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国民不渡りの日、韓国新自由主義の形成

[ワーカーズ]連載

イ・ジョンフェ 2019.03.22 12:22

〈タクシー運転手〉と〈1987〉に続いて〈国家不渡りの日〉など、 最近は復古風の映画が人気だ。 観客は現在のような疲弊した韓国社会になったその時期を回想しながら怒り、また悲しむ。 その歴史の変曲点を探ってみることは、現在の韓国社会を理解することでもある。

朴正煕(パク・チョンヒ)政権は財閥中心の国家資本主義体制を維持してきた。 そして80年の前後、韓国社会には新自由主義資本蓄積体制が形成される。 そしてこれは97年の外国為替危機で全面化された。 今回の最初の連載では、戦後最大の為替レート戦争だったプラザ合意と 逆プラザ合意を通じ、韓国新自由主義の形成過程をのぞいてよう。

戦後体制

貿易戦争が起きると、生産条件が同じなら安定した市場を保障されたり為替レートが低い側が勝利する。 だから国家は資本に対して安定した市場を保障するために、 他国からの商品の関税を上げたり、 商品が入ってくることを防ぐ非関税障壁を設置する。 一言でいえば保護貿易体制を整える。 これも似たような条件なら、国家は為替レートを下げて価格競争力を上げようとする。 資本にとっては、1ドル1000ウォンよりも2000ウォンなら二倍も有利になるからだ。

過去の李明博政権は果敢な低為替レート政策を展開した。 国民のポケットをはたいて財閥に集めたおかげで、財閥は腹を肥やし、国民の腹はすいた。 各国家がこのように為替レートを下げる競争をしばしば為替レート戦争だと呼ぶ。 だがこれも同じ条件なら、実は戦争しか答がない。 戦争は相手国の生産施設を破壊して物理的な市場独占体制を構築できるからだ。

1929年、米国でブラックフライデーという株価暴落事態が起きた。 これは世界が無限競争に突入する引き金になった。 各国は互いに輸入障壁を上げて商品が入ってくることを防ぎ始め、 その後、為替レート戦争に突入した。 当時、持っている金の量だけ貨幣を発行できるという規則そのものを破った形だった。 それでも生存方法を見つけるのが難しく、結局戦争が勃発した。 後発資本主義国家であるドイツ、イタリア、日本などを中心として生存のための戦争を繰り広げたのだ。 これがまさに第二次世界大戦であり、それは経済戦争だった。

第二次世界大戦は2種類の重要な合意を作り出した。 一つはGATT(General Agreement on Tariffs and Trade、関税および貿易に関する一般協定)を結び、自由貿易体制を維持すること。 もう一つは金の代わりにドルを基本とする固定換率制の合意、 まさにブレトンウッズ協定だった。 戦勝国の米国は、世界の金の2/3を保有しており、世界の生産の半分を占めていた。 こうした経済力を背景として、ドルを基軸通貨とする固定換率制が採択された。 そして戦後体制は、GATT体制とブレトンウッズ体制で構築された。

プラザ合意、そして日本の失われた20年

約束を破ったのは米国だった。 戦後の黄金時代が過ぎると米国の競争力は弱まり、貿易収支は赤字に転換した。 「世界の警察」を自任してベトナム戦争に飛び込み、財政赤字も膨らんだ。 すると米国は金保有量を増やさずにドルを印刷し始めた。 自然にドルの価値は急落した。 これに反発したフランスなどは「金1オンス35ドル」と策定された基準によって ドルを金に変えろという、つまり「金兌換」を要求し始めた。 これに対して米国のニクソン大統領は1971年に交換停止を宣言し、 1973年からは変動為替レート制を採択するようになる。 事実上、ブレトンウッズ体制が崩壊して本格的な為替レート戦争が始まった形だった。 これは米国とフランスのぎこちない関係が始まる契機でもあった。

