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LNJ Logo 鉄道雑誌に国鉄「改革」痛烈批判記事
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特急たから@鉄ちゃん(鉄道ファンの略称)です。
雑誌記事につき転載転送は各自の判断にお任せします。

今月発売の鉄道雑誌に、国鉄改革20年を検証する記事が掲載されており、しかも驚くことに、国鉄改革に対し、かなり批判的検証と呼べる内容になっています。採用差別問題を考える上で貴重な歴史的証言といえる内容も含まれていますので、なにはさておきご紹介します。

問題の記事は、月刊「鉄道ピクトリアル」誌7月号(発行・株式会社電気車研究会/鉄道図書刊行会)掲載の「特別企画 あの日、私もそこにいた〜国鉄改革から20年」。
記事の筆者は、JR東日本現役社員で八王子支社管内で運転士を務めるM氏(仮名)。堂々と実名、顔写真入りで寄稿していますが、JR東日本現役社員ということもあり、私の判断で実名は伏せます。国鉄時代は国労組合員。記事の文脈から現在は国労組合員ではないように読めますが、現在の所属組合は明らかにされていません。

『昭和62年3月31日、私は上野駅の直営店「ホイッスル」にいた。(中略)誰が言うともなく、「汐留に行こう」ということになった…汐留はあれだけあったレールが剥がされ、ただ1本だけの線路が寂しく取り残されていた。どうもこのイベントのためだけに残しておいた線路らしい。車止め近くにC56 160が単機で停まっており、時々吐き出すコンプレッサの排気が夜目にも白く美しかった』
記事は日本国有鉄道最後の日、1987年3月31日の叙情的な記述から始まります。

『午前零時ちょうどに、ひときわ高く汽笛が鳴った。C56 160は現役時代から汽笛が壊れていて、いつもボッキャーッとかすれてしまうのだったが、国鉄の断末魔のような汽笛を聞いて、ふいに志なかばで辞めていった同僚たちの顔が浮かんできて、私はこんな時なのに涙が出そうになった。そうだ、私もあの時、ここにいたのだ』

続いて筆者の国鉄職員、そして国労組合員としての国鉄改革が語られます。

『東北新幹線も上越新幹線も、今では日本の旅客輸送の屋台骨の一部になっているが、その経緯は政治路線であることは明らかだ。教科書にも出てくる大船渡線の大曲がりや、急行列車を自分の選挙区に停車させるように圧力をかけて、辞職した運輸大臣など、鉄道と政治は切っても切れない関係にある。もっとも、鉄道の側からみれば、自分は親の命令を聞かなければならない子供のようなもの。だから身動きできないほど膨れ上がった巨額の赤字は、親の借金を無理矢理押しつけられたようなものだ。ところが親の方は、孝行息子が文句を言わないのをいいことに、ますます無理難題を押し付ける。ついでに、言うことを聞かない子はお仕置きをしますよ、というのが、内側から見た国鉄民営化の実感である。言うことを聞かない子とは、すなわち労働組合である』

そう、まさにそのとおり。国鉄改革は闘う労組潰しだ。
ちなみに、自分の選挙区に急行列車を停車させるよう圧力をかけ、辞職した運輸大臣とは自民党の荒船清十郎代議士です。この人、1966年8月、運輸大臣に就任するやいなや、自分の選挙区である埼玉県・深谷駅に急行を停めるよう国鉄に命令し、それが世論の批判を浴びて2ヶ月で辞任するという出来事がありました。

『1981(昭和56)年頃から、マスコミが盛んに「国鉄職員のヤミ・カラ手当」とか、「働かない国鉄職員」だのとあおりはじめた。これもどうも、仕組まれた反国鉄キャンペーンのような気がする。なぜなら、その直後の1982年7月の、中曽根内閣の「国鉄分割・民営化の答申」と奇妙に連動しているように見えるのだ』

いえ、連動しているように見えるんではなくて、完全に連動しているんですって。
でもこの人、言われっぱなしで黙っちゃいない。反撃開始。

『国鉄の職場は、ほとんどが24時間勤務で、朝出勤すると、仕事から解放されるのは翌朝である。一晩中仕事をして、家に帰って横になると、近所の人には、まるで一日中働かずにブラブラしているように見える。これが乗務員になると出勤時間も退区時間もバラバラで、知らない人から見たら、それこそプータローである。だが私たちの名誉のために言わせてもらう。私のいた大宮機関区は、東海道・山陽方面からの貨物列車と、東北・上越方面からの貨物列車の機関車を付け替え、さらに大宮操車場の入換機関車の出入区と川越線の気動車編成替えをあわせると、広くもない構内で、一日に420回の入換をしていた。誘導の構内運転係の出面は8人だから、1人当たり一日52回、雨の日も雪の日も、機関車のデッキに乗って旗を振っていたことになる』

