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●レイバーシネクラブ第二回上映会 報告

女性が主人公の労働映画『地の塩』のすごさ

 5月19日、東京・品川区の戸越スペースで第二回「レイバーシネクラブ」を開催しました。上映作品は『地の塩』(1954年・アメリカ)で、木下昌明さん(写真)が「これを超える労働運動の映画はない」と評しているだけのことはあり、とても活発な討論になりました。

 最初に木下さんによる解説がありました。監督のハーバート・ビーバーマン、脚本のマイケル・ウィルソン共に、マッカーシズムによる弾圧を受けた「ハリウッド・テン」のメンバー。さまざまな妨害を打ち返して作ったというだけでなく、第一稿を書いては現場の鉱山労働者たちに読んでもらい書き直す・・といったことをくり返すことによって、現実を忠実に再現したシナリオが完成したそうです。

 この映画で特徴的なのは、何といっても組合のリーダーの妻、つまり女性を主人公にしていること。労働組合による労使対決といったことを超えて、より重層的な差別の問題や、何のために闘うのか?といった根源的なことを突きつけてくれました。

 例会に参加したのは男性8人、女性7人の計15人。特に組合運動に関わった人や、労働組合の取材をしたことがあるという人からは、自分の体験を交えた深い感想が出ました。

 「労働組合は男性中心。尊敬すべき幹部から差別的な言葉が出てくると、従わざるを得なくなる」。その一方で、わが身をもって行動することで尊厳を取り戻し、周囲を変えることもできる。映画はそれを見事に表現していました。現在の「#MeToo」運動にも重なります。

 日本では1977年に労音会館で一か月上映され、その後「レイバーフェスタ2007」でも上映されたそうですが、あらためて今観ることの意味は大きいと感じました。

 会場の「戸越スペース」は二回目ですが、椅子も新しくなり、いっそう心地よい空間となりました。次回は6月30日(土)17時30分から同じ場所で開催します。チャップリンの短編映画を観てみんなでディスカッションする予定。10代、20代の人もぜひ!(堀切さとみ)

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*以下、参加者の感想を紹介します。なお『地の塩』をご覧になりたい方は、レイバーネットまでお問合せください。シネクラブに参加したい方、情報希望の方もこちらから。→labornetjp@nifty.com

<寄せられた感想>(到着順)

●平等を求めて始まった闘い


 それは平等を求めて始まった闘いでした。男は命の平等を求めて、女は暮らしの平等を求めて。それは当たり前の要求でした。行動する中で人々は気付いてゆきます。例えば平等を求める男は 女に対し平等ではないことなど。それは自分以外の人の苦しみに気づくことでもありました。

 無駄のない台詞の数々が素晴らしかったです。それだけではなく、一人一人の表情をとても丁寧に撮っていました。鉱山会社の社長、保安官たち、仕方なくストやぶりに加わった人も例外ではありません。そして大勢の白人、メキシコ人、男、女、子供が一緒になっているいくつものシーンはどんな台詞よりも感動的でした。人種性別を超えてともに戦う姿は「非暴力・不服従」を、女たちがピケを守る姿は「苦しみの可視化」でした。

 ストライキは勝利しました。一番の勝利はそれぞれ自分を変えることができたことなのでしょう。(小川)

●希望を感じさせる映画

 「労働者の闘いをずいぶん見てきたが、これを超える闘いはないと思っている」と言われる木下昌明さんお勧めの映画『地の塩』を見た。日本では1977年2月6日に労音会館で上映された。監督は赤狩りにあったハリウッド・テンの一人ハーバード・J・ビーバーマン、脚本はマイケル・ウイルソンで1954年制作のアメリカ映画である。亜鉛鉱山労働者の事実に即したもので、資本家に対する労働運動だけではなく人種差別や性差別が重層的に絡んでいる様子が見事に描かれている。

 舞台はニューメキシコ州。ヒロイン、エスペランサの夫ラモンの祖父の土地にアメリカ資本の工場が建てられ、そこでラモンらメキシコ系労働者が白人労働者と差別されながら働いている。その時点でラモンの土地は奪われたのだとわかる。