1970年代は長い長期沈滞の時期だった。 戦後、ケインズ主義体制で累積した財政支出により国家の借金は大きくなり、 インフレは拡大した。 景気低迷は続くが物価は上昇する、いわゆるスタグフレーション(Stagflation)が続いた。 この頃に「強い米国」を掲げるレーガンが登場した。 彼は政府支出を削減し、所得税などの税金は下げ、緊縮通貨政策を取ることで インフレを抑えようとした。 企業に対する政府規制を緩和し、同時に高金利政策を進めた。 いわゆる供給の部分を刺激して需要を増大させる「波及効果」をあげる戦略だった。 最近の言葉では「トリクルダウン効果」を期待したのだった。

実際にレーガノミックス効果でインフレは13%から4%まで低下した。 同時に4%に近い成長率を記録した。 そればかりか19%で始まった金利が8%台に下がり、 スタグフレーションを抑える効果も現れた。 だが問題は途方もない財政赤字だった。 さらにソ連との軍備競争で、米国は史上最大の軍備を増強した状態だった。 米国は「双子の赤字」という最大の難関につきあたった。 これを解決するための方案がまさに「プラザ合意」だった。

戦後の荒廃の中からドイツと日本がまた立ち上がれた背景には冷戦体制があった。 米国が経済復興を企て、彼らに米国市場を無制限に開いた。 プラザ合意当時、日本の米国輸出依存度は50%に達していた。 朝鮮戦争とベトナム戦争の時に、日本は米国の兵站支援で70年代以後、最大の好況を享受した。 世界50大企業のうち日本企業が33社にもなったほどだった。 だが1985年、米国の貿易赤字は1336億ドルに達し、 一日4億ドルの利子を払う境遇に置かれた。 その時、日本も米国貿易赤字の37%(500億ドル)にのぼる貿易赤字を起こしていたので、 彼らは共に方案を用意しなければならなかった。 それで1985年9月、G5(フランス、ドイツ、日本、米国、英国)を中心としてプラザ合意がなされた。

プラザ合意を起点として円ドル為替レートは240円代から2年後には120円水準で低下した。 10年後の96年4月には3分の1水準の80円台に急落した。 日本円の価値が高騰し、三菱とソニーは米国の自尊心だったロックフェラーセンター、 コロンビア映画社を買収した。 日本人は旗を掲げて世界旅行に出た。 だがその効果は一瞬だった。 急激な円高による輸出不振と景気低迷を憂慮した日本中央銀行は金利を下げ、 それにより流動性が高まって株式と不動産投資が増加し始めた。 株式と不動産投機ブームに驚いた中央銀行がまた金利を上げると、 今度は不動産の暴落が続いた。 不動産担保価値がなくなり、銀行の融資が不良債権になって戻ってきた。 金融会社は連鎖倒産し、資金難に苦しむ屈指の大企業は一つ二つと倒れた。 大規模な構造調整で失職者も増加した。 30年経った現在まで、日本の不動産はその当時の相場以下に留まっている。 日本の失われた20年はそのようにして始まった。 [1]

世界を揺るがしたレーガノミックス、そして逆プラザ合意

映画〈国家不渡りの日〉の一場面。 経済危機を予感したユ・アインが会社に辞表を提出すると、 辞表を受け取った部長は「石油危機、80年外債危機も乗り越えた」と話す。 実際、1980年代初めに外国為替危機が訪れた。 前述のように、レーガン政府当時米国連邦準備制度理事会(FRB)議長の ポール・ボルカー(Paul Volcker)は、インフレを抑えるために金利を最高19%まで上げた。 この影響で、ドルを借りて輸入代替産業化を進めた東欧圏と中南米の国家、 そして重化学工業の投資に集中した韓国は外債危機に陥った。 おりしも70年代末に吹き荒れた恐慌と重なり、 81年にはポーランドが、82年にはアルゼンチンとメキシコ、ブラジルが 次々と崩れた。

