだった商人の表情が忘れられない。

イ・ゴン社長の工場にも最近、鑑定評価士が訪ねてきた。 大家から11月末に契約が満了し、その後は所有主が施行社になるという電話も受けた。 毎日一回ずつ、社長の心はどきどきする。 撤去と移住、破壊と解除の時間は、思ったよりはやくやってきた。 とにかく死ぬほど頑張って、みんなで集まれない場合は死ぬほど戦わなくちゃ。 イ・ゴン社長はこうした決心をして長い冬の開始を迎えている。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2019-12-02 15:20:23 / Last modified on 2019-12-06 16:04:07 Copyright: Default

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