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貧しい露天商と労働者の住みか、清渓川

[ワーカーズ]人権の場所

ミョンスク(人権活動家) 2018.02.14 12:53

清渓川はスプリング(サザエの塔)がある清渓広場の毛廛橋から古山子橋がある清渓9街まで、長く流れる。 それで旅行パンフレットには「10時間楽しむデートコース、家族外出コース」や 「外国人のための観光コース、歴史探訪コース、ショッピングコース」などと紹介されるほどだ。 橋も何と22本もある。 川の長さほどに、前近代と現代がここで共存する。 清渓川は600年のソウルの歴史を大切に保管している。 日帝強制占領期間と朝鮮戦争、開発独裁の歴史に巻きこまれたソウル貧民の人生が入っている。 清渓川の流れに沿って鍾路と清渓路、乙支路など通りが形成された。 清渓川は朝鮮時代には宮廷と官庁がある富村の北村と、 許生伝の許生のような貧しい人々が暮らす南村を分ける区分線だった。 そして日帝時には朝鮮人が暮らす鍾路と日本人が居住する本町がある南山一帯の境界でもあった。 この時は日本人居住地だけが開発され、北村と南村の経済力が逆転した。 今では清渓川が南と北に分けるのではなく、政府総合庁舎とソウル市庁、 そして大企業の本社がある清渓1街と平和市場、露天商がいる清渓5街を起点として 雰囲気が変わる。

[出処:サゲ]

ソウルの象徴清渓川、開発と貧困の象徴

地方で暮らす人がソウルに遊びに来るというので、 行く価値があるところを推薦してくれと言われると、たびたび清渓川と言う。 清渓川を薦める理由は2つだ。

一つは週末には観光客が混雑するほどイベントも多く、見てもきれいに計画された川沿いの散歩道のためだ。 家族や同僚と一緒に歩きながら見るものも多い。 何よりも清渓広場はソウルのまん中にあって、 光化門広場やソウル市庁前のソウル広場とともに3大都心集会場所なので、 一回ぐらいは来てもいいかと思い、推薦したりする。

もうひとつの理由は、清渓6街にある平和市場前の全泰壱橋(ポドゥル橋)と 清渓7街の黄鶴洞蚤の市のためだ。 大きなビルときれいに磨かれた清渓川周辺は、 貧しい労働者と露天商が暮らす貧民の住みかとして貧困の歴史を大切に保管しているところだ。 だから今度は長い間貧民運動をしてきた活動家で、 清渓川で小さい時期を過ごした民主露天商全国連合首席副委員長チェ・インギ氏を人権紀行の道案内にした。 われわれは東廟で会って、黄鶴洞がある永渡橋を通り、平和市場と全泰壱橋まで歩いた。

貧民をはき捨てた暗渠化工事と復元工事

チェ・インギ氏は清渓川で「かなり前に貧民運動と夜学が活発だった」と言った。 近くに大学が多く、連帯も多かったという。 東廟の反対側の昌信洞は貧民街として有名だった。 国民画家と賞賛されるパク・スグンの家があった所でもある。 彼の絵には、ぎっしりと密集したタルドンネ(貧民街)の姿や 小さな赤ん坊を背負う少女の絵、 小川で洗濯をしている女性の姿など、 50〜60年代のソウルの貧しい町の人生が描かれている。

「昌信洞にいた撤去民は、ここに暗渠化工事をするため、このあたりの撤去民を京畿道広州に移住させようとしました。 民主労働党代表だったキム・ヘギョン氏が若かった時、 首都圏宣教師委員会の活動家として入ってきたのですが、 京畿道広州に強制移住させるとはひどいと思い、住民を組織してソウル市を相手に集会を開きます。 貧民運動史の記録に残るほどのたたかいをしました。 清渓川ではチェ・ジョングや孫鶴圭(ソン・ハッキュ)などが貧民夜学活動をしたりもしました。 そのうちに全泰壹(チョン・テイル)烈士の焼身以後、 多くの学生が労働問題に関心を持つようになります。」

暗渠化工事は日帝時代に遡る。 日中戦争の時、日本は軍需物資輸送のための交通路確保を名目とする清渓川の暗渠化が始まった。 解放後も工事は続いた。 朝鮮戦争の後には避難民が崩れた清渓川の町に板張りの粗末な家を作って住んだ。

暗渠化によって掘っ立て小屋が撤去され、そこで暮らしていた人々は奉天洞や新林洞などに引越し、 商人も出ていかなければならなかった。 暗渠化工事が終わる頃、金玄玉(キム・ヒョノク)当時ソウル市長は清渓高架(三一高架)を作ろうという。 周辺の反対にもかかわらず、予算も設計図もなく起工し、1967年に強引に着工した。 暗渠化工事は77年に終わった。 人々にとって暗渠化工事は汚い都心を清潔に整備して、 それによって貧民街も消えると認識されたため、全国で暗渠化工事が流行した。

ところが貧民が追い出された場所に、また貧民が入ってきた。 新しい現代式のビルである平和市場の周辺、暗渠の上に露天商が入ったのだ。 衣服類やタイ焼きのような食べ物を売った。 黄鶴洞には骨董品通りで有名な蚤の市(別名トッケビ市場)ができた。 チェ氏は小学校の時にソウルに引っ越してきたが、 その時の家は永渡橋に近い三一アパートだった。 当時は蚕室や江南にアパートが大々的に作られていた時で、後れたアパートグループに入るという。 清渓高架の近くに、当時としては高層の三一ビルと三一アパートが立ち並んだ。 60〜70年代の清渓路は、朴正煕時代の経済発展の象徴だった。

