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投稿:平和の礎の読み上げに参加して/血で綴られた沖縄戦の歴史 | ||||||
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投稿者:吉原 真次 平和の礎の読み上げに参加して/血で綴られた沖縄戦の歴史6月1日から23日にかけて、沖縄・糸満市の平和記念公園の「平和の礎」に刻まれた沖縄戦の戦没者24万2567人の名前を読み上げる集い(集い)が、ビデオ会議システム(ZOOM)を通じて開催され、国内外から5810人が読み上げに参加した。集いは玉城デニー沖縄県知事の母親の出身地の伊江村の会場から始まり、最初に玉城知事が自らの親族を含む戦没者の名前と年齢を読み上げた後、沖縄県内の各地と北海道、長野等に設けられた会場、海外と日本の個人宅からオンラインを通じて読み上げが行われた。 6月3日には、長野市にある「松代大本営」の展示施設から12人が2時間をかけ長野県の戦没者1000名と沖縄県の戦没者1000名の名前を、14日(現地時間13日)には、ブラジルから沖縄に留学経験がある沖縄系ブラジル人が作る「うりずん会」6人が、30分をかけ沖縄の戦没者500名の名前と年齢を、20日には沖縄戦では国内で沖縄県につぐ1万808人の戦没者を出した北海道・札幌市から、31人が沖縄戦で亡くなった親族等に思いを馳せながら3時間半をかけ3500名の北海道の戦没者の名前を、21日には約30人が2時間をかけて2000名の戦没者の名前を読み上げた。14日の読み上げは海外の沖縄県系人の初めての団体参加で自己紹介はうちなーぐち(沖縄ことば)とポルトガル語で行われた。20日と21日の読み上げは札幌市では初めて行われたもので、2022年に始まった集いが回を重ねるごとに国内外の平和を願う人々の心を捉えていることを示している。 私は沖縄県の戦没者500人の名前と年齢、鹿児島県の戦没者500人の名前を1時間かけ読み上げることができた。集いの実行委員会から送られた名簿を印刷して何度も目を通し、昨年の倍の時間をかけて練習して読み上げに臨んだ。一人一人の名前を読み上げることで生きたかった戦没者の気持ちに近づけたような気がする。そして読み上げは平和の為に行動する姿勢を発信するものだと思う。 読み上げの練習をしていると、戦没者の一人一人がどんな人でどんな家族や友人がいたのか、そしてもし生きていたらどんな人生を送ったのか、その度にふと思うことがあった。叔母の手紙によると、陸軍歩兵第214連隊の通信隊に所属し、1994(昭和19)年9月25日にビルマ(現ミャンマー)のチンドウィン州ジンガラインで戦病死した伯父は、酒も煙草もやらず、家に帰って来た時には弟や妹の為にキャラメル等のお菓子を持ってきた優しい人だったそうだ。そんな人が生きていたらきっと暖かい家庭を築いただろう。もしかしたら伯父の子供たちと仲良しになれたかもしれない。24万2567人の戦没者一人一人が持っていた未来が奪われたことを想うと気が狂いそうになる憤りを感じざるを得ない。 毎回の読み上げに際し、私は必ず沖縄戦に関する本を読むことにしている。その度に思うのは、軍隊は住民を守らないこと、さらに軍隊が最優先するのは軍隊自身と軍隊に命令を下す者の護持ということだ。1944年3月に創設された第32軍は住民を基地建設や少年兵等に使い、住民を戦闘に巻き込んでおきながら、避難民をガマ(自然洞窟)から追い出して戦火にさらし、住民の食糧を強奪し、あまつさえ戦争に協力した住民を虐殺した。 「ひめゆり学徒隊」を1945年3月末から軍の下で働かせた軍は6月18日に突然、学徒隊に解散命令を下して彼女たちを日米両軍の激戦の渦中に放り出した。