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LNJ Logo 松本昌次のいま、言わねばならないこと〜土本典昭さんの先駆的仕事
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第17回 2014.8.1 松本昌次(編集者・影書房)

土本典昭さんの先駆的仕事ーその私的回想

 土本典昭さん(写真)とわたしが出会ったのは、1953年4月、第3回参議院議員選挙での選挙運動の時であった。前年4月、学校を出て都立高校の夜間部の職を選んだものの、平和運動(原爆禁止のストックホルムアピールなど)にかかわったカドで半年であっさりクビ、さまざまなバイトでわたしは糊口をしのいでいたが、選挙運動もそのひとつだった。主な仕事はトラックに乗って候補者(平野義太郎)の名前を連呼することで、終って事務所(中国研究所)に帰ってくると、机に坐って仕事をしている選挙参謀の一人らしい人が、「やあ、ご苦労さん!」と、やさしくねぎらいの言葉をかけてくれ、時には「一杯呑みましょう」と、わたしたちを赤提灯に連れて行っておごってくれたのである。そして文学論・政治論に花を咲かせた。その人が、わたしよりひとつ年下の土本さんだった。

 その後、わたしは未来社に職を得て編集者になり、土本さんが岩波映画製作所に入ったらしいことは仄聞していたが、お互いに別々の道を歩む疎遠な10年が過ぎた。そして1963年のある日、一通の映画試写会への案内が届いた。『ある機関助士』(写真下)。このなんともそっけないタイトルのわずか37分の記録映画から受けた衝撃は忘れ難い。「えっ! あの土本さんが?」という思いとともに、国鉄(当時)のPR映画であるにも拘らず、機関士たちがいかに過酷な労働を強いられているか、その視点から決して眼をそらさない、強い優しい土本さんの姿勢に脱帽した。それまでに羽仁進監督の『教室の子供たち』(54年)や『不良少年』(60年)にも感銘を受けていたが、この一篇が、選挙運動いらい途絶えていた土本さんとの新たな出会いとなった。翌年、警視庁による交通安全PRとして企画された『ドキュメント路上』もまた、企画者たちの意図を裏切り、交通事故のおこる必然性を描ききった作品だった。権力に屈せず、民衆の痛みにこそ眼をそそがねばならない勇気ある記録者の出発を告げる2篇であった。

 そしてまたふたたび、8年ほどの歳月が流れる。この間、土本さんは、むろん『留学生チュアスイリン』(65年)、『シベリア人の世界』(68年)、『パルチザン前史』(69年)などの作品を発表していたが、わたしが決定的に魂を奪われたのは、『水俣?患者さんとその世界?』(71年)である。映画を見おわったわたしは矢も楯もたまらず、試写会場でいきなり土本さんに「本を作らせてください」と、申し込んだのである。せめて本を作ることで、土本さんと患者さんたちにこたえたいと願った。それが、3年がかりで未来社から刊行された、土本さんにとっての最初の著書『映画は生きものの仕事である』(74年)である。それには、それまでに書かれたドキュメンタリー映画に関するエッセイのほとんどと、武井昭夫・高岩仁氏との鼎談、そして『水俣−患者さんとその世界−』『水俣一揆−一生を問う人びと−』(73年)のシナリオを収録した。76年には、『医学としての水俣病』(74年)と『不知火海』(75年)のシナリオを収めた『逆境のなかの記録』も刊行させていただいたのだった。

 土本さんとの著書以外の私的かかわりについてはキリがないのではぶくほかはない。ただ、土本さんが先駆的に記録した映画の一齣一齣は、いま、福島の原発事故などにあえぐ日本列島を、その中に住む人びとの苦難を、見事に予言したものではなかったか、そのことを心から言いたい思いである。土本さんと同時代を共にすごし、根源的に生きる指針を学ばせていただいたことに感謝し、何よりも誇りにしたい。土本典昭、2008年6月24日死去、79歳。

*写真提供=土本基子 土本典昭のホームページ


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