当時(1976〜1979年)、韓国の海外借款もメキシコとブラジルに続く3位を占めていた。 だが冷戦体制当時に最前線で資本主義のショーウィンドーを自任した韓国は、 米国の助けにより無事に外国為替危機を克服することになる。 〈ブルース・カミングスの韓国現代史〉では 「韓国は米国の主要同盟国で前方国家として、 安保問題に対する即刻かつ最優先的な協調により救済金融を受けられたのだろう。 実際に1983年にレーガン大統領と中曽根総理は、 ソウルに総額40億ドルの救済金融を斡旋した。 この金額は韓国が支払っていない全体債務の約10%にのぼる」と伝えている。 米国の回復のためのレーガノミックスは、 このように第3世界の犠牲を踏んで推進されたものだった。

円の上昇で輸出競争力が落ちた日本は円高不況に苦しんだ。 そこで日本は高付加価値産業に集中する一方、 賃金などの生産費が安い東南アジアへの投資による迂回輸出で円高不況を克服する。 実際に当時、日本が自動車、半導体に直接投資したため、 東南アジアは高い成長率を記録した。 その後、1995年初めの逆プラザ合意で日本円が下落してドル価値が上昇し、 日本は輸出競争力を回復することになる。 1997年初めに米国の金利引き上げまで加わり、 低金利、低為替レートでアジアに過剰投資されたドルが逆流し始めた。 その過程でタイをはじめとする東南アジアは経常収支が悪化して外国為替危機を迎えることになる。 韓国ウォンも上がり、韓国は輸出沈滞に陥り安く借りたドル償還の督促にも苦しんだ。

韓国新自由主義資本蓄積体制の形成と過剰生産危機

80年代初め、米国と日本の支援で韓国は外国為替危機の足元の火を消す。 そして83年のレーガン訪韓を契機として関税引き下げ、輸入規制撤廃、 サービス産業自由化、外国人財産権保護に対する圧迫が始まった。 結局1985年に韓米スーパー301条協約が締結され、 韓国は外国人投資自由化措置を断行する。 これと共にその年にIMFIBRD年次総会などが開催され、 韓国は市場開放と自由化に対するさらに大きな圧迫に苦しむことになる。

一方、韓国社会の内部は国家が主導する財閥中心の資本蓄積体制から抜け出して 新自由主義的体制再編の流れが強まっていた。 当時、評論家の山川暁父は日本の文芸春秋に 「朴大統領はなぜ殺されたのか?」という文を寄稿し、 韓国の経済政策をめぐる「旧勢力 vs テクノクラート」の内部対立を説明した。 文の内容はこうだ。

「高成長を達成するほど、韓国経済は世界資本主義の有機的な一部として編入され、 波乱の世界資本主義経済危機の『弱い輪』になったといえる...(中略)... 経済政策と運営をめぐるテクノクラートと 今までの古い『革命主体グループ』の対立が拡大した。 最近も経済企画院に属するテクノクラートがその傘下機構のKDIセミナーを開き、 インフレ抑制のための預貸金利の引き上げと 都市銀行の民営化などの金融制度の改変を強く主張して 保守的な財務部と鋭く対立し、経済政策は泥沼の混乱状態に陥った。」

光州を血の海にして執権した全斗煥(チョン・ドゥファン)は、 キム・ジェイク、サ・ゴンイル、カン・ギョンシクなどの新自由主義政策立案者と 「経済社会発展計画」を出した。 これを通じて総通貨供給を減らし、金利引き下げを目標とする金融政策が推進された。 輸出支援と政策金融を縮小して実質金利を保障する方案も推進された。 その結果、76〜78年の間に年平均35%に達した総通貨増加率は、 83〜85年に14%に下落した。 合わせて輸入許可制の廃止と外国人投資の自由化を骨子とする 「関税制度および外資導入法」の改正など、輸入自由化も推進された。 これと共に金融実名制、銀行民営化、外資導入自由化、 外資合弁銀行(韓美銀行、新韓銀行)の設立を認める金融自由化を推進し、 相互出資の禁止と出資総額制限などを骨子とする公正取引法を制定した。 1986年には工業発展法が制定された。 これは、国家が特定の産業に資源を集中配分する「選別的産業支援」から 輸出入金融、長期設備金融、技術開発金融など産業一般に対する機能別の支援に変えるものだった。 [2]

