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LNJ Logo 松本昌次のいま、読みつぎたいもの〜埴谷雄高「裂け目の発見」
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第4回 2016年1月1日  松本昌次(編集者)

埴谷雄高「裂け目の発見」


  *埴谷雄高(はにやゆたか)氏

 埴谷雄高さんの代表作『死霊』は、戦後文学の金字塔といわれますが、難解ということでも知られ、多くの論評があります。しかし埴谷さんの評論・エッセイ、また座談などは明解で、特に、先行して世を去った戦後文学の僚友たちへの心のこもった数々の追悼文には、胸打たれざるを得ません。

 わたしが埴谷さん宅を訪ねたのは1956年の半ばごろ、60年ほど前、埴谷さんは、結核の回復期で、寝たり起きたりの様子でした。わたしは、こういう天才は早世するのではと危ぶみ、すべての評論・エッセイを刊行したいと申しこんだのです。ところが、予想に反し(失礼)、97年2月、87歳で生涯を閉じられるまでに、わたしとの口約束を守り、埴谷さんは、評論・エッセイ集を21冊、対談集を12冊、未来社から刊行しつづけたのです。埴谷さんの人生全般に対する律儀さの一つの現われといえます。

 「裂け目の発見」は、埴谷さんへのインタビューをまとめたもので、PR誌「未来」の68年7月号に掲載しました。「文学的小伝」と傍題にあるように、これは、作家として出発する迄の社会的・個人的裂け目=体験を語ったものです。政治でも文学でも、「裂け目をどんなときにどんなふうに見たかということでその人間の方向がだいたい決って」くると、埴谷さんは語っています。

 埴谷さんにとっての第一の裂け目の発見は、生まれ育った植民地台湾での幼少年時代にあります。わずか10万人ぐらいしかいなかった日本人が、800万人の本島人に対し、政治的支配者としてどんなに横暴の限りをつくしたか。買物をすると値切りに値切って自分のつけた値段の金しか払わない。人力車にのると車夫の頭を後ろから蹴って、右に行け左に行けと言う。こういうふとした日常的光景を見ることで、威張り腐る日本人への嫌悪感と、屈辱に耐えて生きる人たちへの思いに、埴谷さんは、幼ない心を二つに引き裂かれたのです。

 第二の裂け目は、東京に出てきた中学三年の頃のある出来事でのことです。ある日、学校の校舎の二階の窓から、友人が埴谷さんの帽子を斜め下の入口の屋根に投げたのです。それで埴谷さんは、校舎の羽目板にはりつくようにして、「一寸か一寸五分」かの横板の縁に足をかけ、それを取りに行ったのです。真下はコンクリート、非常な恐怖にとらわれながらなんとか戻ることができたのですが、それは、小さなことながら死との対面といっていいでしょう。埴谷さんは、台湾時代の体験を「社会的な裂け目」といい、このことを「存在論的な裂け目」といっています。

 そして第三には、埴谷さんにとって決定的といってもいい文学的体験として、刑務所があります。共産党員だった埴谷さんは、1932年3月、不敬罪及び治安維持法違反で逮捕され、未決囚として当時あった豊多摩刑務所に収監されます。それから翌年11月に、懲役二年執行猶予四年の判決で出所する迄の独房や結核での病監暮らしで、埴谷さんは、以後の文学的活動に発展するさまざまな裂け目を発見したといっても過言ではないでしょう。『死霊』の構想も獄中で練られたという伝説すらあります。戦後の先駆的なスターリン批判などの政治的発言も、痛切な裂け目の体験に根ざしていることは言うまでもありません。それらに賛同するにしろ、それらを批判するにしろ、埴谷さんの生涯から、わたしたちは多くのことを学ばねばならないと思います。

 戦後70年、いま、わたしたちは、大きな時代の「裂け目」に立っています。埴谷さんは「精神のリレー」といいました。次世代に向ってわたしたちはどんなバトンを渡すことができるのでしょうか。

*「裂け目の発見」=『文学芸術への道・著者に聞く掘戞疹谷雄高『石棺と年輪』(未来社)/『埴谷雄高全集』第7巻(講談社)


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