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「戦う女性」の話を聞かせてくれる小説家、パク・ソリョン

[インタビュー]朝鮮女性労働者《滞空女姜周龍》から現在の青年女性を描いた《マルタの仕事》まで

ユン・ジヨン記者 2020.03.08 19:45

1931年5月29日未明。 ある女性労働者が平壌平原ゴム工場の賃下げに反対し、 平壌の乙密台の屋根に上がった。 朝鮮で最初の高空籠城修行者として記録されたこの女性の名前は姜周龍(カン・ジュリョン)だ。

小説家のパク・ソリョン氏は2018年、 「滞空女姜周龍」 という長編小説で、87年前の彼女の闘争を現在に召喚した。 彼の小説はなぜこれほど激しく世の中と対抗した女性の話は記録されていないのか、 という質問を投げかけるようだった。 不足な史料に取り組んで歴史的事実を復元し、 さらに想像力を加えてこれまでになかった「戦う朝鮮女性」のキャラクターを構築した。

そして昨年、作家は現実社会に戻り、青年女性の人生におちついた。 2019年に発刊した長編小説「マルタの仕事」は今の韓国社会で激しい戦いを繰り広げる女性たちの姿を描く。 ジェンダー暴力と差別、不平等と競争に追いやられた彼らの戦いは、切迫しており、利己的だ。 絶えず「戦う女性」の話を聞かせつつ、世の中と戦うパク・ソリョン作家と会った。

▲パク・ソリョン作家[出処:ウン・ヘジン記者]

*「滞空女姜周龍」では朝鮮の女性労働者を描き、「マルタの仕事」では現時代の青年女性の話を書いた。作家にとって『女性』はどんな存在なのか。*

やさしいながらも難しい質問だ。 それ(女性の話)以外に他の話が思いつかない。 逆に言えば私にとってのデフォルト(基本値)は女性の話だ。 小説を準備する過程で女性の主人公がまず思い浮かぶ。 姜周龍のような女性の人物に引かれると文を書きたいという考えが強まる。 私にとって、女性は「人」だ。 当然な言葉だ。 しかし男性と女性が同等な「人」かというと、そうではない。 最近の淑明女子大事件について話をしたことがある。 ある人が女子大が存在する意味について話を切り出した。 女子大でも、総女子学生会などは存在すると同時に解体を目的にする機関であり団体だ。 今はとても必要だが、必要ではない社会にならなければならないものだ。 必要ではない社会を作るために今必要な存在があるから、 女性が「人」だという当然な話もできるようになるのだろう。

周龍は独立軍に加担して女性という理由で仲間だと思っていた人から毒々しい眼差しを受けて嘲弄される。終局は夫も彼女を排除する。無理に排除されたまま40km以上の道を歩きながら周龍の気持ちはどうだったのだろうか。

友人の事例でもあり活動する女性が体験することでもあるが、 一緒に活動をしたのに「その子は誰々のガールフレンド」と呼ばれる場合がある。 私も共に献身したし、それなりに寄与をしたし、同じ同僚であり一員だと考えていたのに 『誰かの夫人』あるいは『誰かの恋人』と呼ばれ、 そのためにこの空間にいることが当然と考えられたりもする。 私の功労が残念ながら認められないということだ。 当時、周龍はジョンビンの妻ではなく、そんなことを越えて同僚から認められているという感覚を持つ頃だった。 しかしそうしたことを体験して剥奪感を持っただろう。 私が同等に思われていないのではないか、 その上愛する人にまで。 作品ではそんな感情を切切と交差させようとした。

「部隊の結束を害するかと思って、私と妻を蔑視する話を聞いても笑うことは、 楽なことではなかった。 だがそんな結束が何だろう。 女一人を、若い男一人を笑い話にしなければ維持できない結束なら、 そんなものはないほうがよほど良くないだろうか。」
《滞空女姜周龍(カン・ジュリョン)》 P79

*独立軍の部隊内でハラスメントや差別を受けながらも、周龍は我慢して無視する。「戦うために生まれた人」の』である姜周龍の別の姿を見るようだ。何が彼女に被害を表わしたり戦えないようにしたのか。*

