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「合意」と書いて「搾取」するしぶとい新自由主義、経社労委

[ワーカーズ]連載

イ・ジョンフェ 2019.05.15 13:42

「代議員大会は始めから激烈だった。 (参席者らは)代議員席と傍聴席を区分するために場内整理をしてくれという司会者の要請にも応じなかった。 指導部に対する不信は深く、労使政の合意過程に対する報告さえ聞こうとしなかった。 (中略)その上、ペ・ソクポム職務代行は合意案が否決され、傍聴席の代議員たちが『罷業歌』の後の部分「勝利のその日まで」と歌うと 『勝利のその日まで熱心に闘争してください』と皮肉った。」 [1]

▲1989年現代重工128日ストライキ/ソ・ヨンゴル

97年、金大中(キム・デジュン)大統領当選直後に 民主労総1期執行部職務代行は 「(仮称)国難克服と経済復興のための労使政委員会」に参加した。 この時、雇用保険制と失業基金拡充、公務員職場協議会の許容と教員労組の合法化、 失業者の組合員資格認定、政治資金法の改正による労働組合の政治活動の自由保障などを代価として 「整理解雇制」と「勤労者派遣制」の導入を差し出した。 これに対し、1998年2月9日、民主労総の代議員は臨時大会を開き、 労使政合意源泉無効、交渉代表団と指導部辞任、全面ストライキ闘争を決議したが、 国会は職権調印された「歴史的大妥協」案を通過させる。 民主労総の指導部は労使政の暫定合意の責任を取って退いた。 職権調印の形態ではあったが、 韓国社会では初めてで最後の「労使政社会的合意」で 整理解雇制と派遣制を受け入れ、階級地形が不安定労働体制に変わった。

金大中政府はさらに 「労使政委員会の設置および運営などに関する法律」を制定し、 2期労使政委員会のための制度的基盤を用意した。 そして結局は座礁した盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権に続いて 文在寅(ムン・ジェイン)政府もまた 経済社会労働委員会(経社労委)で労使政ドライブをかけている。

韓国型社会的合意主義

70年代末から80年代初め、 世界恐慌と重化学工業過剰重複投資で韓国経済にも危機が迫ってきた。 政府はこれまで低金利で特定企業に資本を支援し、重化学工業を育成した。 その過程で輸入を規制し輸出を奨励し、 国内では高い利益と値段が安い良質の労働力を獲得する一方、海外市場を確保する、 国家が主導する財閥中心の経済体制を形成した。 しかしすぐ限界があらわれ、1979年に政府は 金融、価格統制解除、輸出金融縮小、輸入自由化などを内容とする経済安定化計画を施行する。 続いて全斗煥(チョン・ドゥファン)政権になって、 市場化と民営化を中心にする「経済社会開発5か年計画」を実行する。 [2]

このように、資本の新自由主義的蓄積体制への転換がなされるが、 労働に関しては抑圧的な搾取体制を維持すること以外には何の計画もなかったようだ。 その後、「社会」が経済開発に入り、 福祉を強調するとはいうが社会的な抑圧政策は維持され続けた。

結局、1987年の民衆抗争に続く労働者大闘争の火が全国を覆い、 結局は政治体制を変化させた。 自主的な労組設立も封鎖されたまま低賃金長時間労働に苦しんでいた 全国の全泰壹(チョン・テイル)が立ち上がり、 条文だけに存在した勤労基準法、労働三権をよみ返らせ、 結局、盧泰愚(ノ・テウ)は労働法改正を約束するしかなかった。 1987年11月28日に労働法を改正したが、 その内容は政治的な民主主義と歩調を合わせ、 労働の市民権を拡大するのではなく、 企業の水準で集団的労使交渉と組合結成を一部容認する程度であった。 その後、与小野大の政局に押されて改正された労働法も、 盧泰愚が拒否権を行使したため失敗に終わった。

当時の政治的な民主化にもかかわらず、労働運動への抑圧と排除は続いた。 それが労働運動に対する国家の支配的な対応戦略だった。 「労働なき民主主義」の時期、形成期にあった労働運動は、 全階級的な連帯と大衆動員戦略で対抗した。 国家の弾圧に対抗して労組を守ることができる唯一の代案だった。 これをしばしば戦闘的組合主義という。 これは経路依存的な結果だった。 しかし1991年頃に新生民主労組運動に対するイデオロギー的な攻撃が始まり、 「戦闘的組合主義批判論」や「労働運動危機論」といった談論が現れ始めた。 これは、それ自体が民主労組運動の内部変化を圧迫する談論的な意図を持つ効果をあげた。 [3]

