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韓進重工業解雇者「なぜあああして双竜車は死んでいくのか分かるようだ」

[インタビュー]韓進重工業妥結以後を暮らす解雇者たち

チョン・ヒョンジン記者 2011.12.23 10:42

11月10日。韓進重工業の労使交渉が妥結し、キム・ジンスク指導委員は309日、 死守隊は137日で85号クレーンから降りた。そして85号クレーンは撤去された。 だが相変らず85号クレーンの下を離れられない人々がいる。2012年の末まで、 再雇用と生計支援金2000万ウォンを骨子とする勧告案を受け入れ、まだ不透明 な状況とむなしさに耐える解雇者たちだ。

1か月ほど経った今、彼らはどう暮らしているのか? 「貧しい大工の息子に生ま れた」イエスのクリスマスを四日前にして、二人の韓進重工業解雇者と会った。 相変らず韓進重工業解雇労働者のイ・ヨンデ氏とシン・ソンフン氏。希望バス の後、『ヨンデおじさん』と言われるイ・ヨンデ氏は、後輩や同僚と共に復職 闘争をする全国の事業場を訪問しにいくところだった。

イ・ヨンデ氏は、誰よりも韓進重工業復職闘争に忠実な「闘士」の姿を見慣れ ているが、事実、彼はクレーンの上にいる時、自分でも一番だというクレーン 技師だった。交渉の後、家族の所に帰ったが、相変らず行く所がないと言う。 朝には作業服を着て自然に85号クレーンがあった場所に出勤する。しかし会う 人も、する仕事もない。ただそこにいて、偶然同僚と会えば一杯飲むのが彼の 日課だ。

記者と会った時、イ・ヨンデ氏は暗い顔で「双竜自動車解雇者がなぜああして 死んでいくのか分かるようだ」と話した。『整理解雇撤廃』のため、誰よりも 熱心に戦った。五回の希望バスのたびに彼はマイクを持ち、「整理解雇が撤廃 されるように命の限り戦う」と叫んだ彼は、まだ最終協議案を受け入れられな いといった。

長い戦いを準備していたが、機会を奪われたという怒り、むなしさと孤独さ、 未来への不安感で毎日を送る彼は、12月14日から同僚のシン・ソンフン氏と共 に全国の闘争現場訪問を始めた。交渉前からこの戦いがどうなっても、一緒に 全国を旅しようという約束をしていたし、希望バスに乗ってきた有難い人々に あいさつをして、自分なりにまとめたいと考えた。

キム・ジンスク指導委員が聖公会大で特講をした翌日、ソウルでイ・ヨンデ氏 とシン・ソンフン氏に会った。相変らず韓進重工業のマークが鮮明な青い作業服 を着ていた。

▲全国の闘争中の事業場を回るイ・ヨンデ氏とシン・ソンフン氏。この日のインタビューの後は双竜自動車の同僚に会いに出かけた。

『整理解雇撤回』という目標を目前で放棄しなければならなかった悲哀
『妥結』が全てを終わらせたのではない

12月14日、イ・ヨンデ氏とシン・ソンフン氏はまずキム・ジュイク、クァク・ ジェギュ烈士が眠る墓地に寄り、一杯の酒で行ってくるとあいさつをした。そ して行った所は非正規職化反対闘争を続ける嶺南大医療院だった。イ・ヨンデ 氏は、嶺南大医療院労組の事務局長が3年7か月の戦いの末に大法院で復職判決 を受けたという話を聞いて、また恥辱感に陥ったと告白した。

「実は、私はこの戦いが来年の総選挙、大法院まで行くだろうと思った。これ は韓進重工業だけの問題ではなく『整理解雇撤廃』のための重要な戦いだった からだ。だが最後に皆が同意した協議案がひっくり返り、われわれは結局行政 訴訟の取り下げに同意する『降伏文書』に署名をした。とても恥ずかしい。そ の協議案の受け入れで、私たちの心理的な苦痛は当事者でなければ誰もわから ないだろう」。

イ・ヨンデ氏は2009年から続いた戦いで、深刻な絶望感に陥り、死さえ考えて いた時、希望バスと出会い、それが自分を救ったと話した。そしてその希望で 最後まで整理解雇を撤回させると約束し、また、そう話してきた。

彼はこの戦いが、少なくとも総選挙まで続くと思った。それはキム・ジンスク 指導委員も同じだったと言う。だがある日、受け入れるべき協議案が投げられ、 それは整理解雇撤廃闘争委員会(整闘委)の内部に対立を呼んだ。

