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「日本鬼子ってどんな意味?」〜山邉悠喜子さんの見続けた中国民衆

山邉講演の一部(3分)関連情報/日中労働情報フォーラムHP

 3月5日、東京・国分寺で山邉悠喜子さん(写真)の講演会が開かれ約50名が集まった。講演のテーマは「日本は中国で何をしたのか―山邉悠喜子さんの見続けた中国民衆の姿」。主催は「君が代」解雇をさせない会。山邉さんは、現在88歳。1929年東京に生まれた。日本の傀儡「満州国」ができたのは1932年。1941年、山邉さんたち家族は、電話技師で満州製鉄に赴任していた父の後を追い、本渓市に移住した。当時の本渓は、良質の石炭産地で、日本は軍事用の石炭を採掘していた。炭坑には「人命より石炭」のスローガンが掲げられていた。石炭は金になるが、中国人は殺してもかまわないというのが、当時の日本のやり方だった。満州は、豊富な資源と労働力で、日本の兵站基地となっていた。

 女学校1年のとき移住した山邉さんは、「机にすわって授業を受けた記憶は殆どなかった」。戦況が厳しさを増し、勉強より国策が優先された。じゃがいも作り、工場の支援、なぎなたの稽古などが日課だった。そして迎えた1945年8月15日。ラジオの放送が始まるとつい居眠りをしてしまった。目がさめると敗戦だった。「天皇は切腹」だと思ったが生き続けた。ある日、回覧板がまわってきた。「内戦に備えて、傷員の治療に、若くて多少医療知識のある方、協力してください。期限は3か月」と書かれていてた。東北民主連軍(人民解放軍)が出したものだった。山邉さんが、「ここに入りたい」というと、父に叱られた。自称おっちょこちょいの山邊さん。それでも「3か月なのだからちょっと行ってくる」と言うと、父は「とにかく生きるんだ。死ぬんじゃない」と送りだしてくれた。1945年12月のことだ。山邉さんいわく、「わたしの人生はここから始まった」。

 日本の侵略については何も知らなかった山邊さん。毎日新聞の片隅に載る「匪賊をつかまえた」の記事の「匪賊」がこの東北民主連軍だったことを後から知る。東北民主連軍とはどんな軍隊なのだろうか。それはもともと軍隊ではなかった。日本に土地と仕事を奪われた満州の人々が、仕方なく北山(ベイサン)と呼ばれる拠点を作り、そこで農業をしながら、鋤、鍬などの農具から簡単な武器を作って日本軍に抵抗したのが始まりだった。戦って自分たちの土地を取り戻そうというのが彼らの願いだ。日本敗戦のあとは、国民党の軍隊との闘いが始まった。山邉さんが軍に入ったのはこの時だ。国民党にはアメリカが味方についた。だから飛行機もあり、爆撃された。民主連軍はこうしたとき、穴に入り、将棋をしたり歌を歌ったりしたという。爆撃機は爆弾を落とすだけ落とせば帰るから、その後穴から這い出せばいいのだ。

 時間があれば農民と一緒に農作業をし、負傷兵がいれば手当をする。山邉さんは看護兵としてこうした軍隊生活を8年間続け、満州からベトナム国境近くまで転戦した。もちろん転戦先に病院があるわけではない。その土地の小さな農家が病院の代わりをした。ベッドは負傷兵に譲り、家人や看護兵は土間にコーリャンの殻を敷いてその上に寝た。農家の「お嫁さん」は、一晩中寝ずに看病した。そうした姿に、山邉さんは最初、負傷兵がこの家の息子だと思ったという。しかしそんなことはなく、家の人の答えは「一家人」。つまりみんなのために戦ってくれて負傷した傷兵は家族も同然、農民と兵士は一体ということだ。それが最初に教えられたことだったと山邉さんはいう。

 山邊さんは「日本鬼子」(リーベンクイズ)ということばを軍隊の中で日常的に聞いていた。どんな意味かと質問すると、中国人兵士は答えず、「だんだんわかるよ」と言うばかり。かれらは、「抗日のために死んでも亡国の奴隷にはならない」「たとえ死んでも敵に屈しない」をスローガンに生きてきた。1949年に中国の内戦は終結。新しい中国が生まれた。1953年、山邊さんはついに帰国する。同じ軍にいた日本人の夫と娘が一緒だった。国立市に住み、立川基地が近かった。米軍基地が大きな顔をしている日本にはなじめなかった。中国に帰ろうと思った。そのとき、彼女をひきとめたのが、砂川闘争だった。米軍基地に反対する闘いに、希望を見出した。