 鉱山での事故をきっかけにストライキをする労働者に対し、経営者側はストライキを禁止するタフト・ハートレイ法で収束を図ろうとする。それは労働者側の負けか逮捕を意味する。その窮地を救ったのが「労働者でない女性がピケをはればいい」との女性による提案だった。しかし労働組合は男のものと考える男性陣は難色を示し、賛否を問うのを自分たちだけで行おうとした。それでは不利だと考えたエスペランサが女性にも関わることだから女性にも採決させるべきだと発言する。

 ピケをはる女性に対する経営者側の暴力は次第にエスカレートしていき、銃までとりだした。それを見たエスペランサはとっさに靴で銃を払い落とす。

 映画冒頭では、身ごもったが生みたくないとまで思い詰めていた表情のエスペランサだったが、夫の呪縛を跳ね除け自ら意見を主張し、積極的に行動し始めると、自信に満ち溢れ輝いてくる。

 エスペランサの長男は少年たちによる自治会に出席するのだと父親ラモンの制止を振りっ切って外出をしようとする。「ママはそんなことを言わない」と長男が反論しているから、子どもの自立や自主性を重んじていたのはエスペランサの方だったとも言える。

 硬直した労働運動を勝利に導いたのは、女性による機転と粘り強さだった。ウーマンリブ運動が起こる以前にこのような女性の視点に立って映画を作った男性の脚本家と監督に敬意を表したい。まだまだ遠いけれど頂上を目指して登っていこう、そうエスペランサ(希望)を感じさせる映画だった。(斎藤)

●女性が立ち上がるとき社会は変わる

 「女の仕事をほんの少しやっただけで男たちは参ったものね」という妻たちのセリフはグサッときた。60年前につくられた映画『地の塩』がまったく古くないことに驚く。普遍的・根源的な問題として、労働運動のあり方、女性差別などがストレートに描かれているからだろう。また映像もエイゼンシュテインを思わせるモンタージュ的なカットが積み重ねられていて、ワンシーンワンシーンが印象に残る。

 『地の塩』を観てオーバーラップするのは1047名の解雇とたたかった「国鉄闘争・JR採用差別事件」だった。国鉄は男職場で、国労も男性中心の20万人の組織で最強組合といわれていた。しかし2000年、当事者を無視した国労本部の裏切りで闘争終結(敗北)が計られようとした。それに「待った」をかけたのが、組合員ではない家族会の女性たちだった。「私たちも夫と14年間一緒にたたかってきた。おかしいことはおかしいというのが国労の精神ではなかったのか!」。組合大会の演壇に駆け上った家族会・藤保美年子さんが体を張って「闘争継続」を訴える。それに鼓舞された男たちが「演壇占拠」に立ち上がり、その後の「納得する解決」へと繋がった。『地の塩』のエスペランサが思わず靴を手にして立ち上がるシーンとダブって仕方がない。

 女性が立ち上がるとき社会は変わるーー確かに。いまセクハラ問題が騒がれているが、『地の塩』はいまこそ観られるべき作品かもしれない。(松原)

(参考 : 国鉄闘争を描いた『人らしく生きよう−国労冬物語』http://vpress.la.coocan.jp/hito.html

●移民という要素が状況を打破する力点になった

 主人公夫婦が移民であることは、彼らがときに仲間からも差別される対象であり、それが主人公エスペランサの反動力の一部となった一方で、ともすると全体主義的画一的になりがちな男社会の人間関係において、移民という異文化の流入が巻き起こした渦が、結局はこの亜鉛鉱山の労働運動を成功させる一助となったのでは?とおもいました。

 鉱山にしても工場にしても、教育を受け権力を持つエリートと、鉱山や工場周辺で子どものときから質素に暮らして、大人になると過酷な労働で疲労困憊するだけの人生をすごす労働者とでは、自身の人生をかけがえのないものと認識する感性の違いが甚だしいです。

