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LNJ Logo 〔週刊 本の発見〕『褐色の世界史〜第三世界とは何か』
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毎木曜掲載・第89回(2018/12/27)

第三世界という言葉が輝いていた時

●『褐色の世界史〜第三世界とは何か』(ヴィジャイ・プラシャド、粟飯原文子訳、水声社、2013)/評者:菊池恵介

 「第三世界」という言葉が「低開発」や「貧困」の代名詞となって久しい。だが、かつてこの言葉が独立後の「希望」を表す言葉として輝いていた時代があった。本書の冒頭の言葉によれば、「第三世界は場所ではない。プロジェクトである。植民地主義に対する果てしもなく見えた闘いの中で、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの人々は、新しい世界を夢見た。何にもまして尊厳を求めた」(13頁)。この第三世界の構想は、いったい何を目指していたのか。それは、いかなる矛盾に直面し、挫折してしまったのか。本書は、1920年代から70年代にいたる第三世界の歩みを振り返った上で(第一部「探究」)、その挫折の内在的および外在的要因を検証していく(第二部「陥穽」、第三部「抹殺」)。

■第三世界の興隆とその内在的矛盾

 第二次大戦後、植民地主義から冷戦体制への移行が始まった時、米ソの「二大勢力に挟まれた褐色の人々(The Darker Nations)が《第三世界》として結集した。人々は自由を獲得するため、決然と植民地主義に対抗し、世界レベルでの政治的な平等を要求した」(14頁)。その際、とりわけ重要な役割を担ったのが、1948年に創設された国際連合だった。独立したばかりのアジア・アフリカ諸国には、軍事力もなければ、経済力もなかった。だが、国連総会の場で一致団結すれば、大国主導の国際秩序を揺るがすことができた。

 こうしてインドネシアのスカルノ、インドのネルー、エジプトのナセル、ガーナのエンクルマなどの政治指導者の呼びかけで、バンドン会議(1955)、カイロのアジア・アフリカ会議(1961)、ベオグラードの非同盟諸国運動会議(1961)、ハバナの三大陸会議(1966)などが次々に開催され、第三世界としての共通の目標と行動計画が練り上げられた。反植民地主義と反帝国主義、軍縮と平和、非同盟中立、人種主義の撤廃、女性解放、経済的な従属構造からの脱却、三大陸の文化交流などである。

 だが本書によると、第三世界の内部には数多くの亀裂や矛盾が存在した。その最大の矛盾は、第三世界の指導者が、植民地主義に深く根を下ろしていた地主や資本家階級とのしがらみを断ち切れなかった点にある。植民地支配下で独立運動を組織するには、党派対立や階級対立を超えて団結する必要があった。実際、民族解放運動の基盤を形成した労働者階級や農民の大半は、現地の産業エリートや地主と協調することに同意していた。独立が実現すれば、新しい国家体制のもとで大土地所有制が解体され、社会主義が実現すると信じていた人々もいた。ところが、独立を手にすると、「第三世界の指導者は、真の社会革命を実行せずに、権力を維持すべく、地主や商人に依存し始めたのだ」(33頁)。彼らは、資本家や地主の利益を保護する一方、労働者や農民には若干の福祉を施すにとどまった。こうして1970年代に入ると、新生国家はしだいに威信を失い、大衆的基盤を喪失していった。その第三世界に最終的な引導を渡したのが、西側諸国の軍事的・経済的介入である。

■西側の軍事介入とIMF主導のグローバリゼーション

 周知のとおり、冷戦期のアメリカは、第三世界の指導者を挿げ替えるために数多くのクーデターを画策した。イランのモサデク政権の転覆(1953)、グアテマラのアルベンス政権の転覆(1954)、コンゴのルムンバの暗殺(1960)、インドネシアのスカルノ政権の転覆(1965)、チリのアジェンデ政権の転覆(1973)など、その例に枚挙のいとまがない。1945年から1970年代初頭にかけて、第三世界で起きたクーデターの数は200件以上に上り、その大半に西側諸国が関与していた。キューバのように米軍の侵攻の撃退に成功した例はあるものの、過重な軍事費の負担で低開発にとどまるなど、その代償はあまりにも大きかった。