イ・ヨンデ氏は、初めて鄭東泳(チョン・ドンヨン)議員、趙南鎬(チョ・ナモ) 会長、雇用労働部長官が共に話した勧告案は、最終内容と違っていたと話した。 鄭東泳議員が元職復職、会社側の訴訟取り下げ、学資金支援を保障する勧告案 を持ってきた時、イ・ヨンデ氏と鄭東泳議員は一時間半ほど議論し、その程度 なら合意できると判断し、後の解雇者、キム・ジンスク指導委員とも意見を集 めた状態だった。

だが、最後に韓進重工業の李在鎔(イ・ジェヨン)社長をはじめとする使用者側 と民主労総、労組支部長が会った交渉テーブルで内容が変わった。

労組側の行政訴訟取り下げを条件とし、復職ではなく再入社、学資金支援条項 もなくなり、キム・ジンスク指導委員の罰金と民事訴訟も取り下げではなく最 小化に変わった。復職ではない再入社は、20〜30年間の勤続手当の消滅だった。 その上、再入社と生活支援金の2千万ウォン支給は2012年末までで、これは会社 は事情を上げて、いくらでも言い逃れられ、2千万ウォンの支給も4回にわけて 支払われることになった。

「学資金支給、勤続手当...これは全体的に見れば、特別ではなさそうに見える。 だが長期勤続をしてきた私たちとしては、まさに切迫したもので、これまで働 いてきた痕跡がすべてなくなる。解雇者を排除して交渉に臨んだ彼らにとって、 それらは重要ではなかっただろう。私たちの立場よりも政界、労組支部、民主 労総も、何とか終わらせて成果を出すということ、賃金団体協議を終わらせる という考えに追われたのではないか? 私たちがたかが行政訴訟の取り下げや、 2千万ウォンを分割して受け取るために戦ったのだろうか?」

▲12月14日イ・ヨンデ氏とシン・ソンフン氏は全国ツアーの前、キム・ジュイク、クァク・ジェギュ烈士に「行ってくるぞ」と挨拶をしに行った。

イ・ヨンデ氏は声を高めた。彼は11月10日の組合員の合意決定の時も、キム・ ジンスク指導委員がクレーンを降りてくる時もそこにいなかった。考えられな いと言う。受け入れられない合意案で最後まで戦うと考えた。94人の解雇者の うち二日間で6人を除く全員が署名したことを知っても、彼らだけでも集めて、 大法院まで行く決心だった。しかしすでにほとんどが署名をした状況で、敗訴 や棄却の可能性がはるかに高いという弁護士の言葉を聞き、放棄ではない放棄 をしなければならなかった。そして署名期限最終日、1秒もかからず署名をする 前、イ・ヨンデ氏は一時間以上も文書を見て、また会って署名をした。何とか 決定しなければならない状況だったのだ。イ・ヨンデ氏はその文書を『降伏文書』 と呼んだ。

「署名する日、正常な精神状態ではなく、酒を飲んだ。4月まで行けば勝てると いう確信があったからだ。その時の対立は言葉では表現できない。だが学資金 や勤続手当のことでキム・ジンスク指導委員にクレーンの上にずっといろとは 話せない。人命を担保にして、これ以上は戦えなかった。そうなれば、金のた めに私たちが今まで戦った、人命をかけて駆け引きしていると罵倒されるでは ないか?」

イ・ヨンデ氏はインタビューに応じながら、こうした話が会社側に口実を与え る可能性もあり、整闘委側に背信を与える可能性もあるが、知らせたいといった。

「交渉が妥結した後、人々が私におめでとうと言う。つらい過程が終わって、 キム指導委員は生き延び、これまでご苦労さまという意味だとは分かる。だが これはめでたいことではなく嘆かわしいことだ。1次から5次の希望バスまで、 いつも話してたことは、最後まで食い下がり整理解雇を撤回させるという決心 だった。だが今はどの集会に行っても、恥ずかしくて話せない。そのすべての 言葉が虚構になったからだ。キム・ジンスク委員が生きて降りてきたことだけ が語られ、整闘委内部の対立や解雇者個人の苦しさは伝えられない。天に唾す るようなことだが、一断面や全体的なものだけを語り、取り繕わないでほしい」。

今は一緒にいるのがぎこちないお父さんの席
働いていた職に戻ること、望むのはそれだけ

「お父さんはなぜ家に帰ったの?」

イ・ヨンデ氏が留まる所がないのは家庭も同じだ。2年ほど外で戦っている間、 家でも彼は異邦人になった。一度も欠勤せず12年間働き、やっと用意した家も 生活費のローンで失う危機だと言う。そして、この状況はすべての解雇者も同 じだと残念がる。

何よりも、今度二番目の子供が大学に入ったのも幸か不幸かわからない状況だ と言う。学費の心配にむしろ落ちればと希望する気持ちもあったと打ち明けた。 今、子供たち二人が大学生になり、末っ子は高校生になったが、世話の心配が 大きい。

