本文の先頭へ
LNJ Logo 韓国:それは本当に女性主義でしょうか?
Home 検索
 




User Guest
ログイン
情報提供
News Item 20171213
Status: published
View


それは本当に女性主義でしょうか?

[ワーカーズ]Say Anything Festival

ソン・ジフン(無職。生きる道を探しています) 2017.12.12 13:42

最近目撃した いくつかのことで混乱した。

#1

あまり親しくない知人のAは、フェミニストを自任する女性だ。 彼女はこの前、公衆トイレに書かれた落書きに、ある電話番号を発見した。 トイレの壁の落書きにありがちな悪徳にとても忠実な落書きだ。 番号の主人は男性のものと推定された。 彼女がその電話番号を保存すると、保存された電話番号は番号の主人のSNSアカウントにつながった。 AはそのSNSアカウントの画面をキャプチャして自分のSNSに公開した。 番号の主人のSNSを公開するにあたり、Aは彼を「隠しカメラ犯」と指定した。 周辺の人々が彼が隠しカメラ犯ではない可能性、その番号の主人が彼の身上を把握した人々から後ろ指をさされる被害者になる可能性を指摘すると、 彼女は「彼に弁明の機会を与えるべきと考えた」と答えた。 理解し難いことだった。 もちろん隠しカメラの犯罪は悪い。

#2

ハン・ソヒという芸能人志望者はフェミニストを自任する。 さまざまな事件で有名になった。 有名人がフェミニストを自任して女性の人権についての掲示物を自分のSNSにしばしば書き込んでいたため、 彼女にはかなり多くのメッセージが到着したようだ。 ハン氏は自分のSNSに数人のトランスジェンダーから 「トランスジェンダーも女性なのだから、私たちの人権に関する掲示物も書いて欲しい」という要請を受けたとし 「トランスジェンダーは女性とは思わない。 私は『女性』の人たちだけを抱いて行く」という内容の文を書き込んだ。 トランス男性(FTM)が送ったわけでもなかったろうに、 なぜあえて女性の人たちだけを抱いて行くと答えたのだろうか。 理解し難いことだった。 もちろん、時としてSNSは人生の浪費だ。

#3

知人のBが地下鉄の中で化粧をしている女性についての話をSNSに書き込んだ。 地下鉄で化粧をする女性に他の女性が「女の自尊心」を云々しながら、 地下鉄で化粧をしてはいけないと面と向かって非難すると、 その面罵に対して他の乗客たちが「ナム理事どこで化粧をしてもいいじゃないか』と制止したというエピソード。 コメントについていたのはCは化粧をする時、私は臭いが不愉快だから公衆空間で化粧をするのは止めたほうが良いという意見を出した。 女性に化粧を強要する構造的な問題をまず解決すべきだという前提だった。 「誰もが化粧をせずに暮らせれば良い」という結論が出そうだった刹那、 新しいコメントがつき始めた。 「漢南オヤジが登山服を着てマッコリの臭いをさせているのはどうなんだ」という要旨の。 「化粧で何かにおいがするのか」と問うコメントもあった。 理解し難いことだった。 やはりSNSは時としてよりも、さらにしばしば人生の浪費であるようだ。

#それが本当に女性主義でしょうか?

女性主義を「暖かい心」や「慰労の言葉」のようなものと定義していた。 もちろん学術的にも、また運動的にも正確な正義ではない。 ただし、女性主義のテキストを読み、周辺の女性主義者を見てそう考えた。 搾取される労働者から抑圧される女性の地位を発見し、 差別される障害者から排除された女性の存在を認識するような。 だから恩恵授与や憐憫ではなく、手をさし出して連帯することにより、 互いの存在を認めるようになることが女性主義の本質だろうと考えた。 そして女性主義運動はすべての暴力と差別と排除に抵抗し、 少数者と連帯し、どんな存在も消されないように全力をふりしぼる運動だと考えた。

だが最近のさまざまな論争を見て、あるいは私が間違っているのではないかと考えるようになる。 子宮と乳房を付けて生まれた女性だけを相手にするのが女性主義だという主張、 世の中のすべての問題は女性を抑圧する家父長制のためだという断片的な視線。 抵抗をもっともらしく装った暴力が、もうひとつの暴力を生産するうんざりする悪循環。 世の中で一番完璧な状態はどんな言語も学ばない状態で、 一番危険な存在はただ一冊の本しか読まなかった人だという思いがたびたび浮かぶのは、 私がまったく何も知らないためだろうか。 本当にそれが女性主義なのですか?