このような経済体制は韓国を変化させる環境を造成した。 その変化の決定的な要因もプラザ合意だった。 プラザ合意によるいわゆる「3低時代(低い石油価格、低い金利、低いドル)」を受け、 輸出が急激に増えた。 86〜89年まで、10%を越える成長率と途方もない黒字記録が毎年塗り替えられた。 3低景気を経て過剰蓄積された資本に基づいて、財閥は第2金融圏に進出した。 株式市場が活性化し、財閥の資金調達構造が変わり、 国家に対する依存度が下がって自律性が高まった。 1987年から過剰資本が海外に進出し、翌年には入る資本より出て行く資本のほうが多くなり始めた。 その後、金泳三政権の「世界化」は資本の要求でもあった。 ついに1994年、経済企画院と財務部が統合されて誕生した財政経済院は、 国家主導開発体制の終末を知らせた。

一方、1980年の公正取引法制定と公正取引委員会の設置は 朴正煕(パク・チョンヒ)政権の財閥中心独占寡占体制を破るためだった。 だが3低景気を経て資本の調達が自由になった財閥に対する規制力はなかった。 韓国はその後1996年、包括的かつ急進的な金融自由化を要求するOECDに加入することになる。 これで資本の出入口はさらに自由になり、 総合金融会社を使った財閥の事業の多角化が拡大した。 サムスンが自動車に、現代が製鉄と電子に飛び込むなど投資が拡大し、 過剰重複投資による過剰生産の結果が露呈した。

一方で財閥は東南アジア市場で円高に勝ち抜くために、 ゼロ金利水準の日本資本を引き込んで円キャリートレード(Yen carry trade) [3] に動いた。 その後SKは低金利の短期資金を借り、東南アジアに高金利長期資金として貸し出すという裏技で危険に直面することもあった。 そんな状況だったが、政府は総合金融会社に対して健全性の監督基準をまったく適用せず、 6大財閥が保険会社株式を買収したり保有できるようにした。 しかし社外重役制、小額株主権強化、外部監査制度の導入はすべて延期された。 こうした過剰生産の危機を背景として1995年に逆プラザ合意が行われ、 円安現象と共に米国の金利が上がり、外債危機が訪れた。

全斗煥(チョン・ドゥファン)政権以後に続いた新自由主義的資本蓄積体制が IMF外国為替危機を契機として完全に韓国社会に構築された。 カン・ギョンシクとイム・チャンヨル、キム・ギファンなど いわゆるテクノクラートは国家を根本的に改造する方向でIMF構造調整プログラムを受け入れた。 金大中(キム・デジュン)もそれを官治金融と財閥体制改革のために必要なものと受け入れた。 「彼らは骨の中まで市場主義者としてIMFに行くだろう」、 「金持ち中心に新しい局面を組む」ことに賭けたユ・アインの人生逆転は成功した。 そして国民が金を集めて企業の負債を返してから20年経った今。 家計負債1500兆、財閥社内留保金1500兆の時代が開かれた。[ワーカーズ52号]

〈脚注〉

[1] 中央日報、[その日で今日を読む]プラザ合意31年…解けない円高封印

[2] チ・ジュヒョン。韓国新自由主義の起源と形成、キム・ドンホ。大統領経済史

[3] 金利が低い日本円を借りて金利が高い国家の資産に投資する行為

原文(ワーカーズ/チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2019-03-22 22:11:40 / Last modified on 2019-03-29 08:47:52 Copyright: Default

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