1人1日52回の列車入換作業。つまり1時間当たり2回以上。
仮眠時間、食事などの時間は除くと、1時間に3〜4本の入換作業になることもあったのではないかと思います。
これがどのくらいの仕事量になるか、一般の人の目にはなかなかピンとこないかもしれませんが、入換作業の実態を多少なりとも知っている鉄道ファンの目で見てみると、1時間2〜3本の列車入換は「休む間もなく」と表現して過言でないと思います。しかも、少しでも気を抜くと衝突事故で命を落としかねない緊張の現場です。
1日8時間労働、3食睡眠つき、緊張の糸が途切れたところで命取られるわけでもない管理職ごときに「ブラ勤」呼ばわりされるいわれなんて、これっぽっちもありません。こんな仕事、好きでなければやってられないと思う。

ちなみに、機関車の付け替えについては若干、説明が必要だろうと思います。鉄道ファンの方は先刻ご承知と思いますが、東海道・山陽本線方面の貨物列車と上越線方面の貨物列車では別形式の機関車が使われていたので、必然的に機関車の付け替えが必要でした。東海道線と上越線は電気方式が同じですが(どちらも直流方式)、もともと直流機関車は不器用な車両。平坦な路線と急勾配の路線を1形式に掛け持ちさせると性能が落ちるので、平坦線には平坦線専用、勾配線には勾配線専用の形式が用意されていました。上越線は急勾配のため、勾配に強いEF64型に大宮で切り替えていたのです。

『1985(昭和60)年の6月だった。前の年の秋から進めていた上野駅の直売店「ホイッスル」の計画が軌道に乗り、私もその店員となることが内定していた。(中略)同じ頃、私のライフワークにしているカナダ文学の現地調査のため、前々から予定していた休暇が、当局により一方的に取り消された。(中略)抗議に行ったら、構内とは何の関係もない指導助役が「辞表を書いておいていけ」と言った…私はやむを得ず休職の道を選んだ。国労は辞めない、派遣出向に行かない、休職しない、の「三ない運動」を実施していたが、それを曲げて辞めてしまおうかと思ったのを止めてくれたのは、国労の人たちだった。動労はといえば、仕切り屋の男が「あんたなんか仲間と思ってねーよ」という一言で送り出してくれた。私は彼とその一言を、死ぬまで忘れない』

「仲間と思ってねーよ」…なるほど、「鬼の動労」らしいひとことだと思います。
自分たち以外は仲間じゃない…日頃からそういう連中だから、国鉄改革の時も平気で仲間を裏切ることができたのでしょう。
こんな奴らが支配しているのだから、JR東日本の労使関係がおかしくなるはずだ。

国鉄時代の話はこれくらいにして、JR化後に進みましょう。
『(民営化後の)4月からは、「職員」という呼び方をやめて「社員」と呼ぶようになった。お互いに「○○社員」と呼ぶのを聞くと、共産圏のプロパガンダ映画のようだった』とM氏は綴っています。なるほど、強制収容所に送られたくなければ党の言うことに従い、仲間を同志と呼ばなければならなかった「労働者の祖国」と同様、JRに残ることのできた人間は洗脳イデオロギーに毛細血管まで洗われた人間のみということか。
第一、普通の民間企業では「○○社員」なんて呼びません。いくら社員に「企業人教育」を施そうと、施す連中が民間企業の何たるかわかっていない。わかったふりをして、どこかでピントがずれている。民間企業になろうとしてもなりきれず、かといって公共企業体に戻ることもできず。頭の中は官僚のまま体だけが民間企業になった宙ぶらりんのJRが、強制収容所のような官僚的締め付けと、民間企業のような儲け第一主義で暴走した結果が尼崎ということなのでしょう。