事実「本当の女性」を云々するのは「本当の男」をもっともらしく装う男根主義の鏡像に過ぎない。 女性主義運動が女性としての存在を確認し、男性による抑圧と暴力から抜け出すの努力だとすれば、 他の人々の「存在の確認」と「暴力から抜け出す努力」を嘲弄して裁つことはできない。 あまりにも簡単な論理。 誰も殴ることはできないという主張をするのなら、あなたも誰かを殴ってはいけない。 「あいつが私を殴るのは嫌だが、私があいつを殴るのはいい。 あいつは殴られてもいいから」。 地下鉄で化粧するキムチニョをののしりながら、化粧を強要する社会のことは考えない江南虫と違わなければならないのは何か。 被害は他の被害を量産する免罪符ではない。

事実、今回の原稿を書き始めた時は、少し腹が立っていて 「フェミニズムを自任したい人は試験でも受けろ」といったナンセンスな言葉をべらべらしてみようかとも考えた。 990点満点のフェミニズム試験で850点を越えなければ、SNSに関連投稿が出来ないようにする法条項でも作ろうという放言祭り。 だが条件がついた権利は権利ではない。 とても疲れて複雑だが、人権とは本来そういうものだ。 さっぱりとしていようと、不便だと勝手に困らせて殺してはいけない。運動の歴史はその決心を強固にしてきた議論の蓄積だ。私もそれで試験堰者は話結局しなかったじゃないの。

あなた方がFaceBook中で描いた女性主義が本当に女性主義なのかモニターの外の世の中を見よ.

付記
この文は〈ワーカーズ〉の編集方向と異なることがあります。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


その世界の外のフェミニズム

[コラム]私たちの人生と運動は外側に向かわなければならない

ソン・ジフン(無職。生きる道を探しています) 2017.12.12 14:11

[編集者注] 〈ワーカーズ〉 37号に掲載されたソン・ジフン筆者の「それは女性主義ですか?」のコラムをインターネットの記事として送稿する前、 編集局の内部では筆者に原稿のテーマがはっきりするような題名の修正と文章の挿入を提案しました。 これに筆者は原文を新しく作成するという立場を明らかにし、編集局は筆者が送ってきた文をめぐって議論した末に筆者の同意を経て、原文と修正文の両方をインターネット版に掲載することに決定しました。 最近、インターネット上で女性主義をめぐる論争が続いています。 チャムセサンはこれについて、さらに活発な論争が続くことを望み、これに関する反論と追加の寄稿も歓迎します。

「正太郎コンプレックス」と「ロリータコンプレックス」は違うものかという主題をめぐり、しばらくオンラインが騒々しかった。 ある放送で、ある女性哲学者がショタコンとロリコンを同一線上で見ることはできないと話したのが発端だった。 「ジェンダー権力」についての話だ。 社会文化的な文脈で対象になる女性と男性の権力の差異を基盤として理解しなければ、 どんな現象も正しく理解できない。 ロリコンや児童エロスのような深刻な主題はもちろん、 デート費用負担、女性専用駐車場、女性部の存在のような今、口にすることもうんざりする古臭い話まで。 ジェンダー権力について、社会的脈絡についてしっかり考えなければ不明瞭な「イコーリズム」などに陥るのが常だ。 「食事代の割り勘もしないメガリアたち」のようなバカバカしい声がでてくることになるだろう。