1993年に金泳三政権は改革と競争力強化を名分として 各種の企業規制緩和と民営化政策などのいわゆる「新経営戦略」を推進し始めた。 この政権も労働運動に対して物理的、イデオロギー的な弾圧を続ける一方、 虚構的な社会的合意と労使和合を試みた。 そのうちの一つが1993年に政府と経済人総連が動き、 韓国労総と賃金ガイドラインを設定しようとしたことだ。 しかし全労協が中心になって総額賃金制と賃金ガイドライン粉砕のための 広範囲な連帯戦線を形成し、社会的合意の試みは無力化された。

1996年に金泳三(キム・ヨンサム)大統領は 「21世紀超一流国家への跳躍のため新労使関係構想」を電撃発表し、 「参加と協力を基礎とする労使関係を定着させる」ために、 大統領直属諮問機関として労使関係改革委員会(労働開発委)を設置する。 3低景気を経た後、国家の垣根を取り払おうとする資本の要求が続いた。 これに伴い、政府はWTO体制に参加してOECD加入を進めるために、 労使関係および労働関係法律の全面的な改編を推進した。 労働開発委では企業の規制緩和と労働市場の柔軟化を目標として 複数労組許容、第三者介入禁止と労組政治活動禁止条項廃止とともに、 整理解雇制、勤労者派遣制、弾力勤労制の導入を試みた。 労働者の反発が続き、クリスマス前日の深夜12時、 国会で奇襲的に労働法と安全企画部法を抜き打ち通過した。 民主労総が即刻全面ストライキに突入し市民社会が広範囲に反発しながら、 社会的合意は結局失敗に終わる。 2か月にわたるゼネストと国民的な抵抗でかっぱらい法案は失敗に終わったが、 すぐに続く外国為替危機とIMF管理体制で 「(仮称)国難克服と経済復興のための労使政委員会」が発足し、 似たような改悪案を「歴史的改悪大妥協」という名で職権調印する。

外国為替危機の当時、金大中(キム・デジュン)大統領は 危機の原因を政経癒着、官治経済、不正腐敗、中小企業の犠牲などを招いた 過去の権威主義政府と財閥に求めることにより、 金融および企業の構造調整、そして民営化のような構造改革を正当化した。 これは一部の市民団体の経済民主化の運動方向とも大きく違うものではなかった。 そして1980年代以後、韓国経済をいじってきた 「国家を根本的に改造しなければならない」というカン・ギョンシクをはじめとする経済官僚の利害とも一致していた。 実際、労働市場の柔軟化措置は知らされていたこととは違い、 カンドシュの反対とともに米国とIMFが初めから強く要求したというより、 韓国の経済官僚の主導による「IMFプラス」プログラムに含まれていたものだった。 [4] そのような点で1期労使政合意は議題的な企画でしかなく、 「国民の政府」金大中政権の本質をよく示す。

その後、「自由な雇用のため自由な解雇」と企業年金制を推進しようとした 盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の労使政委員会も本質はあまり違わない。 1998年、初めての労使政合意の前後からこの時期まで、 労働組合運動の内部を圧迫する事例紹介と談論があふれた。

経社労委

19世紀後半から西欧の資本主義社会は労働者と資本間階級闘争の場に変わり始め、 20世紀初中盤、第一・第二次世界大戦まで「革命運動」が 労働者階級を中心としてヨーロッパ全般を揺さぶった。 このように、労働者階級の闘争と政治的な力に驚いた資本と政府は、 彼らを体制内に引き込むための妥協政策として、 つまり労資間の階級敵対性の克服過程ではなく、 対立を緩和して制度化させる過程で「社会的合意」の形態を採択する。 これは労働者と資本の間の一種の生産性連合で、 経済余剰の分配という思想に基づく。 そして戦後の社会主義圏の存在を背景としてさらに強力になった組織労働に対する 資本と国家機構の妥協の形態で現れた。 これは、ケインズ主義の資本蓄積体制と共に行われ、 国家によりその類型も多様だ。 それでも資本が圧倒的に力の優位にある状況では一方的にならざるをえず、 そしてすでに時期が過ぎた資本蓄積体制を支える柱としての社会的合意に没頭する理由は何か?

