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LNJ Logo 太田昌国のコラム : 半世紀前の出来事を振り返ることの難しさ
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 ●第88回 2024年3月20日(毎月10日)
【今月は筆者の都合により、掲載が遅れたことをお断りいたします】

半世紀前の出来事を振り返ることの難しさ

 50年前の出来事を、提示されて直ちに正確に説明しうるひとは、当事者であるか、よほどの関心をそれに抱き続けきたひとでもない限り、いないだろう。そのことをつくづく痛感させられる出来事が、この間立て続けに起こった。

 ひとつ目は、「東アジア反日武装戦線・さそり」に属していたとされる人物・桐島聡の一件である。この件について、私はすでに2件の文章を書いた。『週刊金曜日』2月16日号に「『東アジア反日武装戦線』とは何だったのか?」を、『現代ビジネス』オンライン(講談社)2月26日号に、「潜伏49年で死去・桐島聡が属した『東アジア反日武装戦線』とは何だったのか」を、である。

 後者は、「なぜ彼らは『連続企業爆破』を行ったのか…東アジア反日武装戦線の思想が生まれた背景」「東アジア反日武装戦線のメンバーの親たちは何を思ったのか? 作家たちは事件をどう描いたか?」「東アジア反日武装戦線メンバーの終わりのない悔悟と謝罪…暴力によらない抵抗は可能か?」などから成っており、オンライン版なので、いまも以下で読むことができる。関心をお持ちの方はお目通しください。

https://gendai.media/articles/-/124853
https://gendai.media/articles/-/124854
https://gendai.media/articles/-/124855
https://gendai.media/articles/-/124856

 これらとの重複は避けたいので、ここでの詳述は避ける。ただ重要な一点だけは繰り返しておきたい。桐島が緊急入院した病院で実名を明かして以降の報道では、病院から知らせを受けた公安警察が「桐島を聴取」との報道のそばには必ず1974年8月30日、「東アジア反日武装戦線・狼」が行なった三菱重工ビル爆破事件の写真が添えられた。圧倒的多数の人びとは、この報道を受けて、桐島が三菱事件の実行者のひとりであったと思ったに違いない。だが、東アジア反日武装戦線は、最初の結成グループである「狼」、後発の「大地の牙」、そして「さそり」と3グループから成っており、基本的には個別に行動した。桐島が「さそり」に加わっての最初の行動は、1974年12月23日の鹿島建設PH工場爆破=「(実行者の命名に即せば)花岡作戦」だから、彼は4ヶ月前に行われた三菱重工ビルの一件とは無関係だ。しかも「さそり」は、多くの死傷者を生んだ「狼」の失敗を繰り返さないことを出発点に据えた。それでも、1975年4月27日に「さそり」が行なった間組江戸川作業所爆破で、事前調査の不十分さゆえに負傷者が出たから、「桐島は激しく動揺した」とされる。これらは、同じ「さそり」に加わって、すでに裁判も終わっている仲間ふたりの公判の中で明かされていることだ。

 報道の現場にいるジャーナリストが、半世紀前の出来事を正確に知っていることはあり得ないだろうが、それにしても今回の桐島報道は、おしなべて、あまりに杜撰であった。半世紀前の古新聞縮刷版に基づいて過去事例に触れるだけなら、ジャーナリストの仕事とは言えない。少なくとも、逮捕後の公判の過程と裁判の争点、判決確定後の経緯などをめぐる一定の調査なくしては発言権なし、との自戒があるべきだった。そうすれば、東アジア反日武装戦線が行なったすべての行動に(多数の死傷者を生んだそれをも含めて)桐島が参加していたとの「誤読」を容易に招くような水準の報道に堕すことは避け得ただろう。そして、彼の「49年におよぶ〈逃亡〉生活」の意味を、市井の読者・視聴者は、なされた報道とは異なる、もっと多様な視点で捉える情報を得ただろう。

