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LNJ Logo 美術館めぐり:「北川民次展 メキシコから日本へ」(世田谷美術館)
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 志真斗美恵 第4回(2024.10.28)・毎月第4月曜掲載



●「北川民次展 メキシコから日本へ」(世田谷美術館)

メキシコで育まれた自由への希求

「北川民次展 メキシコから日本へ」が世田谷美術館で開かれている。生誕130年にあたりこの展覧会は、北川民次(1894−1989)の生涯をみわたすものとなっている。

 彼の作風は、ヨーロッパの近代美術とは異なる独自なもので、それは、彼のメキシコ体験に負うものではないか。

 北川の著書『メキシコの青春 十五年をインデアンと共に』(1955光文社刊・1986年エフエー出版で再刊)と『絵を描く子供たち』(1952岩波新書)を読むと、兵隊としてニューギニアに行き、現地の人たちと深く交流した水木しげると北川はよく似ている。彼は、革命直後のメキシコで、現地の人びとと隔てなく交流した。メキシコで1921年から15年間、画家として活動したことは、その後の長い画家人生を決定づけた。民衆に対する温かいまなざしと鋭い社会批判という彼の美術活動の特色を、彼は生涯失わなかった。

 20歳で渡米した北川は、ニューヨークで、アート・スチューデント・リーグの夜学に通い、ジョン・スローンに師事した。スローンは、アカデミックな絵画に反発しグループを結成した画家である。この時期、北川は、劇場背景製作の職人として働き、劇場労働組合での長期のストライキも経験した。

 4年間暮らしたニューヨークを離れ、南部の農場で働き、さらにハバナへと北川は向かい、そこでメキシコ行の船を予約する。ところがその直後、ためた金もトランクも盗まれ、メキシコに上陸した時、ポケットには10ドルしかなかった。北川は、聖画行商人になり田舎を回った。当時、メキシコは、長いスペインの支配を脱し、さらにその後の独裁政治を倒し、民主的な社会を樹立しようとしていた。革命直後の息吹が北川を浸した。

 30歳で入った国立美術学校を数カ月で卒業し、画学生として旧僧院を利用した美術学校に住みこむ。そこで貧しい現地人を対象にした野外美術学校設立の相談に加わるが、設立メンバーに選ばれず落胆した。その後、助手として採用される。生徒に自分の収入を話し、「プロヘッソール」ではなく「コンパニェロ」(仲間)と呼ばせる。北川は、子どもの美術の才能を見いだし、かれらの自由を希求する精神を尊重する教師であった。そして彼らからも学ぶ画家であり、個展も開いた。

 1932年からの部下のいない校長としてのタコス野外美術学校時代、〈カーサ キタガワ〉には、〈メキシコ壁画運動〉を担っていたリベラやシケイロスも訪れた。パリでメキシコ野外美術学校の子どもらの作品を見て感激した藤田嗣治、アメリカ在住の国吉康雄、イサムノグチも訪れている。だが、野外美術学校は、政府の政策が変わり廃校になるところが相次ぐ。北川は1936年に日本に帰る。 帰国するまでの足取りをみたのは、そこに彼の創造の秘密があると思えるからだ。美術館の展示から、印象に残った作品をいくつか紹介しよう。

 1928年、メキシコで描いた「本を読む労働者」と「ロバ」。メキシコ人の生活と労働に欠くことのできないロバを、北川は愛情をもって描く。龍舌蘭の大きな葉を背景に、帽子をかぶり肩に布をかけ、本に熱中している男性が描かれている「本を読む労働者」も印象的だ。「トラムバム霊園のお祭り」(1930)の赤ん坊を抱いた女性の周りに花束を持った女性が何人も立つ。沐浴する女たちがいて、墓を取り囲む石の入った白い塀に沿って葬列が続く。この絵はメキシコ時代の代表作と言われている。

 帰国後、二科展に出品された「タスコの祭り」(1937)、「メキシコ3童女」(1937)、「ランチェロ」(1938ランチェロとは働く人の意味)は、特異性に注目が集まった。

 戦時下の日本で、メキシコのアステカ文明に伝わる昔話に材をとった絵本を制作し、絵画作品では、労働を描く。「豊漁の図」(1943)では、暖かな色合いの中、牛や山羊、犬が何匹も描かれ、その背後に、海辺の人びとがいる。「出征兵士」(1944)では、出征する青年、日の丸をもった子ども、彼を送る男女、彼らの表情は一様に暗い。

 北川は疎開で瀬戸に移り住み、戦後もそこで暮らす。メキシコ時代から、北川は、読み書きができない人びとに〈新しい文化〉を伝えようとした壁画や版画に関心があり、戦後の日本で制作をした。 北川は、美術教育に関心を持ち続けていた。1949年、名古屋の東山動物園で児童美術夏期講習会を開く。今回の展示にも、当時の児童たちの作品が展示されている。が、彼は「この国では、戦いを挑むことすら不可能なのだ」(『絵を描く子供たち』)と述懐している。

 「いなごの群れ」(1959)では、沖縄女性の嘆きと基地問題を主題とした。反安保闘争を描いた「白と黒」(1960)では、黒く描かれた機動隊と白の衣服を着た人びとを対比させ、不屈の抵抗を描く。

 最後の自画像と言われている「バッタと自画像」(1977)では、バッタとハンマーを振り上げた北川の顔がユーモラスに描かれている。メキシコのある部族でトーテム(血縁関係にあるとされる動植物)にもなっているバッタは、1匹では無力だが集まれば脅威にもなる。北川は」「バッタの画家」とも言われた。

 「元来美術は精神を燃え立たせ、抵抗の力を与え、勝利への道を拓く可きものなのだ」とかれは書き、その信念を持ち続けた。

(世田谷美術館・11月17日まで 郡山市立美術館・2025年1月25日〜3月23日)


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