「私が被害事実を話すと組織の雰囲気を害するのではないか」、 「夫に被害が及ぶのではないか」という感情が彼女をしばったのだろう。 周龍は当時、その紛らわしい気持ちを表現することが難しかったのではないだろうか。 集団に所属して活動したのも初めてだったし。 被害事実を打ち明けるほど近い女性同志が近くにいたわけでもないから。 ただ自分がおかしな人になった気がしたのだろう。 集団的なガスライティングにあったと見られないだろうか。

夫のジョンビンは権威や固定観念に捕われず、周龍を支持して支援する人物だ。 しかし結局、周龍の被害に目を塞ぎ、周龍を独立軍部隊の外に追いやることになる。 迫害される祖国と民族のために戦うことを決心した彼女が、 なぜ周龍の状況に共感できなかったのだろうか。

ジョンビンという人物は、高尚な少年を想像しながら書いた。 純粋で、自分が崇高だと思うことに身と心を捧げる覚悟ができていて、 冒険心と好勝心を持ち、透徹した正義感を持つ人物。 そのために自分が正しいと思う人が犯す誤りには敏感ではなかった。 憧れの集団に入り、愛国のために献身する先輩の姿をまねしなければならなかった。 先輩の行動に異議を提起したり反感を持てないと想像をしながら書いた。 現実でも多くの新入り活動家がしていることではないだろうか。

「一言さらに付け加れば、皆さんは彼らの思想がどうか考えたこともないでしょう。 内心、女子供の無学無知は当然で、皆さんが共産者だか共産主義者だかということだから、 夫人も共産夫人であるのが当然と感じているのでしょう。 この言葉が正しくなければ是非直してください。 間違っても皆さんは夫人にはこうした学習の機会を与えず、 ひとりでいつものようにしていれば変わりません。」
《滞空女姜周龍》 P202

[出処:ハンギョレ出版社]

小説の叙事で周龍が主体性を確立する過程があらわれる。女性労働者になった周龍は自分より若い女工を見て「これから君は君が好きな通り生きて欲しい」と考える。周龍のひとりごとのようでもある。死を覚悟して乙密台で高空籠城に上がった周龍が望む人生はどんなものだったか。

私もあえて察するのは難しい。 周龍はどんな生活を送りたかったのだろうか。 ただ初め姜周龍というキャラクターを解釈するために彼女のインタビュー資料を読んだ。 最初のキャラクター解釈は 「この人は途方もなく愛する人だな」だった。 あなたの人生を話してみろというインタビューで、 彼女はインタビューの半分以上、先に亡くなった夫の話をした。 とても愛が多い人だと感じた。 そんな人だから、思いきり愛することができる人と出会い、 その愛を妨害するものと戦いながら、 そのように思いきり生きていける世の中を望んだのではないだろうか。

姜周龍という人物に対する史料が多くなくて困難を経験したようだ。

夫のチェ・ジョンビンが姜周龍より先に死に、 独立運動での功労も違うと見る。 歴史的功労が姜周龍より少なくならざるをえないチェ・ジョンビンさえも、建国勲章愛国章(1995年)を受けた。 しかしところで姜周龍は2000年代になって建国勲章愛族章(2007年)が叙勲された。 そんなことを見ながら、女性は透明人間扱いを受けているという気がした。 朝鮮最初の高空籠城遂行者、姜周龍を説明するのはそのたった一行だ。 それだけでもすごいが、それに対する業績が認められるまでには本当に長い期間がかかった。

事実、そうした条件により、男性登場人物らに頼るほかはなかった。 姜周龍の資料は残っていなかったが、 彼女とすれ違った男性人物の研究資料や史料はもう少し具体的だった。 それで姜周龍と明確に出会ったチョン・ダルホン、 そして出会ったと推察されるペク・クァンウンなど、 歴史的に実存した男性の名前を呼び起こすほかはなかった。 そこにクァンウンが周龍を寵愛したという想像が大きくなったし。 それ以外の女性人物、一緒にストライキをして座り込みをした女性たちは、 すべて仮想の人物だ。 当時のゴム工場の状況を調べながら、そうした人たちがいると想像しながら書いた。