これまでの政権が拠論したスウェーデン、オランダを経て、 文在寅政権が事例として触れ回るデンマークの状況を見渡してみよう。 デンマークは高い労働組合組織率を基礎に、 労組が労働者の権利を防御して失業給付など社会保障を確保している。 最近までも全労働者の60%以上が組織されており、 さらに2008年の世界恐慌以後、 失業基金などの社会安全網の解体が加速化しているという点で韓国との比較は難しい。 [5]

文在寅政権の登場は華麗だった。 「所得主導成長論」を掲げて福祉支出を増やし、家計所得を補助し、消費を拡大することによって景気を生かすということだった。 無償給食で始まった実験を全面拡大するというもので、 以前の政権のトリクルダウン論や四大河川事業などとは違い、 恐慌の時期を景気浮揚手段で対応するという意味をこめていた。 そのため以前とは違い、福祉を強化した予算を編成し、 同時に非正規職の正規職化、最低賃金上昇、労働時間短縮も掲げた。 しかし資本に対しては何の強制もなかった。 財閥改革の先頭走者だという人を公正取引委員長につけたが、 初期に約束した商法改正など低い水準の財閥改革さえなく、 路地裏の焼鳥屋ばかりをひっ捕まえている。 経済正義実践市民連合(経実連)財閥改革運動本部のパク・サンイン教授さえ 「朴槿恵(パク・クネ)・崔順実(チェ・スンシル)・李在鎔(イ・ジェヨン)ゲートが起きて、 変化に対する国民欲求がとても高まり、 政府はこのようなモメンタムにより改革することができた」とし 「しかし政府の意志は弱く、さらに親財閥的だった」と批判するほどだ。 [6] そして資本の力と攻撃はますます強まるが、 のに文在寅政府は 「社会的合意」の名前で労資合意を要求する。 労働に対する一方的な攻撃と違わない。

さらに文在寅政府は弾力勤労制を導入し、 最低賃金引き上げと労働時間短縮を無力化する一方、 既存の労働権自体を全面解体しようとする。 労働権保障のために国際労働機構(ILO)の中核的協約を批准すると約束したが、 事実はまた経社労委を使って労働法改悪に動いているのだ。 それも使用者の不当労働行為処罰条項の削除、 労組の不当労働行為概念の新設、 ストライキをした時の代替労働全面許容、 事業場内での争議行為禁止、 ストライキ賛否投票有効期間の新設、 団体協約有効期間の拡大など、 過去の金泳三政権から議論されてきた悪法まですべてかき集めて 「社会的合意」という名前で処理しようとしている。 [7]

「勤労基準法を守れ」と叫んで散華した全泰壹(チョン・テイル)には、 漢字で書かれた法条文を読んでくれる大学生の友人がいなかったのが恨だったが、 金大中政権以来、 今まで労働者にはどの政府もまさにこの勤労基準法を守る友人にはなってくれなかった。 しかも、今の経社労委の委員長をはじめとする歴代の労使政委の委員長、 そして今の民主党の院内総務、最初から民主労組運動の先鋒に立ってきたという彼らは、 現在「社会的合意」という名の下で「労働法改悪」の先鋒に立っている。

2016年の冬、街頭での闘争だけでは足りなかったことをまた確認させてくれる。 韓国の自由主義政権、彼らは韓国の新自由主義資本蓄積体制を導入し、 定着させ、進展させる勢力でしかなく、 労働者を代理する友人にはなれないことは明らかだ。 労働者が自ら政治の主体になって立ち上がる時だけが自らを解放させるだろう。[ワーカーズ54号]

[1] 〈労働戦線〉 31号、全国労連

[2] 〈韓国の新自由主義の起源と形成〉、地主型

[3] 〈民主化移行後の韓国労働運動の歴史的転換と時期区分、1987-2006〉、クォン・ヨンスク

[4] 〈韓国新自由主義の起源と形成〉、地主型

[5] 「『柔軟に安定化』したデンマーク、低い失業率は『やさしい解雇』ではなく『景気好況』のためだった。」 〈変革政治〉 83号、チョン・ウニ

[6] 「政府、財閥改革の約束守らず」 〈韓国経済の道を聞く〉 2019.03.17

[7] 労組活動禁止法、労組破壊法。 文在寅政府の目的は労組抹殺か。〈変革政治〉 82号、キム・ソク

原文(ワーカーズ/チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2019-05-18 19:45:06 / Last modified on 2019-05-20 14:38:17 Copyright: Default

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