 「日本が自立した国でなかった」という事実は、反対に、民主連軍の仲間たちを想起させた。戦友は学問などない人たちだったが、「俺たちは死んでも日本に屈しない」と生きていた。それは何だったのか。その問いの答えを見つけようと、定年退職後、山邊さんは、再度中国に行く。1988年、長春の医科大学の、「表向き日本語教師」(山邉さんの言)になった。学生たちは、「中国は貧しいけれど、外国の軍隊はいない。日本は金持ちなのになぜ米軍がいるのか」と質問した。

 そんな中、山邊さんは、壁新聞で「731部隊の恐ろしい罪行」という記事を読んだ。満州に本拠を置き、細菌で生体実験をして、中国人を絶滅させようとした日本軍の731部隊。俄かに信じがたかったが、中国の人々は「日本人ならやりかねない」と言った。ひょっとして「日本鬼子」というのはこのことかもしれない。日本にもどり、森村誠一の『悪魔の飽食』(731部隊についてのドキュメンタリー)を読んだ山邊さんは、もっと731部隊のことを知ろうと黒竜江省の外国語専門学校に入学、それ以後、証拠を求めて様々な調査活動を重ねることになる。

 731部隊の責任者、石井四郎は、ソ連軍が満州に入ってくると、建物の破壊と焼却を命じ、やっと命を長らえたマルタと呼ばれる人体実験用の収容者400余名を毒殺して焼却、その灰は松花江に流したという。だから証拠になるものはほとんど残っていない。後(1949年12月)に、ソ連ハバロフスクで実施された裁判の公判記録では、実験により殺害された人は年500人を下らないとの関係者の自供がある。これから考えると、計3000人またはそれ以上の人々が貴重な命を奪われたことになる。反満抗日運動の関係者は、組織的に部隊に送られ、山邊さんの先輩にあたる民主連軍のメンバーも多数犠牲になっていた。

 石井四郎は、なぜ細菌攻撃を目的にしたのだろうか。砲弾、爆撃がその周囲一定の範囲を殺傷するにくらべて細菌は効力が絶大。人から人へ、村から村へ効力圏が拡大し、害毒が人体に深く食い込んで死亡率が高くなるだけでなく回復が困難。また、鉄の少ない日本にとって最も適当な戦闘方法で経費も安い。以上のような理由で石井は731を推し進めた。

 1990年代、山邉さんは「731部隊展」を日本で全国展開した。2001年と2003年に中国の黒龍江省で731部隊の新証拠が見つかった。「特移扱い」という日本に抵抗した人たちの氏名・逮捕記録・尋問調書・731への送付命令書などだ。しかし日本政府はこうした新証拠にも、謝罪どころか、一切無視を決め込んでいる。中国を仮想敵国としているいまの日本。人類に対する最大の犯罪に謝罪の一言もない日本。山邊さんは最後に、「みなさん、日本が世界にひどいことをしたと証言してください。細菌は世界人類への脅威。二度と愚かなことはやらないように日本政府に言ってほしい」と訴えた。

 講演会では、1994年に八王子の石川中学の生徒たちが作った紙芝居「知られざる731部隊」も上演された。731部隊の活動の全容を簡潔に現した11枚の紙芝居に、観客は釘付けになった。この紙芝居、校内の盗難でオリジナルはもうない。コピー版での上演だったが、迫力は満点だった。これからも、どんどん出番を作ってほしい。【佐々木有美】

*参考映像 TBS吉永春子「魔の731部隊」

関連情報(日中労働情報フォーラムHP)
 当日配布された<山邉悠喜子さんのレジュメ報告>をご本人が加筆訂正の上、以下の日中労働情報フォーラムHPに掲載しました。731部隊研究の一端も紹介されています。
 http://www.chinalaborf.org/yamabey1703rep-l/

 また、講演会では、山邊さんの講演の前に八王子市立石川中の生徒たちが作った「静かなる悪魔 知られざる731部隊」(1994年制作)という紙芝居が上演されました。その制作経過と作品が抹殺されようとした経過を生徒たちを指導した根津公子さんが解説して、山邊さんの報告の末尾に掲載されました。以下のページに紙芝居の解説と動画へのリンクも付けました。ぜひご 鑑賞ください。
 http://www.chinalaborf.org/silentdevil/


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