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富川警察署、性拷問から獄中闘争まで

[ワーカーズ人権の場所]富川地域労働者たちの闘争が作った解放区

ミョンスク(人権活動家) 2018.03.11 18:11

「インターネット検索で富川素砂警察署と打てば、 関連検索語で性拷問が出てきます。 初めて私がここに発令され、家族や友人がインターネットで検索をしたようです。 それを見て驚きました。 私もあまり気分が良くなかった。 起きてはいけないことが起きたのですが、 私もここに発令されるまでは知らなかった。 そんな事件があったのか。」

富川素砂警察署の女性警官に性拷問事件をいつ知ったのかと尋ねるとこう答える。 今は警察署がいくつかできて、富川素砂警察署だが、その時は富川警察署だった。 30年経った事なので、ほとんどの人は知らないかもしれないと思った。

▲富川警察署取り調べ室があった4階の廊下[出処:サゲ]

最近、被害者で女性学者のクォン・インスク氏が 法務部セクハラ・性犯罪対策委員会の委員長に任命され、 忘れられていた事件がまた知らされた。 1986年6月、警察に連行された時、クォン氏は22歳のソウル大生で、富川にあるソンシン工場に偽装入社した状態であった。 労組を作るために入社したが連行され、身分が明らかになった。 富川署の刑事ムン・ギドンは、彼の公文書偽造(住民登録証偽造)に満足せず拷問をした。 ムン・ギドンは服を脱がせて手錠をかけたまま性暴力をして拷問した。 仁川5.3抗争(俗称5.3事態)の背後を明かして手配犯人を捕まえようとしたのだ。 仁川5.3抗争は86年当時、急進的な民主化運動とは線を引こうとした野党新韓民主党を糾弾した大規模闘争だ。 先立って全斗煥(チョン・ドゥファン)政権は新民党に和解のジェスチャーを送り、 改憲の議論を認めると発表し、新民党はこれに答えるかのように急進的な学生運動を批判した。 それで労働者と学生を主軸とする民主化運動勢力は、 5月3日、新民党の改憲推進委員会京畿・仁川支部結成大会を無にした。

ムン・ギドンは手で胸を三、四回さっと触ったのが全てだと嘘をついた。 彼の罷免で事件を終わらせようとした検察は、暴言と暴行などの苛酷行為しか認めなかった。 むしろ「クォン・インスクが調査された部屋は中が見える所で、 他の警察官が隣室にいて、蒸し暑くてすべて扉を開いて行き来するのに、性拷問があったという主張は認められない」とし 『容疑なし』を決定した。 しかしクォン氏は13か月監獄に閉じ込められることになった。 検察はそれでも足りないのか 「急進左派思想に染まって成績も不良で、家出した者が性的侮辱という虚偽事実を捏造・歪曲し、 自分の救命と捜査機関の威信を失墜させ、政府の公権力を無力化させる意図」と報道資料を発表した。 87年6月抗争後の88年2月に裁判所が裁定申請(検察が不起訴処分を下した事件に対して裁判所に直接判断を求めて申請する制度)を受け入れ、 ムン・ギドンは起訴され、その年の7月に懲役5年の刑を宣告された。

明るいそこで

われわれは性拷問が起きた取り調べ室があった4階に上がった。 今は情報課が使っている事務室なので中には入れず、廊下から取り調べ室を見た。 検察の言うように、廊下に日差しが明るく入ってくる暗くない建物だった。 白昼、これほど明るいところで堂々と性拷問が行われていたというのだから。 性別化した国家暴力の現場だった。 男性には強い物理的暴力で、女性には性的羞恥心をあたえる暴力で。

私たちを案内した人は、民主労総京畿道本部富川始興金浦支部のクォン・オグァン議長だ。 当時、クォン議長も偽装入社で解雇された後に富川署につかまり、調査を受けていた。 彼はクォン氏が働いていたソンシン工場の裏にある東洋ピストンという工場で働いていた。 彼は取り調べ室が当時3つか4つあったという。事務室の一つを示しながら、 「この部屋なのか。広くて赤い部屋でした。 机一つがあって。 私は4月につかまり、クォン・インスク氏は6月につかまった。 留置場に10日ほどいたんだ。」

仁川5.3抗争の時、現場組織責で仁川刑務所に入ったクォン議長は、 そこで性拷問の消息を聞いた。 そこには5.3抗争で拘束された良心犯が30人ほどが残っていた。

「当時、女子(女子収容棟)にクォン・インスクの学校1年先輩で、 清渓川で1年夜学をしていたイ・ヒョンギョンというのがいた。 そいつが運動してクォン・インスクと会ったが(顔が)おかしいので、 なぜかと尋ねたところその事件を話したそうだ。 そんなこんなで性拷問を受けたと。 それでこの事件を外部に知らせなければならないと思い、 あちこちを調べて明洞聖堂を通して世の中に知らせることにした。 当時はマスコミが遮断されて、きちんと報道がされないので。 そして私たちにメッセージが飛んできた。 これこれなので助けてくれと。 その時から男子(男子収容棟)でハンストと扉をたたいて、 刑務所の歴史で初の出来事といわれるほどの監房闘争が成功した。」

賢い監房生活、抵抗の場所になる

5・3抗争で仁川刑務所に収容された人は、合計70人程度だったが、 当時は30人ほどが残っていた。5・3抗争でつかまった人があまりにも多く、 まったく刑務所の1棟に入れた。 ところでそれがむしろ集団行動を可能にしたのだ。 毎日30人ほどが外の消息を聞いて会議をした。 彼は監獄に入る前に監獄闘争についての文書を読んだので役に立ったと話した。 文書には「監獄は敵と戦う第一線なので、気楽に本を読んで休んでいてはいけない」と書かれていた。