#今や「フェミニズム・リブート」

近来の韓国のフェミニズム運動は、今や対立の時代のように見える。 「フェミニズム・リブート」という言葉まで出てくる程、フェミニズムに対する社会的関心と議論は飛躍的な量的拡張を成し遂げた。 今、社会のあちこちであたりまえのようにフェミニズムという言葉を聞く。 しかしその量的拡張がそのまま質的上昇につながるとはいえない。 少なくとも「オンライン空間」だけはそのように見える。 (フェミニズム議論の拡張にはSNSをはじめとするオンライン空間の役割は重大だった。 運動の主要戦線は相変らずオンラインにあったりもする だからオンライン上での葛藤と対立、そしてその葛藤と対立が呼んだ暴力と差別に対する議論はフェミニズム運動全体でも非常に高い意味量を占有するほかはない)。 それは「権力」と「ジェンダー権力」混同する形で現れる。 最も代表的な事例が性少数者に対するフェミニズムの一部の排斥だ。 「スカフェミ(インターセクショナルフェミニズムを否定的なニュアンスで呼ぶ言葉)」と 「TERF(Trans-Exclusionary Radical Feminism)」の対立。

最近では、ある学者が学会で論文発表を阻止される事件が起きた。 「ラジカルフェミニスト」を自任する人々が主にその学者の発表に反対して学会に「圧力」をかけた。 その学者が「性少数者としての女性嫌悪」を助長するという理由であった。 彼らが話す「性少数者としての女性嫌悪」とは、ゲイ・コミュニティで使われる用語やトランスジェンダーの性自認を擁護するものだった。 「圧力」がかけられ、「権力」が作動した。 これは傾いた「ジェンダー権力」という社会的脈絡の上で理解しなければならないのだろうか。 あるいは「権力」を通した抑圧という既成の構造が外皮を変えて作動していると理解しなければならないのだろうか。 フェミニストを自任する限り、芸能人志望者のSNSも最近の話題だった (その芸能人志望者はさまざまな事件でデビュー前から非常に有名だ)。 有名人がフェミニストを自任して、女性の人権についての掲示物をSNSにたびたび書き込むので、彼女にはかなり多くのメッセージが到着した。 彼女は自分のSNSに数人のトランスジェンダーから受け取ったメッセージを書き込んだ。 内容はつまり「トランスジェンダーも女性なのだから、 私たちの人権に関する掲示物も書いてくれ」という要請を受けたということ。 彼女は「トランスジェンダーは女性だとは思わない。 私は『女性』の人たちだけを抱いて行く」という内容の文を載せた。 「女性」として自分をアイデンティファイする人々に「君は女性ではない」と断定する発言だ。 「私の運動からあなたたちを排除する」という発言でもある。 存在を断定し、排除して疎外するものをどんな名前であれ「運動」と呼べるのか。 発話の形態が穏健であれ急進的であれ、運動の要諦は疎外された主体を復元することにある。 それは私の運動が、他の何かを疎外することが容認されないという意味でもある。 「ジェンダー権力」の不公平を正すために、もうひとつの「権力」として暴力と差別、搾取と抑圧を許容するのは矛盾でしかない。 事実、それがきちんと「ジェンダー権力」の不公平を正せそうもない。

私はただ一つのアイデンティティに規定されない。 私は指定性別男性の異性愛者で、太っていて、頭に脱毛が来た男性だ。 私は男性としてジェンダー権力の優位を占めているが、学閥がない泥の匙の労働者として、この社会の階級構成の下段部に置かれている。 私は異性愛者として主流にいるが、太ってぶさいくな男として、容貌至上主義の社会から排除されている。 私の多様なアイデンティティは、互いに何と接続して交差するのかにより、疎外を二重に加速したり中和させたりもする。 交差性(インターセクショナリティ)という用語を初めて使ったキンバレー・クレンショーは「交差点での交通事故」を例にあげた。 交差点で交通事故が起きる場合、事故はただ一方向から来た車によって起きるのではなく、 さまざまな方向、時にはすべての方向から来る車によって起きることがあるという話。 事故はさらに大きくなる。 事故の収拾方法も多様化して、責任追及の方式も変わる。 フェミニズム運動だけでなく、すべての運動は実際、互いの関係、 そして主導者の配置により生成されるほかはない。 あえて運動のような大層なものではなくてもかまわない。 存在するすべてのことは、他者の顔を確認することから始まる。 抑圧された女性が搾取される労働者として自らの抑圧を認識するように、 疎外された労働者が排除された障害者から自らの疎外を発見するように。 これら全ては関係を結んでおり、どれか一つだけが自分のアイデンティティにはならない。 各自の多様なアイデンティティがどんな配置になって、どんな器才と、どんな欲望と接続し、交差するのかによって、 生の様式も、その生の様式を変えるための運動も発生する。

