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闘い続けること・記録し続けること〜『ペンとカメラ』(木下昌明著)感想

    堀切さとみ

 木下さんは若い。そして若者とシンクロすると自分自身が元気になる人だ。こういう大人のまなざしがあれば、安保や共謀罪に反対する若者は随分勇気づけられるだろうなと思う。かつて革命に憧れながら、青年労働者として生きてきた木下さんは、今や立派な「崖っぷち老人」になった。ふんころがしのふんのようなものだとご自身はおっしゃるが、ビデオカメラを手にデモの現場に駆ける老人なんて、そうそういるものではない。毎週金曜日、国会前で何が起こるかワクワクしながら定点観測し「記録なくして事実なし」を実践する。『ペンとカメラ』を読んで、何が木下さんをそうさせるのかがわかる気がした。

 木下さんがシールズや反原連の運動に共感する根っこには、花田清輝の影響があるという。半世紀前に「こんなものはすぐポシャる」とベトナム反戦運動を揶揄したことがある木下さんは、花田さんに「肝心なのは何かをやるということで、冷笑することではない」とたしなめられたそうだ。何かをやること、続けることにこそ意味があるのだと。

 だから今、ベトナム反戦を髣髴とさせるような脱原発や反安保の国会デモを撮るようになるのだが、決して大それた映画を作ってやろうというような野心があるわけではない。長時間労働に縛られた、娘の時間を取り戻したい一心で始めた撮影記録が木下さんの原点だった。木下さんの3分ビデオは、何か社会正義とかが表に立っているのではなく、家族の幸せを願って、親としての務めを果たしたくてカメラを回している。そしてそれがこの日本社会や時代を映し出すものになっている。だから国会前で木下さんのカメラに収まるのはいわゆる活動家だけでなく、子どもや親、孤独な避難者など、日々の暮らしを大切にし、そこから逃れることのできない一人一人なのだ。

 私は、3・11後は高揚した気分で集会やデモに駆けつけたものの、人数が減り盛り上がらなくなるや足は遠のいてしまっている。世の中の大半は私のような人々なのだろう。運動には高揚期もあれば停滞期もある。そんな中で木下さんは「敗北してもいいから続けること」といい、同じくガンを抱える山城博治さんの言葉を引用している。「毎日座ったり引っこ抜かれたり・・・どんな意味があるかと思っていたが、意味はあるんだ」(『標的の島〜風かたか』)と。民衆の闘いは勝つという目的を達成するためだけではないことはわかるのだが、ではいったいどんな意味があるのだろうか。

 私がなるほどと思ったのは『草原の実験』(2014年)についての木下さんの記述だ。これはカザフスタンの広大な草原に暮らす父と娘、そこに現れる二人の若い男性との寓話劇で、私も劇場で観た。みずみずしい青春の日々が、突然巨大な砂嵐(実は水爆実験)にのみこまれ<ジ・エンド>。「え?何が起こったの?」と唖然としてしまう映画だ。理不尽さを感じる間もなく一瞬で消え去ってしまう生命や暮らしがあることを突きつけられる。私たちもまた福島原発事故によって、もとの日常は戻らなくなったのだが、この映画よりもまだ救いがあると木下さんはいう。なぜならこの六年の間、運動があり人々が考え学んでいるからだ。どんなにマスメディアが隠蔽しようとも、市民が報道し記録するすべを手に入れた。それは『草原の実験』の世界よりもずっと望ましいものだと私も思う。

 『ペンとカメラ』でもっとも印象的だったのは『ジュリア』についての映評だ。これは私も大好きな映画で、二十代の頃ビデオを借りてきて何十回も観た。そのころの私にとって、あくまでも理想はジュリアだった。しかし世の『ジュリア』評によると、この映画の主人公はあくまでもジュリアの親友のリリアンであるという。私は「そんなもんかな」と思っていたのだが、今回木下さんが「わたしもリリアンのように生きたい」と結んでいるのをみてハッとさせられた。そしてその内容に感動した。「断固とした行動の人であったジュリア」よりも「へっぴり腰であっても臆病であることを嫌ったリリアン」のようでありたいと木下さんは書いているのだ。

 かつてはリリアンの存在など眼中にない私だったが「信念といえば何か主義主張があってそれを貫こうとするようにみえる。それとは少し違って、主人公がやむにやまれず何事かなさなければならなくなり、そこから逃れようと思っても、それでは自分が不実に思えて、ついには立ち向かっていく精神にひかれる」という木下さんの一節に心を揺さぶられ、久しぶりに『ジュリア』を観た。

 今回、韓国サンケン労組と交流し、若い世代が民衆運動の歴史を(いい面も悪い面もひっくるめて)引き継いでいるのを感じたが、日本の場合、侵略戦争の歴史だけでなく左翼運動の歴史も若い世代に語り継がれていないと思う。大きな過ちを繰り返さないために、若い時に陥りがちな陥穽(感性)をどう対象化できるかが問われている。活動家だった人たちは自分の体験からモノを言う。木下さんも自分をベースに映評を書いている。『湯を沸かすほどの熱い愛』では「がん=死というイメージから抜け出せず『がんを育てた男』の私には不満だった」と書いていて「そう来たか」と驚いた。でもそれが木下さんの魅力で、何か正論を振りかざすのでなく、等身大の自分をさらけ出している。命を最優先して、自分自身を大切に生きていいんだよという、若い世代へのメッセージを送っている。その姿に感動してしまう。

 私は今51歳だが、木下さんの年齢になった時に現場に駆けつけることができるだろうか。しかもガンを抱えている身で。そうなったときに私は、木下さんのようでありたいと思う。

*『ペンとカメラ』績文堂出版/1800円 注文はこちら


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