「会社ではいつものように無知な女工が彼女たちどうしでふざけているのだろうと考えて無視するだろう。 われわれはとても静かに、しかし熱く変革を準備しているのに。 暖房をほとんど切って、氷倉のようになった冬の工場の中で周龍が笑う。」
《滞空女姜周龍》 P211

*姜周龍は魅力的なキャラクターだ。その魅力がどこから出ると考えるか。*

私は彼女のユーモラスさ、だじゃれに惚れた。 彼女のインタビュー資料を読みながら、 この人が持つユーモラスさを再現したいという衝動のようなものを感じた。 雑誌記者とかなり長いインタビューをしたが、 姜周龍としては初めてのインタビューだったようで、 インタビューの質問も体系的ではなかったようだ。 突然、生きてきた話をしてみろというので、 姜周龍はまるで生まれつきの話屋のように 「私が中国の監獄で一週間までハンストしたのに、三日のハンストが格別か」と冗談を言う。 その考え方とユーモラスさが本当に魅力的だと考えた。

周龍は家族を抜け出して自分の主体性を確立することができた。スアは両親が演出することを願う『家族のイメージ』を拒否する存在だ。『家族イデオロギー』に対する作家の批判的意識があらわれる。

まず私の経験的な側面が大きい。 大学のためにソウルにくるまで鬱病などの精神的な問題が累積していた。 どんな理由だったかはわからないが、 家族内で「誰かはどうだそうだ」といった自尊感を落とす話をよく聞いた。 日常的にそんな話を聞けば誰でも完全になれない。 家族と物理的距離をおけば解決できる部分が多いと考えた。 そして家族と離れて暮らして解決できる問題も多いと思う。 もうこれ以上両親を愛しておらず、同じ感情ではない。 個人的に一緒に暮らしながらも和やかな家庭の話を聞いたり見るのが一種のファンタジーのように感じられる。

「公式にはキョンアの死は自殺だったし、 実際にキョンアの行動を考えてもほとんどそうだといえる。 だがキョンアは殺されたのだった。自殺したが殺された。」
《マルタの仕事》 P192

[出処:ハンギョレ出版社]

インミョンは《マルタの仕事》で最も大変危ないキャラクターだ。犯罪の危険ためだとしても自分が愛するキョンアとその恋人の関係に執着するように見られる。キョンアを1人の同等な人間と見るのではなく、マリアのような純潔無垢な人物と想像して神聖視する。ストーカーと助力者の間で危険に見えるインミョンはどんな存在なのか。

作家としては価値判断をしたくなかった。 ただこの本の読者としては、変人のように感じられたりもする。 インミョンの行動について良く評価をしたり、さらに感情移入をする人々もいる。 だが他の状況に置かれた時は、彼がキョンアを威嚇する加害者になるかもしれない。 危険な話かもしれないが、加害者として常に悪い面だけあらわれるわけでもなく、 悪い人だと決めつけるにも無理がある。 インミョンが悪い人だと考えることはないが、 ある瞬間に加害の可能性もまたあらわれる複雑性があると見る。

朝鮮時代の女性労働者周龍が階級と体制に正面から闘ったとすれば、現在の青年女性スアは任用試験という制度の中で自分の「公正性」を証明すると同時に個人的な復讐を敢行する。彼女らに他の選択肢が与えられた理由は何だと思うか。

スアは利己的な人物だ。 そしてそれがどうであっても、自分が正しいと考えることを実行する人だ。 周龍と同じことも違うこともあるが、 周龍には大義に近い労働運動の指向があったとすれば、スアは自暴自棄状態だった。 この社会に対して自暴自棄になったのだ。 スアはとても頭が良い人物だが、先生という職業を選ぶ。 安定的で失敗しそうもない職業を選択したのだ。 社会からあきらめという情緒を体得してきた人物だ。 持てないものはいち早く諦めて、できることだけするという情緒が強い。 巨視的なことにはこれと言った関心がなく、 今は妹への復讐だけを敢行するキャラクターだ。

