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真の労働組合で雇用と権利を確保してきた

↑ 花束を掲げて労災闘争の勝利を喜ぶ中村孝雄さんと左・風呂橋修(委員長)、右・市川力政(書記長)、右端・佐藤忠広(副委員長)

 6月23日、梅雨空の土曜日午後、神奈川県藤沢市で「いすゞ分会結成20周年・中村労災問題解決レセプション」が開かれ、全造船の浦賀分会、石川島分会、東芝アンペックス、神奈川シティユニオン、湘南ユニオンなど関東地協の各分会や神奈川地域労働運動交流に参加する神奈川高教組、川崎清掃労組など地域の仲間たち70人が参加。いすゞ分会と長年共に闘ってきた仲間たちが組合結成20周年と中村孝雄さんの腰痛・労災問題の勝利解決を祝い、晴れやかにかつ盛大に勝利の美酒を味わった。

 当日配布された分会のパンフレット「いすゞ分会20年 さらなる歩みの糧として」に風呂橋修委員長は次のように経過と今後の決意を書いている。

 「1987年、鶴見工場閉鎖合理化が組合員への説明もないうちに決定され、会社派労働組合では雇用を守れないと考え、分会を結成したのが始まりでした。いすゞ労組を脱退したことをもって不当にも解雇。大きな支援を背景に分会が完全に勝利し、職場に復帰したのが1992年。会社をして分会を労働組合として認知させ、便宜供与も獲得。あたりまえの労働運動をめざしてきました。

 ところが、いすゞ自動車の経営失策は、合理化に次ぐ合理化の連続。闘いの連続でもありました。2001年にはいすゞグループ13,000人合理化が発表され、労働者を首切り、川崎工場の閉鎖にまで及びました。分会は構内下請け企業のヤサカ分会切り捨て反対も含め共に闘いを展開した。『支援共闘会議』が闘いを大きく支え、闘うことによって雇用を守り切ったのです。

 2004年から藤沢工場に移ると同時に(中村孝雄氏の)分会加入もあり、労災隠しを告発し、会社に損害補償の協定を調印させることもできました。

 これからも工場内そして地域に運動を拡大するために皆さんと共に頑張っていきます。」

↑ 闘争のビデオや挨拶に参加者から何度も歓声が上がった

<中村労災問題の経過>

分会チラシより

 中村さんは300〜400キロもあるエンジンの搬送作業や、粗材の番号確認作業などを行っている中で腰を痛めました。職制に伝え診療所で受診しました。しかし、「労働災害ではない」とされ、労災の手続きもされず、診療所での治療を繰り返していました。

 中村さんは疑問を持ち、外部の労働相談に電話で実態を訴えると「仕事中に痛めたのであれば、労働災害になりますよ」との助言。このことを職制に告げたところ、「労災にはならない」と繰り返すばかり。挙句のはては「我慢して働くか、就業制限を引くか、辞めるかだ」と言い放つ有様でした。この時には人事部も話に入りましたが、会社も含め労働災害かどうかの点検すらしなかったのです。

 中村さんは分会に相談を決めました。相談を受けた分会は、労災隠し問題として団体交渉で事実を解明し、労災申請、06年2月、労働災害と認定されました。そして、会社もようやく謝罪し、今回の損害補償の調印に至ったものです。「意志は力なり!」が教訓です。

(協定書・2007/4/16付の主な内容は以下の通り)

(1) 安全配慮の不備に対する会社の謝意の表明と会社は再発防止につとめる。 (2) 腰痛問題での損害を解決金として支払う。 (3) 1993年からの腰痛に関わる有給休暇損失分を07年度に付与する。 (4) 症状固定した段階で障害が残った場合は、会社規程の業務災害補償見舞金を支給する。

↑ 分会が承認され職場復帰、門前で「送り出し式」1992年11月(ビデオ「強制執行と職場復帰の日」より)

 全造船いすゞ分会の闘いの詳しい資料は以下に請求ください。  (報告・写真:高幣真公)

<連絡先>全日本造船機械労働組合いすゞ自動車分会

川崎市幸区幸町2-684-1 ビッグバン川崎1F  TEL&FAX 045-481-5055 E-mail rikichan@w9.dion.ne.jp


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