太田昌国のコラム:永山則夫が処刑されたときの秘密が明らかに | |||||||
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永山則夫が処刑されたときの秘密が明らかに2017年5月24日に東京拘置所で獄死した大道寺将司は、1997年8月1日の獄中日記に次のように書き記している。「(この日の)朝、九時前ころだったか、隣の舎棟から絶叫が聞こえました。抗議の声のようだったとしかわかりませんが、外国語ではありませんでした。そして、その声はすぐにくぐもったものになって聞こえなくなったので、まさか処刑場に引き立てられた人が上げた声ではないだろうなと案じていました。」(『死刑確定中』、太田出版、1997年)。翌朝交付された新聞は大きく墨塗りされていて、経験的に誰かの処刑が行なわれたことは分かったが、誰だったのかを知るのは後日のことである。拘置所の手紙検閲官は「絶叫」という表現にクレームをつけた。彼ははねのけ、このままの表現で手紙は獄外へ出されたので、いまこうして引用することができる。 獄中で俳句を詠むようになった彼は、この日の朝のことを次のように詠んだ。 夏深し魂消(たまぎ)る声の残りけり この句には、詞書が添えられており、「東京拘置所で永山則夫君ら二名の処刑があった朝」とある(『棺一基』、太田出版、2012年)。そう、その朝処刑されたひとりは、1969年、全国各地で4人の人びとを拳銃で殺した「連続射殺魔」事件を起こしたがゆえの確定死刑囚、永山則夫だった。 永山則夫は『無知の涙』(河出文庫)をはじめ、獄中で書いた多くの著作を刊行している。弁護人や評論家が第1審から最高裁までの審理の過程について詳述した本もある。作家や詩人の手になる永山論や伝記も数多くある。衝撃的な事件を引き起こした人物と事件の背景を、さまざまな角度から知る手立ては、たくさん用意されていると言える。 彼は処刑される前に、遺言も残した。自分の著作から得られる「印税を、世界の貧しい子、特にペルーの子どもたちのために使うこと」というものだった。この遺言の「謎」を解いたうえで遺志を継ぐ活動は「永山子ども基金」によって長いこと続けられており、私もこの活動に参加している。→ https://nagayama-chicos.com/news/ 解明されていない残る闇は、やはり、97年8月1日の死刑執行前後のことだ。永山の弁護人であった大谷恭子は、処刑の直後東京拘置所で遺骨と遺品を受け取った一人だった。不可解なことがあった。死刑確定前の日記はすでに知人に宅下げされていたが、死刑確定(1990年4月)も書き続けていたはずの日記は、拘置所当局によれば「ない」という。7年間にわたる日記だ。それは膨大な量のものだろう。敷布団が濡れており、処刑後3週間経っても乾かないシミは、水ではなく薬品のようだ。なぜかと問うと、「引渡し時点で水漏れはない」という。拘置所が真実を隠し、封印したことがあるに違いない。大谷弁護士は、そう書いている(大谷恭子『それでも彼を死刑にしますか』、現代企画室、2010年)。 昨年末の「文春オンライン」に、木村元彦による記事が載った。元刑務官・坂本敏夫とのインタビューで構成されている。永山が処刑されたとき、坂本はすでに職を退いていたが、現職であった刑務官たちから届いた情報を語っている。現場の刑務官たちのなかには「永山を殺してはいけない」と考えていた者が多くいたことも、処刑がどんな状況で行なわれたかについての「怖ろしい」推定もなされている。これは、私の要約によってではなく、皆さんが直接原文に当たっていただくのがよいと思う。 行方不明の永山日記も、どこかに「保存」されているかもしれない。チェ・ゲバラがボリビアでのゲリラ戦の渦中で書いていた日記は、彼が政府軍に拘束されたとき、いったんボリビア政府の手に落ちた。だが、ボリビア政府部内の対立抗争のなかで、内相がキューバ政府に日記を渡してしまった。それは、1968年キューバを初め世界各地で発行された『ゲバラ日記』のもととなった。 永山則夫の死に関する真相の全貌も、権力による真相隠し・隠蔽の可能性も秘めながら、まだ今後明らかにされることになるかもしれない。そうなってほしいと思う。 Created by staff01. Last modified on 2021-01-11 20:18:10 Copyright: Default |