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墓石には「愛した、書いた、祈った」〜瀬戸内寂聴さんを思う

永田浩三


*国会前で「戦争反対」を訴えた寂聴さん(2015年6月)関連記事

 新聞の連載を読むにつけ、いつかその日がやってくるとは思っていたが、瀬戸内寂聴さんが亡くなった。享年99。

 テレビの仕事の始まりは京都放送局からだったので、出家されたばかりのころから存知あげている。

 荒畑寒村さんは、瀬戸内さんと随筆家の岡部伊都子さんのどちらも大事にしておられた。瀬戸内さん、岡部さん、おふたりは寒村さんを支えるライバルのように見えたが、わたしの邪推かもしれない。

 小説を徹夜で書き終えた後の瀬戸内さんは、こわいぐらい魅力があった。当時は50代なかば。

 テレビでもラジオでもいっぱいお世話になったが、いちばん好きな番組は、彼女の愛読書・モーリヤック作の「テレーズ・デスケールー」を45分にわたって語ってもらったラジオ番組だ。わたしはまだ23歳。番組の中で、瀬戸内さんは、一遍上人の言葉を引いた。「生(しょう)ぜしもひとりなり、死するも独(ひとり)なり、されば人と共に住(じゅう)するも独りなり、そいはつべき人なき故なり」。人間の孤独を語りつつ、だからこそ出会いが大切であり、出家するとは、生きながら死ぬことだとも語った。そして、自分はキリスト教でもよかったが、剃髪したときの頭のかたちに自信があったので、出家することにしたと、いたずらっぽく笑った。

 いつもどこまでほんとうかわからないところがあったが、イタズラっ子のようで、チャーミングなところは変わらなかった。

 あるとき、祇園のお茶屋にご一緒することがあったが、酒に弱いわたしに代わって、ぐいぐい飲んでくださった。当時すでに70歳半ばを過ぎておられたとおもう。舞妓さんたちに絶大な人気があった。

 小説の話になると真顔になった。だからこちらも必死で読み込んでから、襟を正して感想を申し上げた。エッセーを褒めても、それがどうしたのと言われた。

 冤罪事件の救済や、反原発運動、アベ政治を許さない・・・。さまざまな活動をされた。徳島ラジオ商殺害事件では、服役中に亡くなった冨士茂子さんの無念を晴らそうと、私費を投じて支援し、日本で初めて死後再審と無罪判決を勝ち取った。

 社会活動の面で数々の貢献をされた瀬戸内さんだが、原点でありゴールはやはり小説。自分が納得できる小説を書くために生きたひとだった気がする。

 わたしが好きな小説は「かの子繚乱」などの評伝、「場所」「髪」。そして「源氏物語」の現代語訳。

 いろんな顔がありすぎる瀬戸内さん。追悼記事を書く記者さんはさぞ大変なことだと思う。それにしても、ヤフーコメントのむごさよ。ちゃんと作品を読んでからコメントを書けと言いたくなる。でも今夜の「報道ステーション」で大越健介キャスターが、初期の名作「夏の終り」について触れていたのはよかった。

 一時連合赤軍の永田洋子にこころを寄せておられた瀬戸内さん。昭和天皇が亡くなった朝、わたしは瀬戸内さんが書いた永田洋子の本を夜を徹して読み終えたところだった。これから眠ろうとしたところ呼び出され、昭和史を回顧するドキュメンタリーをつくるよう、ほとんどひとりに任された。それから二晩徹夜。その前も寝ていないから三徹。なんとおおらかな時代だったことか。

 墓石には「愛した、書いた、祈った」と刻すそうだ。スタンダールの「書いた 愛した 生きた」のよう。スタンダリアンで、やはり祇園で人気があった桑原武夫さんの影響もあるのかもしれない。「愛した」が最初に来るのも、瀬戸内さんらしい。

 瀬戸内さんがいない寂庵、瀬戸内さんがいない嵯峨野。さびしい。合掌。


Created by staff01. Last modified on 2021-11-12 08:24:54 Copyright: Default

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