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強制鎮圧で染まったユソン企業90年、2011年春

[ユソン企業老いた労働者の歌](1) 「87年、そしてわれわれはまた立ち上がった」

特別取材チーム 2011.06.29 17:01

「下っ端の工員として暮らしていた。87年労働者大闘争が起きて私たちも立ち 上がった」。

2011年、ユソン企業の労働者たちがまた立ち上がった。賃上げと福祉改善のた めに、87年の労働者大闘争の大波に身を預けた労働者たちは、今、40代〜50代 後半の『老いた労働者』になった。彼らはまた夜間労働をなくし、労働時間を 減らし、労働者の健康権を守ろうとして『昼間連続2交代および月給制』の戦い に出た。

二回の警察兵力投入と全組合員連行。労働者の口から、ユソン企業の労使関係と 労組の歴史、老いた労働者のため息を聞いてみた。

地獄は87年以前と以後に分れた

70年代末、ユソン企業はソウル市梧柳洞で事業を拡張し、富川市松内洞に移転 した。今は牙山、嶺東、大邱、南東、蔚山の工場で働く労働者は750人余り、富川 工場には当時350人ほどが働いていた規模から倍に増え、子会社もいくつかある。

29年間、ユソン企業で働いたキム・ボンス(53歳)氏、23年間働いたオム・ビョ ンジュ(46歳)氏、29年間働いたイ・ジェユン(57歳)氏、みんな軍隊を除隊する とすぐ、富川のユソン企業に入社した。休み時間もなく、残業も言われるまま にしなければならなかったあの時。地獄のような人生は87年以前と以後に分れた。

▲29年ユソン企業で働いてきたキム・ボンス(右)氏と、23年間働いたオム・ビョンジュ(左)氏

「労働環境はとても劣悪でした。87年以前には、管理者と生産職が区分されて 暮らしていた。その時の管理者の権力は強大でした。残業、早退などは許可も されず、言われるままに働かなければならなかった。管理者は黄色、生産職は 灰色と、帽子の色も違いました。食堂も部長級以上は別に食べました。今は朝 8時30分に出勤するが、その時は午前5時に出勤しました。工程ごとに二交代の 所もあって... 賃金は少なかったんですよ。労組活動をして、賃金が上がった。 黒板に300ウォン、250ウォンと書けば、それで賃上げは終わりでした」。

当時、労組はあってもなくても、いや、ないほうがましだった。会社と労組の 癒着が極に達していた。労働者たちはこれを『御用』労組と呼んだ。『御用』 は、『自分の利益のために権力者や権力機関に迎合し、定見なく行動すること を見下げて言う言葉』だ。

「労組事務室がどこにあるのかもわからず。労組自体が会社と癒着していて... 労組選挙の時だけ、委員長になるため酒をちょっと買って、当選すればそれで 終わり。当時、パク○○委員長が何度か委員長をしました。賃上げも組合員は 無視して会社と労組幹部だけで合意して、一番低い金額にして」。

労働者にも太陽の光が当り始めたのは87年からだ。ユソン企業に、御用労組で はない『民主労組』を作る労働者の力は弱かったが、労働者たちは目覚め始め た。キム氏とオム氏はその時を回想しながら、勇気を出して一番前で民主労組 結成を率いた同僚を思い出した。

「87年の大闘争が起きて、キム・ドンアム(現在故人、84年ユソン企業に入社し、 ユソン企業民主化闘争と、現場性と闘争性に基盤する強力な労組建設を主導し てきた労働活動家)という人からいろいろ教えられた。労組とはこんなものだ、 労働者の権利はこうだと教えてくれた。キム・ドンアムは兵役特例で来た人で、 仕事は本当によくできたのでユソン企業にきました。前に大学生3人が労働運動 のために偽装就業して働いていたが、私たちもその人たちをよく知らず、アカ と排斥もするような状態でした」。

90年春と2011年春、二回の警察兵力投入

90年春、労働者たちが賃上げ闘争を始めると、警察兵力が投入された。山川は 変わる11年前も今も、労働(組合)運動に対する政府の弾圧方式は変わらない。 政府は当時、ストライキ10日後に警察を投入し、強制鎮圧した。2011年の春、 労働者が合法的に昼間組2時間部分ストしかしなかったのに、会社は不法議論の ある職場閉鎖をして、政府はやはりストライキ7日後に強制鎮圧した。その時も 今も、合法ストライキだった。

青みがかった春の日は、午前5時、あたりが明るくなる頃に警察が強制鎮圧を始 めると、そのように赤い光に変わっていった。

▲2011年5月、政府は警察を投入して労働者の合法ストライキを強制鎮圧した。

「当時、賃上げを要求しました。正確には思い出せないが、2千ウォンほどの賃 上げを要求だったが、その時の私たちのスローガンは『賃上げ一銭もまけられない』 というものでした。工場を占拠して、そこで食べ物を作って食べ、ストライキを しました。断電・断水で、工場内の生活は大変でした。とても暴圧的に警察が 投入されました。催涙弾もたくさん撃って、窓を破って、はしごに乗って降りて きて。頭をやられないようにしていました」。