ラジカルフェミニズムに意味があった前世紀は、フェミニズムが「貝拾う音(訳注:2000年代初頭にユ・シミン氏が「津波が来ているのに貝を拾う音がした」と言って組織から女性活動家が離脱した)」に置き換えられた当時の運動に抵抗する声だったためだ。 8〜90年代を貫いて、ラジカルフェミニズムはフェミニズム運動が固有の目的を持っていることを確認し、 それが男性が専有する運動の付属物ではないことを証明した。 そして今は「フェミニズム・リブート」の時代だ。 労働が解放されれば女性も解放されると言っていた当時のオヤジやオッサンたちの主張と 「子宮がある女だけが女」だとして「あなたではない人たち」を排除する今の主張はどれほど違うのか。 世の中をただ一つの本で理解して、ただ一つの窓から観察することはできない。 韓国社会、いや実はこの世界全体が、傾いたジェンダー権力を基盤に作られているが、 ただそれだけが問題であとはすべて何でもないわけではない。 XX染色体と子宮を持つ存在だけが抑圧され、搾取される女性で、 残りはみな豊かで気楽な声をならべているわけでもない。

#モニターの外側で

告白すると、これは書き直した原稿だ。 修正が遅れたため、最初に書いた原稿が今回号の〈ワーカーズ〉に掲載された。 この文は多分インターネットだけで流通するだろう。 私は修正されていない古い原稿で「女性主義は暖かい心と慰労の言葉だと考える」と書いた。 私が望み、期待する女性主義だけが本当の女性主義だと泣き喚いているように見えるかもしれないと思った。 世の中に向かって刃を突きつけなければ生存さえ難しい女性について考え、 見たこともない腹いせをして、金持ちの漢南虫の「本当のフェミ」認定うんぬん。 そんなこと。 真意が伝わればうれしい。 私の胎生的限界を認め、それでもその限界を克服し、 さらに多くの理解と連帯を求めるために努力したい。 それと共にたまには称賛してもらえればうれしいし。

私がしようとしている努力は、私が認識している世界の外を絶えず見る努力だ。 ジェンダー権力を出る時から持って、実は考えたこともない人生を努めて見ようとする努力。 そこで私の暴力を思い出し、あなたが受けた抑圧を思い出す努力。 私の人生の矛盾を認識する契機にして、あなたの戦いに一緒に連帯しようとする努力。 そうして私とあなたが同じ世界に住んでいて、 あなたの苦痛と私の苦痛が実は横糸と縦糸のようにからんでいることに気付く努力。 ところがあなたの存在と私の存在は、特殊性を持ちながら互いに違うことを認める努力。 私が考える努力はそんなものだ。 ただフェミニズムの話ではない。 私たちの人生は、あるいは運動は、外側に向かわなければならない。 あなたが見ている苦痛がいかに大きくても、その外にも苦痛がある可能性があることを知らなければならない。 あなたの苦痛がもうひとつの暴力と差別と搾取を容認するフリーチケットになるわけではない。 窓の形によって世界は違って見えるが、本当の世の中は窓から見る世の中よりもはるかに多くの姿を持っている。 その上、窓はまたとても多い。

話したように「ネットフェミ」は今、韓国フェミニズム運動の主要な戦線だ。 数えきれない程多くの主義と主張、言葉と文、イメージがオンラインをさまよう。 社会的な潮流になったり実際に世界を再構成したりもする。 だからネットフェミの運動と闘争は重要だ。 しかし同時にそこで流通する全てが本当に全てではないこともある。 「オンラインのお姉さんたち」のおかげでコルセットを脱いだとしても、 だが本当にあなたは本当にコルセットを脱いだのかを考えてみることだ。 気に入って楽なコルセットに着替えたのではないか。

付記
この文はチャムセサンの編集方向と異なることがあります。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2018-01-03 08:02:16 / Last modified on 2018-01-03 08:02:19 Copyright: Default

関連記事キーワード



世界のニュース | 韓国のニュース | 上の階層へ
このページの先頭に戻る

レイバーネット日本 / このサイトに関する連絡は <staff@labornetjp.org> 宛にお願いします。 サイトの記事利用について