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美術館めぐり:熊谷守一美術館40周年展「めぐるいのち」 | ||||||
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志真斗美恵 第11回(2025.5.26)・毎月第4月曜掲載 ●熊谷守一美術館40周年展「めぐるいのち」 モリと呼ばれた画家熊谷守一は、明治維新から十数年後、岐阜県付知町で裕福な実業家の家に生まれた。父は後に初代岐阜市長になった。守一が東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画専科在学中に父は死去。莫大な借金を残し、実家は破産。守一は苦労して卒業し、樺太漁業調査隊に記録係として雇用され風物や地形を描く。母の死を契機に一時岐阜で暮らすが、1915年35歳の時上京、唯一の在野団体であった二科展の会員になり油絵の小品を出品する。42歳の時、絵のモデルをした秀子と結婚し、翌年、長男・黄、2年後に次男・陽が、その翌年には長女・萬が生まれる。二科会の研究所に週1回教えに行き、そこで受け取るのが当時の生活費のすべてであった。 今回、大原美術館蔵の「陽の死んだ日」(チラシ参照)が出品されている。〈1928年2月28日熊谷守一〉とサインがある。肺炎だった。3歳にもならずに死んだ次男には何も残っているものがないと、形見がわりに守一が描いたものだ。その翌年、陽に似た次女・榧が生まれる。3女・茜は1歳で病死した。52歳の時、妻の実家の援助で今美術館の建つ土地に家を建てた。長女・萬は、女学校時代には勤労動員にでていたが、45年春ごろから肺結核で寝込み、一家は疎開できなかった。1947年に萬は亡くなった。 今回の展示には、長女の筆跡をまねて守一が書いたという掛け軸「南無阿彌陀佛」(1947)、仏壇にそなえた卵2個を板に油絵で描いた「仏前」(1948)、そして油彩「ヤキバノカエリ」(1957 図左)等、幾枚も長女の死を悼む作品がある。死後9年経っても守一は長女を思い、骨箱をもって帰る家族を描いた。〈モリカズ方式〉といわれる色彩と単純化した輪郭のみの描写で、顔にはなにも描かれていない。単純化されているからこそ、娘を失った父親の悲しみがあふれている。 孫が生まれて描いた「母子像」(1965 図右)も、〈モリカズ方式〉で描かれている。肌いろ一色の丸々とした赤ん坊を、抱いている次女・榧は、赤い上着、橙のスカートで、背景は茶色に塗られている。これらから、父親の喜び・悲しみが伝わってくる。 家族にもモリと呼ばれた守一は、ほとんど家を出ず、世俗的な欲望を持たず、生きとし生けるものを大切にし、97歳まで生きた。美術館の外壁には、彼の描いた蟻がいる(写真)。熊谷守一は、1967年には、文化勲章の内定を辞退し、5年後の勲3等叙勲も断っている。映画『モリのいる場所』(2018年制作・監督=沖田修一)では、94歳と76歳の夫婦を、山崎努と樹木希林が演じている。(6月29日まで 入館料・一般700円) 〈美術短信〉 6月15日まで、町田市立国際版画美術館で「日本の版画1200年―受けとめ、交わり、生まれ出る」展が開催されている(観覧料一般800円)。夏のような暑い日に小田急町田駅から徒歩15分ほどの美術館を訪れた。広い公園の中にあって、水辺で子どもたちが遊んでいた。 「文化交流から生まれたもの―奈良時代の仏教版画から、広重、巴水、棟方志功へ」とチラシに書かれている。7章に分けて、日本最古の印刷物〈無垢浄光大陀羅尼経〉(奈良時代767-769頃)から、仏教版画、浮世絵、創作版画、新版画、現代版画と連なる240点の収蔵品が展示されている。版画美術館ならではの展示で、版画が、私たちの生活の中で果たしてきた役割の歴史を知ることができた。 なかでも、20世紀の展示が私の興味を引いた。恩地孝四郎(1891-1955)の「母と子」(1917)、ドイツ表現主義の作家でブリュッケの創設者でもあるキルヒナー(1880-1838)の木版画「脱穀する人」(1922)、魯迅(1881-1936)による版画運動をはじめとした中国との交流を示した展示、第2次世界大戦後、教育版画運動のきっかけとなった山びこ学校での子どもたちの版画、棟方志功(1903-1975)の板画、1959年の上野誠(1909-1980)「ヒロシマ三部作」等、枚挙に暇がない。〈美術館めぐり〉第1回で取り上げた招瑞娟(1924-2020)の作品「求む」(1960)に出会うこともできた。彼女は、神戸を活躍の場として、第5福竜丸事件を契機に、白と黒の木版画で平和・公害を訴え、中国でも個展を開いている。 私は、ケーテ・コルヴィッツ(1867-1945)の作品を通して版画を身近なものとして受けとめてきた。魯迅が死の直前に発行した『ケーテ・コルヴィッツ版画選集』 (復刻版)や多数の版画雑誌も展示されていた。韓国の作品がなかったことは侵略の歴史の反映だろうか、残念だった。 Created by staff01. Last modified on 2025-05-26 10:25:46 Copyright: Default |