「みんな妹が可愛くて優しいと、私と比較すると感じたが、キョンアも勉強ができる、 私の口で話すのはちょっとどうかと思うが、 抜け目のなくて隙のない姉と絶えず比較されてきただろう。 顔は何、こうして生まれたのをどうしろというのか、という考えでやり過ごしてきた私と違って、 キョンアは自分が十分に努力できなかったという考えで絶えず自ら叱責しただろう。」
《マルタの仕事》 P134

「滞空女姜周龍」を書くのはとても大変だったと聞いた。作家としての人生もなかなかだと思うが、当時の状況はどうだったか。

応急室に運ばれたりもした。 本を書いたらぜひお返ししなければならないと約束したし、 今四回目ぐらいのお返しをしているところだ(笑)。 小説の草案を捉えた時は、スターバックスのアルバイトをしていた。 しかし私はあまり仕事ができなかった。 半年程度働いたが、だめだと思って止めた。 おりしも国費支援を受けるようになって、当分はやっていけそうだと思い、小説だけ書いた。 そのうちに2017年末頃、いとこの姉さんの事務室で働いて若干の収入があった。 事実、一週間ずっとやっていく業務ではなく、収入が不安定だった。 そのうちに応急室に運ばれて出勤できなくなり、諸々の事が重なってとても大変だった。 スターバックスのアルバイトする前には青少年文学イベントで台本を書くアルバイトをしたが、 それも不定期的な収入なので大変だった。

そして2018年3月に《滞空女姜周龍》を完成した。 働かずに文だけ書くといえば、不思議そうに思ったり羨む人々がいる。 だが私はいつも「専業作家」ではなく「失業作家」状態だ。 いつも文を書いて求職をする状況というか。 それでも書き続けるしかないのは、他の仕事ができないからだ。 事務補助アルバイトやスターバックスの仕事をする時も大変だったし、 文を書く時も大変だが、どうせ同じ大変な仕事なら、 うまくやれる仕事をするほかはない。

最近文学界が騒々しい。若い作家を中心に文壇の不合理な慣行を批判する声が上がる。『文壇』という存在は何か。

今年で登壇6年目をむかえた。 しかしまだ文壇というものが何かわからない。 文壇で集まりをするわけでもない。 実際にこうした人たちのことを「文壇」というんだなと思ったのは授賞式の打ち上げ程度。 その時でなければあのように人が集まることもない。 それで文壇がどこにあるのかも、その実体もよく知らない。 (文壇内の慣行も)誰も教えてくれない。 本来こういうものか、本来こうだよ、という長い時間をかけて固まってきたものなど。 まるで裸になった王様を見るようだ。 文壇という所も曖昧で、そんな形の慣行も曖昧だ。 おかしなことではないか。 登壇という制度と出版市場はしっかり角が立って実体的なのに、 これを曖昧なものが勝手にするので問題になるのではないのか。 もう少し鮮明になったら良い。

「多くの人が傷ついた後にやっと勝利をおさめることもできる。 誰一人傷つかずに勝利するのが最善かもしれないが、 これを望むのは戦わずに勝ちたかったのかもしれない。 最悪は多くの人が傷ついても、賃金削減は防げないことだ。 すでに戦いを始めた以上、最悪だけは防がなければならない。 しかし何がさらに悪くなるだろうか。すでに戦いは始まったのに。」
《滞空女姜周龍》 P220

小説の中の「戦う女性」を喜ぶ読者が多い。最後に戦う女性、そして戦いを準備する女性にひと言。

朝鮮の女たちは、譲歩して配慮することを学習してきた人々だ。 だからそうしたことが身についている。 しかしそうするのではなく、ただ勝つまで戦ってほしい。 その気になれば上手くやれるのが朝鮮の女ではないか。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2020-03-31 09:12:42 / Last modified on 2020-04-04 12:51:58 Copyright: Default

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