 だが、これらの軍事介入以上に致命的なダメージをもたらしたのが、IMF主導のグローバリゼーションである。第三世界の諸国は、植民地期以来のモノカルチャー構造を通じて、安価な一次産品の輸出と高価な工業製品の輸入を宿命づけられてきたが、独立後は経済的な自立の道を模索していた。その際、多くの国で導入されたのが、アルゼンチンの経済学者、ラウル・プレビッシュが提唱した「輸入代替」政策である。すなわち、関税によって国内市場を保護すると同時に、公的資金によってインフラ整備や産業育成を図ることで、世界システムにおける従属構造からの脱却を目指したのである。

 その流れを逆転させたのが、オイルショックを契機とする第三世界の債務危機と国際金融機関の介入である。1970年代から80年代にかけて第三世界の諸国は、石油価格の高騰とアメリカの政策金利の引き上げ、そして一次産品の価格暴落の三重苦に見舞われた。その結果、財政赤字が爆発し、債務不履行に陥ると、IMFが介入し、金融支援の条件として新自由主義改革を迫った。通貨の切り下げ、関税障壁の撤廃、民営化と規制緩和、そして緊縮政策の実施などである。こうして第三世界は再びグローバル経済の末端に組み込まれ、安価な一次産品や労働力の供給地へと転落していった。

■第三世界の挫折と文化ナショナリズムの台頭

 かくして第三世界のプロジェクトは崩壊した。それまで第三世界のアジェンダに縛られていた有力階級は自由の身となり、新興国のエリートとして振る舞うようになった。彼らは国民の要望に応えるよりも、IMFの政策を積極的に受け入れ、みずからの階級的な利益を追求するようになった。こうして第三世界の足並みが乱れ、バラバラになるにともない、南北間の経済格差も拡大していった。世界銀行によれば、「1960年、最富裕国上位20か国の一人当たりのGDPは最貧国20か国の18倍だった。しかし1995年には、この格差が37倍まで広がっている」のである。

 第三世界の崩壊のもう一つの帰結として挙げられるのが、「文化ナショナリズムの台頭」である。本書によれば、第三世界の指導者は、もともとヨーロッパ型のナショナリズムに深い嫌悪感を抱いていた。彼らにとって、第三世界の人々を結び付けているのは、言語や宗教でもなければ、民族でもなく、「植民地主義に対する闘争の歴史と公正を目指す政治的目標」であった。「彼らが抱いたのは国際主義の精神であり、他の反植民地闘争を戦う人々を同志とみなすような外側に開かれた精神だった」(31頁)。ところが、第三世界のプロジェクトが崩壊し、有力階級が権力を回復すると、排他的なナショナリズムや宗教原理主義が台頭し、格差の是正を求める社会主義的な実践を駆逐してしまったのである。

 第三世界の政治的プロジェクトが潰え去り、すでに三十年以上の歳月が流れた。だが、グローバリゼーションの矛盾を背景に、近年ふたたび大衆運動が世界各地で拡大している。「土地への権利や水への権利、文化的尊厳や経済的平等を求める闘い、女性や原住民の権利を求める闘い」などである。そして、これらの多様な運動の中にこそ、未来の可能性が秘められていると著者は主張する。「これらの闘争はすべての大陸、あらゆる場所で増え続けている。これらの創造性豊かな取組みからこそ、本当の意味で未来へと向かうアジェンダが立ち上がってくるだろう。そしてそのときにこそ、あの第三世界の継承者が生まれることになるのだ」と(324頁)。いま第三世界の遺産をいかに継承するか。それを考えることは、世界システムのもう一方の極にいるわたしたちの課題でもある

*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・渡辺照子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美・佐藤灯・金塚荒夫ほかです。


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