 劇中の亜鉛鉱山労働組合でも、衛生問題の改善を要求していましたが、わたしが取材するアスベスト鉱山の労働組合では1960年代まで、労働に適した者を優先的に助けるという不文律があり、アスベスト疾患を発病しなくても、背中が曲がる40歳ぐらいになると、老人として、労働組合の救済の対象にならなかったという現実がありました。しかしそのことに、むしろ労働者のほうが全く疑念を抱かず、ボロボロになって死んでいくのが当たり前だったので、若いうちから咳が出始めたり、アスべスト病を発症した労働者は「お前は誰よりも早く一人前になった。男になった」と高評価されたといいます。

 そのような非人間的な現実でも、鉱山に生まれ、鉱山しか知らない内地労働者は、それを当たり前のことと受け入れやすいですが、理想の暮らしを求めて、よりよく生きるために、命がけで移民してきたメキシコ人夫婦にとっては、それは納得できない現実になるとおもいます。

 この夫婦が移民する前、メキシコで受けた教育や、おそらくは天賦の人権意識や生命を尊ぶ育ち方が、社会的埒内におさまりやすい男性に比べ、自由度の高い女性の行動に強く反映しているとおもいます。

 移民はその、生きるためのイマジネーションの段階から、当然アメリカ国土しか知らない労働者の生命力を凌駕しており、さらに新しい生命を産むことで強化された女性主人公のパワーあふれる行動が、劇中では問題を展開させました。

 失念してしまいましたが、メキシコ人夫婦の子どもにも未来や生命を感じる名前が付けられていて、暗いところに原色の花を咲かせるような、移民の生きる力を一層強く感じました。(北穂)

●しっかり描かれていた「子どもたち」

 強く印象に残っている場面の一つが、最後の場面でのエスペランサが話した「地の塩であるこどもたち」という言葉です。この映画の題名が『地の塩』ということにガッテン!!そうか!!と納得。とても子どもの出てくる場面、行動、セリフが生きていていると感じました。

 子どもたちが自分の親たちが抗い戦っている姿をしっかり見ている、納得している、誇りに感じている、応援しているということーがしっかりと描かれていると感じました。

 描かれている女たちも男たちも強く印象に残ると同時に、この映画には子どもたちもしっかりと役割を持って位置づけされ描かれていることが、改めて素晴らしいと感じています。

 そしてまた、脚本(すばらしい!)が、実際活動している人たちと何度もやり取りしあいながら完成されたとの話しがありましたが、何度ものやり取りの中でどのように変化されていったのかがとても興味を持ちました。(早川)

●闘いに勝つことの「爽快感」

 久しぶりに見た。いつ見たか、全く覚えていない。鉱山労働者がプラカードを持ち、デモンストレーションをしているシーンが印象に残っている程度だ。

 今回、じっくり観させていただいて、まずは、「爽快感」を感じた。おそらく、2回見た間の「労働者経験」が、作用したのだろう。「勝つ」ということが、いかに喜びをもたらすか。その感覚に飢えている自分を感じた。闘いに勝つということは、仲間と議論し、連帯することであり、家族で、論争し、徹底的に話し込むことという当たり前のことがこの年になって再びたたきこまれた気がする。

 それを踏まえて以下2点の問題の提起をしたい。
,匹覆燭が言われたが、「鉱山労働」のシーンが少ないこと  僕は、はじめはそれでいいと思った。でも後で考えて、出演者が置かれた「環境」は、あるに越したことはないし、大事なことだ。僕が映像を習い始めたとき、しつこく言われたことが「とにかくたくさんのシーンをとっておくこと」だった。使わないかもしれないが、被写体がどこにいて、普段は何をしているのかは、視聴者にとって大事なデータになる。そこが、多くに人に観てもらえるレールになる。例えば、「普通」の鉱山労働のシーンと一人でメキシコ人が発破するシーンが両方あれば、効果は倍増すると思う。

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 女性が参加するシーンが、「そんなに簡単にできるのか」と感じた。僕の経験では、組合の大会で修正案が通ったためしがない。イギリス映画の『ブラス』では、スト権行使の賛否の組合大会で否決されるシーンには、「同じだ」と感じた。「運動」の壁や苦しさをどう描くのかは、勇気がいることだけどもう少し工夫があってもいいのではと感じた。(湯本)


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