 何かの出来事を、半世紀後に事実に即して把握し、ジャーナリストであればそれを正確に報道するということは、並大抵のことではできないのだ。

                                                                ふたつ目は、間もなく公開される映画、代島治彦監督『ゲバルトの杜――彼は早稲田で死んだ』(ノンデライコ、2024年)に関わっている。50年以上も前の1972年11月、早稲田大学構内でひとりの学生が死んだ。川口大三郎という、文学部の学生だった。彼を中核派のスパイだと決めつけた、自治会執行部を牛耳る革マル派の学生たちが、凄惨なリンチの果に死に至らしめたのだ。同じ年の2月には、連合赤軍事件が起こっており、60年代後半から70年にかけて一定の高揚をみた新左翼運動は、急速に人びとの支持を失い、果てしない低迷期に入っていた。他方、川口リンチ殺人事件を契機にして、新左翼党派間の暴力的抗争は激しさを増す一方だった。結果的には100人を超える人びとが「内ゲバ」の犠牲となった。肉体的に、あるいは精神的に傷ついて、辛い後半生を送ることになっただろう人びとの数は、知ることすらできない。

 映画は、1972年当時早稲田に学んでいて、川口を直接に、あるいは遠くから知る人びと(彼ら・彼女らは当然にも70歳を越えつつある)へのインタビューと、鴻上尚史の演出によって川口リンチ事件を再現する短編劇を組み合わせながら、進行する。党派が、自ら「反革命」と規定しさえすれば、その者に対して「革命的暴力」を行使することを当然視した時代が生々しく描かれていて、思わず目を逸らす。だが、インタビューと短編劇による構成は巧みな効果を生み出していて、着想が冴えていると感じた。

 代島監督によれば、内ゲバ殺人事件については、当事者や関係者の「記憶の井戸」はセメントで完全に蓋をされている。だから、これをテーマにドキュメンタリ−映画を撮ることは不可能だ、と思いこんでいた。ところが、川口事件の後で革マル派に対抗して「決起した一般学生」の運動があり、その過程で形成された新自治会臨時執行部の委員長に就任した樋田毅が、40数年間務めた新聞社を辞めてから、封印していた半世紀前の「記憶の井戸」を掘り始めた。それは、樋田毅=著『彼は早稲田で死んだ――大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋、2021年)としてまとめられた。代島はそれを読み、これで撮れる、と思った(劇場用冊子『ゲバルトの杜』所収の、監督インタビュー)。                                         

 革マル派の当事者は、映画には登場しない。接触を試みても拒否されたり、すでに死亡していたり、連絡先がわからずじまいに終わったようだ。でも、樋田の本には、幾人かが登場する。リンチ殺人事件の現場には居合わせなかったが、革マル派自治会委員長だった人物は、一年後に「自己批判書」を書いて、党派を離脱し、運動から完全に手を切ったらしい。2020年になって著者はようやく居所を探り当てたが、10ヶ月前に彼は病死していた。以下は、だから、妻から聞いたことだ。別件で刑務所にいた彼は刑期を終えると、故郷へ戻り、父親の会社を継いだ。世捨て人のように、ひっそりと生きた。稀に妻に漏らした言葉は「集団狂気に満ちていた」「ドストエフスキーの『悪霊』の世界だった」「全く意味のない争いだった」「「彼ら(リンチに加わった革マル派メンバー)は、川口君を少し叩いたら死んでしまったと言った。だけど、そんなことはあり得ない」「すべて私に責任がある」――などだった。

 実行犯のひとりで、川口事件で服役したメンバーにもインタビューした。原稿に起こしたが、どうしても掲載の許可は得られなかった。遺族の気持ちを思うと、「加害者である自分」の発言を表に出すべきではない、と思ったようだ。

 当時の革マル派の暴力支配を象徴する人物で、その後遍歴を重ねて大学教授となり、いく冊もの本を出版し、現在は環境活動家として著名な人物との長い対話が、本書の末尾にある。著者は、相手方が「かなり正直に、かつ正確に当時の心境などを語ってくれた」と感謝しているが、同時に、川口事件や革マル派という組織への評価をめぐっては「議論は平行線をたどる場面も多かった』と振り返っている。「平行線をたどった」ところにこそ、問題の本質が宿っていると私には思えた。

 樋田の著書と、それを元にした代島の映画は、両者相まってこそ、半世紀前を振り返るうえでの貴重な視点を提供するものだと言える。それにしても、この冷静であろうとしつつ熱量溢れる著書と、それに基づく映画が現われるためには、半世紀もの歳月が必要だったのだ。

 歳月を遠く隔てた何ごとかを正確に理解することの難しさと、振り向きたくない出来事に正面から対峙するために必要な一定の歳月(この場合は半世紀もの)……このふたつのことを痛感した。                    (文中、敬称略)


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