M氏の話は、いよいよ安全問題へと入っていきます。

『先日、中央線の201系のブレーキ時の衝動が問題になった。連結器胴受の摩耗と、緩衝器の緩衝力不足が原因なのだが、運転方法でかなり防ぐことはできる。便乗中に本務の若い運転士が「ひどい衝動ですね」というので、いくつかアドバイスした。彼は目を輝かせて「本当だ、こんなことができるんですね」と言う。私の拙い技術だが、少しでも伝達できたのかなと思い、「いろいろとやってごらん」と続けたら、「そんなことしていいんですか?」と真顔で訊ねてくる。彼だけではない。若手運転士のほとんどは、マニュアル通りの運転が最も良いのだ、と信じ込まされているようだ。マニュアルが悪いとは言っていない。マニュアルを完璧に身に付けたうえで、自分なりの運転技術を加味していくのがプロだろう。
その何日か後、指導助役が私の列車に添乗してきて、「でたらめなブレーキ扱いをしやがって」と怒りだした。そして「運転士に職人技はいらない」と言い放ち、最後には私が助役試験を受けないことを非難した。運転士から職人技をとったら、何が残るというのだろう。私達乗務員の仕事は、「お客さん気に入った。百円まけちゃおう」というサービスはできない。一にも二にも安全第一、その上での精確な運行だ。それ以外にできるのは、快適な乗り心地を提供することである。それは研究と繰り返しの鍛錬で、いくらでも向上することができる。できることをやらないのは、怠慢なだけだ。中央線には、そうやって乗り心地向上に取り組んでいる運転士が何人もいる。嬉しいことではないか。ただそういう地道な努力はまったく評価されないし、それが残念でならない』

私、読んでいて涙が出てきました。付け加えることはまったくありません。こんな人がJR東日本に100人もいれば、きっと会社は変わることでしょう。

『鉄道のようなシステム工学では、技術の継承、すなわち人を育てることが、絶対に必要なのである。人を育てることは直接の収入増にはつながらないし、なにより金がかかる。だがそれは鉄道だけではなく、全ての輸送業務の最大の使命である「安全」に密接に繋がっているのだ』

そして、20年の時を経て、いよいよその化けの皮がはがれつつある国鉄「改革」について、Mさんは疑問を呈しつつ、こう結びます。

『国鉄民営化のあの騒ぎを思い出すにつけ、いつもあれは何だったのだろうと思う。あの日私は、終夜運転の山手線で寮に帰ってテレビをつけたのだが、深夜にもかかわらず、どのチャンネルも国鉄民営化の特番ばかり、それも華やかなバラエティばかりだった。そうか、あれは祭り、オリンピックや万国博と同じ、国民的な祭りだったのだ。国民の目は、悪の帝国・国鉄解体という祭りに釘付けにされたのだ。
祭りならば仕切り屋もいよう。その機会に金儲けをたくらむ良からぬ連中もいよう。ちゃっかりと懐を肥やす町の顔役もいよう。死者の出るほどに盛り上がる祭りもあろう。だがしかし、「あれは壮大な祭りでした」では、死んでいった者は浮かばれない。最低限、額に汗した者が、苦労した者が報われる会社にしなくてはならない。敗戦後の、石炭も電力も絶望的に不足する中、焼けただれた国土にただひたすら列車を走らせ続け、近代日本の復興を支えた鉄道員魂を忘れてはならない。そして鉄道は誰のものなのか、今もう一度、考える時だろう』

読後の感想ですが、お見事!の一言に尽きます。鉄道趣味誌としての枠を突き抜け、これはもう立派な国鉄改革以降20年の「総括」。特別企画の名に恥じないものだと思います。ここまで書いて大丈夫なのかと、鉄道ピクトリアル誌が心配になるほどです。しかし、同誌編集部があまり心配していないらしいことは、『往時を振り返れば人それぞれ、さまざまな見方があると思いますが、本稿では一時代の歴史を受け止めたうえで前向きな構成によりまとめていただきました。(編集部)』というこの記事のリード部分の記述からうかがえます。国鉄改革と、それが生み出したJR体制を批判的に検証することは、鉄道雑誌にとって「前向き」な記事、ということでしょう。

鉄道ピクトリアル誌は、もともと鉄道ジャーナル、鉄道ファンと並んで「御三家」と言われる雑誌ですが、その中でも最も読者の平均年齢が高いと言われており、読者の主力は40〜50歳代という推測もあります。国鉄型車両の形式ごとの特集記事を得意としており、その資料性の高さは高く評価されてきました。また、国鉄解体という歴史的事実の承認を拒否するかのようなその姿勢から、国鉄改革に批判的な読者を一定層確保していると見られてきましたが、それでもこれだけはっきりとした国鉄分割民営化批判が出たのはこれが初めてだと思います。

さて、当然ながらこの雑誌を入手したいと思われる方もいるでしょう。大きな書店ではまだ残っているところもあると思いますが、残念ながら鉄道ピクトリアル誌は発行部数が少なく、すぐに売り切れてしまいます。入手したい方は早めにお願いします。

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特急たから
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Comments:

説得力ある記事でした, by unknown on 2007-05-26 22:50:15

Created by zad25714. Last modified on 2007-05-26 21:42:31 Copyright: Default

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