「初めの私たちの戦術は、面会に行ったら入らないだった。 面会に行けば刑務官二人がついてくるが、戻る時に部屋に戻ってはいけません。 良心犯五人があちこち逃げるわけだ。 そうするとすべての刑務官がみんな飛び回ります。 二番目の戦術は病舎を占拠すること。 数人が体調が悪いと病棟に行って扉を閉めて横になって、占拠座り込みをする。 その次によく使った戦術は、夜に木の扉を足でけること。 夜12時から朝4時まで扉を叩いたよ。 とても騒々しくて、隣の住民も眠れないほどだ。 2階には少年囚がいたが、その子たちを使って刑務官が脅迫しました。 夜に子供たちが眠れないから、やめろと。 そして面会をさせない。 面会に行けば走り回るから。 外では面会ができないから、中で何か紛争が起きたようだと。 (刑務所の)外で家族が座り込みして、明洞聖堂で(性拷問事件が)爆発して、大きく事件化されたんだ。」

富川性拷問事件は当時、労働運動団体、女性団体の闘争だけでなく、 監獄の中でもこれを伝えるために戦ったから世論化ができた。 刑務所はいつまでも「敵」の場所というだけではなかった。 その属性を変えたのは抵抗だ。 生きた人々の生きた闘争。

非難された日常から抜け出した解放区

87年6月抗争以後、労働者闘争と労組結成の流れは富川でも似ていた。 87年7月ウソンミラーの闘争を始め、8月中旬にウォンバン、東洋エレベーター、サムリョン精密、テフン機械など65か所ほどで新規労組が結成され、 キョンウォン精機が民主化された。 クォン議長は何よりも1989年の4.15全面ストライキは歴史的な闘争だったとし自慢した。 「九老同盟ストライキが5つの事業場から始まった最初の同盟ストライキだとすれば、 89年の富川4.15闘争は地域の全面ストライキとしては最大の規模の闘争なんです。 45の事業場から4000人の組合員が参加したから。 韓国労総の事業場も一緒にしたストライキ闘争だったよ」。 4月9日、賃上げ共同闘争本部長の韓国新光電子のハン・ギョンソク委員長と状況室長が拘束されると地域全面ストライキを前倒しして街頭闘争を行った。 その後にテフンロック、ウイル、ヨンプン金属などで公権力投入を防いで新規労組ができ、 賃上げも実現した。 その力で富川地域労働組合協議会(富労協)ができて、民主労総の基盤になった。

われわれは全面ストライキ闘争の時、労働者たちが集まった春衣交差点に向かった。 富川非正規労働センターのイ・ジョンミョン所長が当時の雰囲気と通りを案内した。

「富川ICの側にある工団でストライキをして、出てくる隊伍が道にずっと並び、数が増えます。 そして富川駅南側の工団の人たちが富川駅で合流して上がってきて、ここで戦いました。 春衣交差点から富川駅に行くために投石戦が起きて、火炎瓶も運んだりしました。 一度は春衣交差点派出所にいた警察が銃を撃ちました。 私たちが戦闘警察を突破して交差点を越えたのでびっくり驚天して、空に銃を撃ったのです。」

今、その派出所は空の建物として残っていた。 イ所長は当時工場に入ったが労組は作れず、街頭闘争だけに参加したといった。 「労組がない所で働いていたから毎日非難されて暮らしていたが、 集会現場に出てくれば楽しくなります。 労働者たちが力をあわせて、警察も押しのけて。一言で解放区でしたよ」。 その時、彼は胸が熱くなった。 今考えればその通りが人権の場所ではないかと思う。 中小零細事業場が多かった富川地域で地域闘争が起きたこの通りは、 労組がなかった労働者たちにとっても小さな希望を開いてくれた。

流動性が高まった時代、労働者の権利は低くなった

しかし闘争の栄光は続かなかった。 89年以後の構造調整で倒産した工場も多く、ユソン企業のように忠清地域南に工場を移転した事業場も多くなり、製造業事業場はかなり減った。 今は学校非正規職労組をはじめとするサービス職種の労組が多い。 イ所長はアパート型工場に零細事業場がたくさんあるが、労組を作ってさらに難しくなったと言う。 「その時も今も、製造業事業場の労働者数の差異は大きくありません。 派遣も増えたし。 アパート型工場ができて簡単に移転します。 この前は韓国労総の労組ができたのに、その事業場が引っ越したので難しくなりました」。 零細化して流動性が高まった事業場で、労働者たちは自分の権利をつかむのがさらに難しくなった。 特に富川はソウルと仁川の中間で、労働者たちの生活の場所と職場が違うことが多い。 ソウルに出勤する労働者、ソウルから出勤する労働者、仁川へと出勤する住民、ソウルに出勤する住民。 ソウルの膨張は富川地域の場所性をさらに乱す一助になった。

しかし86年の人権の場所が、時には刑務所であり、時には通りだったように、 流動性が人権の場所をまったく遮るのではない。 ちょうどイ所長が教育公務職(学校非正規職)労働者の闘争の便りを伝えてくれる。 流動する時代、私たちの解放区はどこなのか、また錐のように穴を開けて出るだろう。[ワーカーズ40号]

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2018-04-26 09:21:31 / Last modified on 2018-04-26 09:21:33 Copyright: Default

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