「私たちが望むのは生存権、働いて暮らすということだけだ。私が元々働いて いた席に戻してくれということが、それほど大きな要求か? 私がどんな悪いこ とをしたのか。労災を出したことも欠勤をしたこともない。なぜ、そんな私が 解雇され、また再入社しなければならないのか。来年までに再入社をさせると いうが、それは信じられない。今後残った11か月は絶望的なだけだ。未来をど う準備しなければならないだろうか?」

交渉後、ある解雇者が会社側に生活支援金を受け取りに行ったという。その時、 韓進重工業側は解雇者にもう作業服を着て歩き、会社のイメージを失墜させた り、会社に累を及ぼせば再入社させないといい、覚書に印鑑を押し、作業服と 出入証を返却しろと要求した。労組はこれに抗議して交渉内容を守らなければ、 また行動に突入すると出た。それで支給されたのが2千万ウォンの1次支給分だった。

すでに何か所かの闘争現場を回った彼は「全国が戦場のようだ」と言う。知ら ずにいるだけで、全国あちこちで苦しむ労働者はとても多く、彼らを見るたび に恥と自責感を感じていた。その一方でこれまで希望バスを通じ、またさまざ まな方法で助けてくれた人々に挨拶を伝えたかった。

「私たちを助けてくれた多くの人々にいちいち挨拶しなければならないが、現 実は不如意だ。死の絶望に陥っていた私たちにとって彼らは空から下りてきた 太い綱だった。その太い綱がなければ、もう死んでいただろう。一生忘れず、 生きて返したい。絶望を希望に変えてくれた人に心から感謝して、私も他の人々 の役に立てば、まっ先にそこに駆けつけたい。私たちが作った希望を絶対に忘 れず、今後も連帯の綱を離さず、さらに重労働の難しいところに希望バスが走っ て行くように望む。どう生きるべきかを教えてくれた希望バスに報いるために も、さらに熱心に生きる素敵な労働者になりたい」

一緒にいたシン・ソンフン氏は、キム・ジュイク烈士が死んだ時、遺体が腐敗 しないようにドライアイスをクレーンに上げ、今回はキム・ジンスク指導委員 と訪問者の間のコミュニケーションの窓口役をした。だから彼は何よりもキム・ ジンスク指導委員が生きて帰ったことが何よりも大きな慰安だと言う。

シン・ソンフン氏は「韓進重工業の問題は、私たちだけの問題ではなかった。 このことで整理解雇撤回の開始にすることが目標だった。その目標は実現でき ず、今では再入社を保障できず、入社後も循環休職などの心配をしなければな らないが、その時まで連帯と闘争は続く」と力説した。

▲1次希望バスでイ・ヨンデ氏はこう叫んだ。「私たちの切迫を分かるか。こうして来て、ただ帰るのなら今すぐ帰れ」。希望バスがくる前、解雇者はみんなが帰った後の不安感のほうが大きかったという。だがその日以後、希望バスは続き、さらに大きくなった。希望バスが何をできるのか、解雇者も参加者も知らなかった。

インタビューの後、イ・ヨンデ氏とシン・ソンフン氏はまた車に乗って、平沢 の双竜自動車へと向かった。また釜山に帰った時、どんな時間が待っているの か、とても恐ろしそうだった。しかし淡々と別の自分たちがいる所に向かって エンジンをかけた。

韓進重工業事態はまだ終わっていない。殺人を呼ぶ整理解雇制を撤回させると いう大きな山が残っていて、希望を扇動した罪で閉じ込められているソン・ギョ ンドン詩人を救わなければならず、キム・ジンスク指導委員の以後の状況も見 守らなければならない。何よりも94人の再入社がどうなるのか、しっかり注目 しなければならない。しかしそれよりも重要なことは、94人解雇者の『今この 時間』だ。双竜自動車解雇者の死でわれわれは制度、法律、ストライキ、闘争、 妥結だけを見ていた視線を転じ、労働者ひとりひとりの苦痛、心の傷を見なけ ればならないという千金のような教えを得た。

もうひとつの希望バスは双竜へ、コルトコルテックへ、江汀へ、そしてまだ私 達が知らない苦しむ労働者たちの所に走って行かなければならないが、相変ら ず釜山の影島でもエンジンをかけていなければならない。その希望バスは今、 シェルターになり、治癒者になり、話し相手になり、しんばり棒とツエになら なければならない。それで希望バスは数えきれない程複製され、進化し、より 大きくならなければならない。少なくとも今までは『妥結』という単語には、 『新しい日の開始』という意味のほうが深い。すぐやってくる赤ん坊イエス様 を私たちの胸に抱いて迎えることが、それだ。(記事提携=カトリックニュース・ いまここ)

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2011-12-24 03:11:26 / Last modified on 2011-12-24 03:11:30 Copyright: Default

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