[出処:サゲ]

「ウォーカーヒルまでの最短距離を作ろうとして三一高架を作ったそうです。 しかしあんな古い家(古い韓国式家屋)が密集しているので三一高架を軸として三一アパートを作ったそうです。 発展したソウルの姿を見せる視覚的な効果を狙ったのです。 私が小学校の時にソウルにきた時、東大門に高速ターミナルがありました。 ターミナルが江南に移転する前に地方からきた人たちはみんなあそこで降りました。 そこに降りると三一高架が見えます。 おじさんが広橋まで行って、私を連れて三一高架道路を見物させてくれました。 最初のソウル見物でした。 ソウルに行くと空の上を車が通っていたよ、そう言って自慢できる所でした。」

しかし2003年、李明博(イ・ミョンバク)当時ソウル市長が 「環境復元、文化財復元、そして周辺老朽施設改善」を掲げて清渓川復元工事を始める。 短時間に終わらせた清渓川復元工事は遮水膜を設置したコンクリートの川底の人工水路で、環境的でもなかった。 2003年から2005年10月まで清渓川の復元工事が行われることになり、 2003年の冬、近くの露天商を大々的に撤去して工事を始めた。 清渓川周辺で生計を立てる露天商とはまともな協議もなかった。 チェ氏は清渓川を取り壊した2003年の冬を忘れない。 城東機械工高の近くだった。

「露天商千人程度が集まったが、あいつら(警察と用役)が明け方からなだれ込んできたのです。 ここが対峙線で、みんなが古タイヤを燃やしたが、警官たちがあまりにも強硬ですぐに崩れました。 その時、東子洞にいた野宿者活動家から電話がきたことが思い出します。 おじさんたちが清渓川に行くという情報を入手したと。 それで近くで見るとやはり野宿者でした。 前にいる人たちは、11月なので寒いのにスリッパを履いてジャージを着て変です。 ソウル市がまん前に野宿者をたてたのです。 日当を払って卑怯に。 後で野宿者に日当を与わず、ソウル市に抗議したことが新聞にも小さく報道されました。」

そうして押しかけた人々は、結局ソウル市と協議して東大門サッカー場に風物市場を作り、そこに入ることにする。 だがまともな基本施設も作ってくれなかった。 その後、ソウル市の呉世勲(オ・セフン)市長がデザインソウルを打ち出して、 その場に「東大門デザインプラザ(DDP)」を作るといって結局、露天商はまた追い出された。

変わらない露店の取り締まり

ソウル市が都心開発をするたびに、露天商たちはあちらこちらに押しだされた。 これに対して東廟の近くで商いをする民主露連監事のアン・ホ氏は話す。 「どうするにしても、貧民は自然と共に暮らさなければいけないのに、 人為的にあっちに行け、こっちに行けという。 本当にそれは不幸でしょう。 情感もなくなって…。胸が痛みます」。 そうだ。開発という貧民共同体を破壊することだ。

われわれは80年代から商いをしている果物露天商のヤン・チュンソク氏からも似た話を聞いた。 「働けるような仕事はなく、社会政策は不在だから露店ができる。 露店は世界でもない国はなく、貧民にとっては露店を認めることが正しい政策なのに、何度も摘発する」。 彼は政府が変わっても露店政策は根本的に変わっていないと言う。

黄鶴洞近くの嶺東橋で会った露天商の話と全く同じだった。 東廟近くの蚤の市は摘発しないのに、永渡橋の露店は朝晩一日二回取り締りをする。 取り締まりで区庁が持っていった物は、2〜3日後に8万ウォンを払って取り戻さなければならない。 口に糊することも難しいのに8万ウォンとは。 チェ・インギ氏は鍾路区庁が露天商の拡大を防ぐために永渡橋だけ取り締まっていると説明した。 貧民を追い出す態度は、暗渠化工事や復元工事のような大きな開発だけでなく、このように日常的に進行していた。

古本屋がある平和市場を通りすぎると清渓6街の全泰壱橋が見えた。 ヤナギが素晴らしく、ポドゥル橋と呼ばれて全泰壹像が作られて、 今は全泰壱橋とも呼ばれる。 彼は平和市場でホコリと低賃金で苦しむ縫製労働者の権利のために頑張った。 彼の評伝に書かれていた「女の子たち(シタ)が眠ることもできずにただ働いても金がなく、 お昼を食べられないのが痛ましくて全泰壹は交通費で彼女たちのためにタイ焼きを買ってとぼとぼと歩いてきた」というエピソードを思い出した。 そのタイ焼きをここの露天商たちが売っていた。 露店は今でも貧しい人々が期待できる生存の手段だ。

貧民の住みかが少し残っている清渓川で 「粘り強い私たちの人生のため」の歌、「清渓川8街」を心の中で歌ってみる。 「ある青筋を立てたリヤカーひき」がこれ以上みじめにならないことを望みながら、 われわれは飢えをなだめるために広蔵市場へと向かった。[ワーカーズ39号]

原文(ワーカーズ/チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2018-02-20 07:33:11 / Last modified on 2018-02-20 07:33:14 Copyright: Default

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