学徒隊の死者の大多数は解散命令の後、戦場をさまよう中で生じている。これは国民の命を選別する冷徹な仕組みが軍隊に存在していることを如実に示すものだ。 米軍上陸も地上戦もなかった八重山諸島でもこの仕組みは作動した。宮古・八重山では、第32軍指揮下の独立混成第45旅団が、基地建設の為に老人から子供まで男女の区別なく住民を根こそぎ動員し、45年3月29日に男子生徒を中心に少年兵部隊「鉄血勤皇隊」を組織した。さらに第45旅団は45年3月から6月にかけ、石垣島の住民をマラリア有病地の島内山間部に、波照間島、黒島、旭間島、竹富島、新城島の住民を西表島のマラリア有病地に強制移住させた。 強制移住は沖縄本島での組織的抵抗が終了した後も続き、終了したのは7月から9月初旬。強制移住により、当時の八重山諸島の総人口3万1671人の53、8%に当たる1万6884人がマラリアにかかり、その内の21、6%、3647人が死亡した。一家全滅は62戸で201人、孤児となったのは198人。それに比べて艦砲射撃や空襲等の戦争による犠牲者は178人。軍は移住先がマラリア有病地だと調査で知っておきながら、確保していたマラリアの特効薬・キニーネを住民に与えなかった。移住先に食料はなく住民たちはカエルやタニシ、ハブまで食べざるを得なくなり、栄養失調で抵抗力のなくなった住民から先に死んでゆく。戦争マラリアで死亡した人々の多くは幼い乳飲み子、未就学児童や18歳以下の青年、老人、婦人。3647人の内、軍の命令による移住が原因で死亡した人は3075人で、572人が帰還後に死んでいるが、その原因は軍の食料徴発(強奪)。波照間島では強制移住前に軍は島民の飼っていた牛、豚、山羊等の家畜をと殺し、その一部を干し肉にして持ち去った。移住地から帰っても食料はなく栄養失調と医療品不足で島民はつぎつぎに死に、お墓は満杯となり、海岸に死体を埋めなければならなかった。 石垣島の戦跡ツァーの動画を見たが、軍は強制移住地の入り口に2階建ての監視所を設置して住民を監視した。移住地の最も奥には町役場があり、御真影(天皇の写真)と町役場の職員を守る為の立派な防空壕があったが、住民たちはたこ壺同然の防空壕を掘るしかなかった。動画では報告されなかったが程度の差はあっても軍の恐怖政治が行われていただろうし、実際に西表島の強制移住地では波照間島の住民が軍の命令を十分に果たせなかったという理由で殴り殺されている。 県民の四人に一人が亡くなった沖縄戦の後、二度と沖縄戦の悲劇を繰り返さない為に県民たちは沖縄戦の検証を行った。それは自分たちの被害の理由を徹底的かつ批判的に検証するもので、自分の生皮をはぐような耐え難い精神的な痛みを伴う、血で綴られた歴史である。そしてこの歴史を貶める者たちは自分に都合の悪い歴史的事な実を否定、矮小化し、一つの側面のみを誇張することで過去の歴史の評価を変える歴史否定論者に他ならない. 自分に都合の悪い事実を認めない者たちによって悲劇は何度も起こり、その度に大きくなった。補給や兵站を軽視した日本軍は日清戦争で戦闘による死者1401人を上回る1万1763人の戦病死者を出した。その他に輸送や補給を担った軍夫(臨時雇いの人夫)の死者は7000人と推定されている。藤原彰は『餓死した英霊たち』で日中戦争以降敗戦までの軍人・軍属の戦没者230万人の内6割は、栄養失調による餓死者と栄養失調に伴う体力の消耗の結果、マラリアなどの伝染病に関した広義の餓死者だと推定しているが、伯父もその一人だ。歴史を正しく認識することは悲劇を二度と繰り返さない為に必要であるだけでなく、死者に対する慰霊でもある。(6月30日) Created by staff01. Last modified on 2025-07-02 22:25:52 Copyright: Default |