![]() |
侵略者あるいは鬼の末裔として(6) ー日本人は中国・朝鮮で何をしたのか<その5> | ||||||
Menu
おしらせ
・レイバーネットTV(5/28) ・あるくラジオ(次回6/14) ・川柳班(次回5/24) ・ブッククラブ(5/31) ・シネクラブ(3/22) ・ねりまの会(5/3) ・フィールドワーク(6.1東大) ・三多摩レイバー映画祭(5/25) ・夏期合宿(8月23-24日) ・レイバーネット動画 ●「太田昌国のコラム」第101回(2025/5/10) ●〔週刊 本の発見〕第389回(2025/5/22) ●「根津公子の都教委傍聴記」(2025/4/24) ●川柳「笑い茸」NO.160(2025/3/26) ●フランス発・グローバルニュースNO.17(2025/3/1) ●「飛幡祐規 パリの窓から」第99回(2025/5/4) ●「美術館めぐり」第10回(2025/4/28) ★カンパのお願い ■メディア系サイト 原子力資料情報室・たんぽぽ舎・岩上チャンネル(IWJ)・福島事故緊急会議・OurPlanet-TV・経産省前テントひろば・フクロウFoEチャンネル・田中龍作ジャーナル・UPLAN動画・NO HATE TV・なにぬねノンちゃんねる・市民メディア放送局・ニュース打破配信プロジェクト・デモクラシータイムス・The Interschool Journal・湯本雅典HP・アリの一言・デモリサTV・ボトムアップCH・共同テーブル・反貧困ネットワーク・JAL青空チャンネル・川島進ch・独立言論フォーラム・ポリタスTV・choose life project・一月万冊・ArcTimes・ちきゅう座・総がかり行動・市民連合・NPA-TV・こばと通信・Tansa
|
侵略者あるいは鬼の末裔として(6)ー日本人は中国・朝鮮で何をしたのか<その5>ー小泉雅英
■「無人区」化とは何か 「三光作戦」には、その最も計画的・体系的な残虐行為、一定地域を封鎖する「遮断壕」や、「無人地帯」の設定(「無人区」化)があった。それは「万里の長城線の南北の土地から中国人を完全に 追い出し、この長大な地域を「無人区」にする」(p.7)ものであり、「この地域の抗日運動を根底から 抹殺し、「満州国の西南国境線」の安全を確保するとともに、あわせて北京(当時、北平と呼ばれて いた)周辺の防衛をも確保し、華北一帯を南へ南へと伸びていった日本軍の戦線の大後方基地、 さらには対ソ戦の後方基地にしようとした」(p.7)のであった。「この計画の中でとくに方面軍が重視 したのは、未治安地区と准治安地区の間に遮断線を構成して、未治安地区を封鎖し、その衰亡を はかるとともに、准治安地区への共産軍の侵入を防護しようとする計画であった」(*2)。 残虐な「燼滅」戦術そのものは、それまでにも、「1910年の韓国併合にいたる間の、朝鮮民族の独立擁護闘争である義兵運動の鎮圧に用いた方法」(3)や、「1930年代に「満州国」を作り上げた後も、抗日ゲリラ、とくに共産系の東北抗日聯軍の活動を封殺するために、東部山岳地帯で山 間部落を焼き払い、集団部落の建設という方法を踏襲した実績がある」(4)。しかし華北に「日本 軍が展開した燼滅掃蕩作戦は、その規模の大きさと残虐さで群を抜いていたのである」(5)。「華 北地域の日本軍の「無人区」設置の方法は、満州の日本軍のように集家併村をおこなうのではなくて、狂暴に放火、殺人、掠奪をおこない、民衆を追い出して「絶滅地帯」をつくるというやり方」(pp.131-132)であった。「無人区」が設置された 25 県すべてを実地調査した陳平氏は、 「日本の侵略者は全国各地に 多くの「無人区」を設置したが、長城線上のこの「無人区」は環境の苛酷さ、闘争の激しさ、戦略上 の重要性のすべてにおいてとくにきわだっている」(p.115)と記している。陳氏自身の故郷、魯家峪 (6)もまた「無人区」化され、困難を強いられる中で八路軍に身を投じ、抗日闘争を生き抜いた後、 研究者となったのだった。 このように「無人区」とは、「東は山海関にはじまり西北方に伸びて河北省北部の独石口にいたる 約千キロもの長城線沿いに、日本軍が中国人を強制追放し居住を禁じた「無住地帯」、さらに耕作 をも禁じた「無住禁作地帯」のことである」(pp.7-8)。その過程で、「先祖伝来の土地を追放された 中国人は、多くの場合、日本軍が設置した「集団部落」(「集家併村」とか「集家部落」ともいった)に居住させられ、軍と警察の厳しい監視・管理のもとに農業生産だけは引き続きおこなわせられた」 (p.8)のだった。その始まりは、抗日闘争が深化発展し、「平北と冀東の勢力が熱南、熱西両面から 進撃してくる事態に直面して、(略)1941 年 9 月、日本関東軍西南防衛司令部は「西南地区粛正 工作実施要綱」を作成し、承徳の日本憲兵隊本部も「国境地帯無人化〔集家工作〕ニ伴フ民心安 定」という方案を定め、全面的な「無人区」設置計画を作成した」(p.122)ことである。その後、華北 でも、「1942 年 8 月上旬に開かれた「日本軍・北支那方面軍兵団長会議において、北支那方面軍 総司令官・岡村寧次がみずから画策し、配置した」(p.130)。さらに「長城線上の抗日ゲリラ根拠地 を徹底的に破壊し、あわせて華北と東北地区の連繋を断ち切るため、(略)長さ約 600 キロメートル、 幅約 8~10 キロメートル(略)に封鎖線をひき、断続的に遮断壕を掘って、この区域を「非治安地区」 と宣言した」(p.131)のだった。 以上、要するに「無人区」化政策とは、「個々の「殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす」という三光 作戦による諸事例の、個別性、偶発性を超越して地域的・空間的な広がり、時間的継続性を当初 から計画的に追求したところの、もう一つの三光作戦」(p.10)だった。陳平の引く「初歩的な統計に よれば、「無人区」の総面積は約 5 万平方キロメートル、そのうち「無住禁作地帯」が全部で約 8500 平方キロメートル、集家された自然村は1万 7000 あまり、建設された「人囲い」が全部で 2506 か所 (他に(略)100 あまりの、囲いをつくらなかった集家地点があるが、計算に入れていない)、追いた てられて集家併村された民衆は約 140 万人である」(p.148)という。 →続きはpdfファイルでご覧ください。こちら Created by staff01. Last modified on 2022-04-22 10:56:00 Copyright: Default |