全組合員が警察に引き出される間、当時の労組執行部は会社と職権調印して 『逃亡』した。組合員たちは、警察署から解放されると同時に市民グラウンド に集まり、すぐ非常対策委を構成して翌日会社に入った。労組の事務室はめちゃ くちゃになっていたし、組合員たちは会社の講堂に集まり、非常対策委を中心 に次の闘争計画を立てた。御用そのものの労組執行部の代わりに、自発的な力 を集めて行ったのだ。

「職権調印した執行部が逃げた後、3人が会社に帰ってきました。何が偉くて腹 を切れというのかという調子でした。労働者の欲求が充たされないのに、労組 の幹部が会社と組んで職権調印したので反発はかなりのものでした。警察投入 の前日の夜、私が当時の部処代表と労組幹部と会ったのですが、幹部は警察の 投入はないから心配するなと言いながら、翌日の明け方に警察が投入されると みんな出ていってしまいました」。

労働者たちは屈服しなかった。ストライキ、拘束者面会闘争、会社謝罪要求な ど、現場で闘争を続けた。闘争が続いたため、会社の工場長が部署別に歩きま わって、警察投入と現事態について、組合員にいちいち謝罪して回った。

「警察兵力が投入されましたが、会社としてもたいした収穫はありませんでし た。現場での後遺症が長引きました。労働者が感じている会社への背信は相当 でした。現場がとても混乱し、労働者たちはさらに民主労組の必要性を感じま した。その時から労働者は労組を信じるようになり、労組に力を貸さなければ ならないという方向に傾き始めました。当時、われわれは民主労組に団結し、 新しい労組幹部を選びました」。

1990年当時、政府は、87年労働者大闘争以後、夏の豪雨のように激しく降り注 ぐ労働者の闘争を静めなければならず、労働(組合)運動弾圧の手本として、 ユソン企業に警察兵力を投入した。

「労働運動弾圧は『こうするものだ』というモデルケースとして、政府は ユソン企業に警察を投入しました。労働者の闘争を公権力で防ぐと政府が 発表してさほど経過せずに起きました」。

われわれは『連帯』で成長した

警察兵力投入後、労働者は社会科学を勉強し、社会の不条理を知り始め、全国 のあちこちを飛び回って連帯した。民主労総の前身である全労協傘下富川労働 組合協議会を中心として、事業場の闘争を越え、地域の闘争を作っていった。 当時、ユソン企業、テフン機械、東洋エレベーター、キョンウォン精機は共同 闘争をした。

93年9月にあったユソン企業労組の役員選挙は、民主労組が現場を掌握した決定 的な選挙だった。当時の選挙は3巴戦で行われ、70%以上の賛成で当選したイ・ ジェユン委員長(現ユソン企業支会非対委員、ハンスト中)は、韓国労総脱退と 全労協加入を公約に掲げた。

「賃金が上がり、勤労条件が改善され、現場労働者の声がたくさん上がり始め ました。毎年毎年闘争しました。地域で4つの会社の労組が主導的に単一要求案 を作り、毎日地域、全国へと連帯闘争に通いました。慶煕大学校クラウン館で 開かれた全労協定期大会(94年1月)では、ユソン企業労組が功労杯も受けたりも しました」。

「93年になると、急速に現場で活動家が生まれた。今、長い間労組活動をして いる人たちは、みんなそんな人々だ。政府と会社に対する怒りで労働者たちは 自然に民主労組の必要性を自覚していった」。

「当時、労組の委員長だったイ・ジェユン氏は、韓国通信ストライキで95年に 拘束されたが、労組の委員長で、民主労総建設準備委員会富川始興代表だった。 地域共同闘争委員会の議長でした。その年に地域闘争に火がつき、毎日戦いま した。テフン機械ストライキに連帯しましたが、テフン機械労組指導部の3人が 拘束されました」。

▲労働者たちは警察兵力の強制鎮圧に闘争で対抗した。

95年の韓国通信警察兵力投入の時も、ユソン企業労組は地域で街頭闘争をした。 96年の労働法改悪に反対し、民主労総がゼネストを行い、26日のゼネストと2日 の部分ストで闘争隊列の一番前に立った。

「96年の労改闘ストライキの時は、毎日明洞、鍾路一帯で石や火炎瓶を投げて、 催涙弾を受けながら政府と戦いました。定年前の先輩がどんどん集会に通いま した」。

「イ・ジェユン氏がユソン企業労組委員長だった96〜98年、金属連盟(産別労組 の全国金属労組の前身)副委員長を一緒にしました。94年以後を振り返ると、 2000年に牙山にくるまでがユソン企業民主労組運動の絶頂期だったようです。 当時、全国と地域の連帯闘争を経験してその重要性を知っているので、攻勢的 な連帯闘争の中でわれわれは成長してきました。この動力で忠南、牙山地域に きても一生懸命、連帯闘争をしました」。

「98年のIMF経済危機の時、22日ほど全面ストライキをしました。当時、会社は 団体協約を全面改悪しようとしました。賃金は凍結し、団体交渉を1年から2年 に一回ずつ結ぶことに変えました。二つ程度出してくれたのですが、国家の休 日がなくなり、ハングルの日と国軍の日に休めなくなりました」。(記事提携= メディア忠清)

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2011-06-30 09:36:23 / Last modified on 2011-06-30 09:36:26 Copyright: Default

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