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LNJ Logo 〔週刊 本の発見〕『太平洋食堂』(柳広司 著)
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毎木曜掲載・第235回(2021/12/23)

大逆事件冤罪者・大石誠之助の魅力

『太平洋食堂』(柳広司 著、小学館、1800円+税)評者:志水博子

世にいう大逆事件について本書はこう語る、「事件の発端は、あとから振り返れば信じられないような些細な出来事だ」と。

小説の舞台は新宮。1904年10月1日、時まさに日露戦争の真っ只中、日本が戦争にまっしぐらに突入しているさなかに、主人公大石誠之助(ドクトル大石)は、太平洋食堂を開店する。その準備に近所の子どもらもバグ(犬)も、もちろんドクトル大石も楽しげである。黒潮の香り漂うのどかな幕開きである。

大逆事件についてほとんど知らず、事件の冤罪者である大石誠之助についても、和歌山で医者をしていたという程度の知識しかなかった私が、本書を読むきっかけになったのは、藤原辰史さんの講演会だった。「自治の思想――ユーラシア東部諸島中立地帯の根源」と題されたお話は、まさに黒潮のロマン香るお話だった。米中覇権国のはざまで、軍事的かつ経済的脅威にさらされている地域に生きる私たちが目指すものは、黒潮の流れにある海洋文化の支配・被支配の歴史を学び直し、小さな地域の小さな文化の縁を結んでいき、軍事とは異なる中立の政治ではないかと。現実は厳しい、だが、それだけに黒潮の香り漂うロマンは魅力的だった。(*写真右=大石誠之助)

講演が終わって質問コーナーで本書の話が出た。「『太平洋食堂』という小説を読んだが、大逆事件で死刑になった大石誠之助が作った太平洋食堂もそのひとつにあたるのではないか」と。藤原辰史さんは、「僕もその小説は読みましたが、確かにそうですね」と答えられたように記憶している。

なんだか、ユーラシア東部諸島の黒潮の流れに沿ったロマンがそのまま太平洋食堂にたどり着いたような気がした。それに大逆事件にも関心があった。

本書は小説であるが、冒頭に「事実に基づく物語」と書いてある。大逆事件について歴史的事実をほとんど知らない私は、読みながら何度か「事実」を確認した。そのたびごとに、この物語が紛れもなく事実に基づいたものであることを知り唸らされた。本書は一面では詳細な歴史的事実を描いた歴史書ともいえる。そして、筆者自身も時折顔を出し批評を試みる。とすれば、これは歴史批評の側面もある。しかし、風景や空気感とでも言おうか土地の匂い、そして人物の息遣いや眼差し、言葉から醸し出される世界はやはり物語というべきだろう。第一、これが歴史的事実を綴っただけのものならば、あるいは、大逆事件についての論評が描かれているだけならば、大石誠之助すなわちドクトルさんはあれほど生き生きとは伝わってこなかっただろう。敬語がない熊野弁でいつも穏やかに語るドクトルさんだからこそ、大石誠之助は現代によみがえってきたわけだ。

主人公であるとともに、狂言回しと言っては何だが、幸徳秋水、堺利彦、管野須賀子、与謝野鉄幹、田中正造らそうそうたる「主義者」たちが、誠之助とのかかわりの中で浮かび上がってくる。また、時折顔を出す著者自身の論評として、当時の社会主義論、国体論、クロポトキン著『麺麭の奪取』を巡ってのアナーキズム論が面白い。舌を巻く。

やがて「事実に基づく物語」は終焉に向かう。誠之助は「信じられないような些細な出来事」の後、東京監獄へ送られる。事件の起こる3年前に交付されたばかりの明治新刑法第73条「天皇、太皇太后、皇后、皇太子、又は皇太子孫に対し危害を加え又は加えんとしたる者は死刑に処す」に違反したというのがその理由だ。

本書にはこうある、「この事件における主人公は人ではなく、条文そのものであった。どんな危険な言葉(条文)も発動されるまでは何でもない。白い紙に印刷された単なる黒い染みだ。だが、恣意的な運用が可能な法律条文―刑法第73条という“怪物”がひとたび目を覚ますと、事件関係者の理性を食らい、暴れまわり、世界をなぎ払い、打ち壊して別のものに変えてしまうまで決して静めることができない。すべてが終わった後、事件に関係した者たちは、なぜこんなことになったのかと呆然とすることになる。曖昧な法律条文(言葉)が持つ恐ろしさを私たちは正確に知るべきだ。」と。なんと今に通じる話ではないか。

1945年10月、太平洋食堂開店時の、あの近所の子どもたちは、戦争を経てドクトルさんの年齢をとうに超えている。よく晴れた秋空、船を漕ぐ若者たちに声援を送っている。「川が流れ、海へと流れ込む。そこはもう太平洋だ」。

*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・志水博子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美・根岸恵子、黒鉄好、加藤直樹、ほかです。


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