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LNJ Logo 現代日本の若者が「怒り」を忘れているようにみえるのはなぜか(河添誠)
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首都圏青年ユニオンの河添誠です。

ここのところ、すさまじい勢いで解雇が起こっているため、首都圏青年ユニオンにも相談がたくさん
寄せられています。

全国の労働組合でも同様だと思います。

ただ、気になることがあります。

このすさまじい解雇にもかかわらず、労働組合への加入者の数はあまりにも少ないということです。

厚生労働省発表でも15万数千人以上と言われている製造業での非正規労働者で解雇された人々は、
ほとんど泣き寝入りしています。

連合傘下、全労連傘下、全労協傘下、中立系も含めても2000名前後しか組織されていないのでは
ないでしょうか?

どうしてなのかを考える必要があると思っています。



このこととも関わる問題意識で、以下のような小文を以前に書きましたので、ご笑覧ください。

「しんぶん赤旗」日刊紙2008年12月17日付に掲載されたものです。

時間がたっていますから、転送・転載しても大丈夫だと思います。

ただ、転載するときには、私の氏名と「しんぶん赤旗」2008年12月17日付から転載と明記し
てください。


<「しんぶん赤旗」2008年12月17日付から転載>

現代日本の若者が「怒り」を忘れているようにみえるのはなぜか
――新自由主義と対抗する<組織化>の課題

河添 誠(首都圏青年ユニオン書記長)

 日本の若者が怒りを忘れているように見える。私が活動のなかで出会う若者の多くも「やさしい」
人たちで、傷つきやすく繊細である。「怒り」の感情をストレートに表出することなどめったにない
。さて、この「怒りの忘却」ともいえる状況はどのように形成され再生産されているのだろうか?

 一九九〇年代以降の新自由主義改革のなかで大量に生み出された派遣労働などの非正規労働のなか
で、労働者は「器用さ」を過剰に要求されることとなった。あちこちの仕事先の仕事内容・人間関係
に即座に対応できることが働くうえで、生きるうえでの標準とされるからである。しかしながら、こ
うした種類の器用さというものは、貧困のなかでは獲得されるものではない。さまざまなことに挑戦
するチャンスに恵まれ、幼少期からさまざまな成功体験を積んでいくことによってはじめて、何かを
やり遂げる自信をもつことができるようになるのであって、貧困のなかで挑戦するチャンスすら与え
られずにいる場合、自信を失い、器用にふるまうことの困難な状態になるのが普通である。現代日本
においては、こうした貧困な人・不器用な人ほど、階層化された労働市場の最下層に位置づけられて
いく。もっとも劣悪な労働環境・生活環境に、もっとも不器用な人たちが追い込まれ、生きづらさを
感じている。

 若者が感じている生きづらさが、じっさいにはさまざまな社会的要因からくるものだったとしても
、「器用に生きなければいけない」という規範が社会的に過剰に強制されているために、「自分が不
器用だからわるいのだ」と思い込まされ、自分自身の感情を押し殺してしまうことになる。であるか
ら、「声をあげたり、怒ったりするのはフツーではない」という雰囲気が若者のあいだに蔓延するの
である。このことによって、結果として、下層の若者が、その生きづらさを社会的な怒りとして表出
する回路が見事に遮断されることになる。下層が怒りの声をあげない状況とは、下層の存在が不可視
化され、社会的に抹殺される状況でもある。

 この状況をどう突破するのか?ここで考えてみたいのは、「組織化」の新しい可能性である。「組
織化」を、労働組合に加入するという意味以上の、もう少し広い位置づけで考える必要がある。たと
えば、首都圏青年ユニオンに加入した若者たちは、団交などの応援に参加し、そこで不当解雇されて
怒っている他の組合員の存在を知ることになる。怒っている他者を見ることによって、認識そのもの
が変わっていく。自分と同じように「能力不足」などと決め付けられ不当解雇にあっている他者がい
ることに気づく。また、住み込みの仕事を解雇されてホームレスになりかかった組合員の話などを聞
いて、自分よりもさらに厳しい状況にある他者の存在に気づくことになる。「組織化」されることに
よって自分以外の他者の存在を知ることを通じて、個別化された自分の生きづらさから、それが社会
的につくられたものであるとの認識を深めていくこととなるのである。そうして初めて、怒りを社会
的に表出する回路を若者自身が獲得することができる。新自由主義と対抗する怒りを組織化するため
にも、下層の若者自身を「組織化」することが不可欠の課題となると思われる。

 なお、本稿と関わって、下記の本を参照されたい。湯浅誠・河添誠編・本田由紀・中西新太郎・後
藤道夫著『生きづらさの臨界――“溜め”のある社会へ』旬報社、二〇〇八年一一月刊、一五〇〇円
+税。

Created by staff01. Last modified on 2009-03-20 21:05:46 Copyright: Default

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