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学者が見る竜山鎮圧は適法だったか

[人権オルム]竜山国民法廷準備委員イ・ホジュン教授と会う

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ユンミ/ 2009年10月08日13時40分

9か月経っても龍山惨事の責任者はいない。六人も死んだというのに。その現場 には撤去民がいたし、また強制鎮圧した警察官もいた。単に撤去民と警察だけ ではない。この事件が起きるまで手をこまねき、その後も一言の謝罪もない公 職者と大統領がいる。だが検察は撤去民だけを起訴した。司法制度の判断は、 無条件に信じて従わなければならない正しいことなのであろうか?

10月18日。竜山国民法廷が開かれる。「国民」法廷だ。国民が起訴し、本当の 責任が誰にあるかを直接問うということだ。権力があるという理由で、巧妙に 審判から逃げている人々と人権の基準で戦おうという趣旨だ。特に龍山惨事の 真の背後である再開発問題が法廷で扱われる。再開発に関する住居権の問題は、 これまで法院では扱われなかった領域だ。だが国民の基準で、人権の基準で、 その犯罪性を暴くことが今回の法廷の趣旨だ。竜山国民法廷の準備委員の西江 大法学科イ・ホジュン教授と会い、竜山国民法廷について詳しい話を聞いた。

竜山国民法廷に参加した経緯は

刑事法を専攻して、国家公権力の乱用に関心を持って指摘する活動はしてきま した。またカトリック人権委員会と共にさまざまな事件も担当しましたし。事 実、学校の学者の立場では、個別の事件について直接是非を分けることに関与 するのは一般的な現象ではありません。学者の立場ではある事件の理論的、法 律的な長所があれば、それを論文に書いたり発表する方式で助けを与えようと するんです。

ところが竜山事件の場合は、本当にとてもあきれかえる事件でした。国家の公 権力が必要なら鎮圧もできますが、守るべき原則と適法上の限界があります。 それらは完全に無視されて鎮圧が行われ、その過程で6人が犠牲になったのでは ないですか。こうした事件に対して事実警察が何の責任も全く負わないという のは、誰が見ても納得するのは難しいでしょう。私たちのような人は学者とし て、果たして鎮圧が適法だったかを理論的に問うことはできるでしょうが、そ んなことだけを問い詰めても国民に警戒心を与え、公権力の乱用問題を批判的 に問題提起するのは限界がありますから、もっとこの事件の実体を正確に明ら かにして、どう見るべきか、何か私たちの主張をする必要があると思うように なりましたよ。

さらにもう一歩、事実こうした問題が発生する根源的な背景は、再開発事業で す。再開発事業が韓国社会でどんな方法で庶民の生存権を威しているかについ ても示す必要がある。再開発事業と庶民の生存権剥奪問題が解決しなければ、 第2、第3の竜山事件が起きかねないので、今回の事件を契機に惨事に直接の原 因を提供した警察の公権力乱用と背後にある再開発政策が持つ人権侵害の側面 を表わすことで、この事件の実体を人権法的な見地からまた見てみようとします。

今回の国民法廷が既存の刑事訴訟とどんな差異があるのですか

基本的には刑事訴訟の枠組みに従います。観点により、この事件をどう認識す るかで対立しますから、私たちが考える主張を一方的に言うのなら、あえて国 民法廷の必要はないでしょう。現在司法当局が免罪符を与えている警察、検察 の行為、再開発に責任のある政治家を法廷に立たせ、どんな誤りがあるかを人 権法の見地から評価しようとすれば十分に他の反発の論理が出てくるでしょう。 私たちの見解と論理も示しますが、その過程で反対見解や論理も出るようにし よう、それで一度戦ってみよう、そしてどんな論理が国民にもっと説得力を持 てるか、審判を受けてみようとするので、審判台に立たせる人々の法治主義的 な権利、刑事訴訟手続きも最大限尊重する方向で進めます。もちろん完ぺきに 同じにはできないでしょう。国民法廷とは、現実の本物の法廷ではないので、 やむを得ず同じにはできない部分があります。私たちは被告人に召喚状を送り ますが、出てきてくれれば一番良いのですが出てこない可能性が高いと見なけ ればならないでしょう。その時は、向こう側を代弁する弁護人をたてるしかな いでしょう。

陪審員の選定手続きも実際の法廷とは同じようにできません。もちろんわれわ れは公正に陪審員を選定します。大学での模擬裁判のように、シナリオを持っ てするのではなく、われわれは自分たちの見解を示し、反対側は反対の見解を 示し、一般市民がどう判断するかを審判しようということですから、公正に陪 審員が選ばれなければなりません。それは十分に守るでしょう。

2003年、盧武鉉政権の時、戦犯裁判をしたことがあります。その脈絡で今回の竜山国民法廷はどんな意味があるでしょうか

基本的な趣旨はほぼ同じです。韓国社会は司法制度をちゃんと持っているでしょ う。司法制度の枠組みの中で解決できることもあり、そうではないこともある けれど。事実、既存の司法制度は支配権力を持つ人にとても有利な面がありま す。ですから犯罪者に司法制度が免罪符を与えることになります。そうなると、 その次元を越えて、ある事件が持つ社会的な実体を歪めさせるという問題があ ります。国民法廷はこれに対する対抗談論を作ろうということです。

戦争犯罪は、事実処罰されません。戦争犯罪は負けなければ処罰されないでしょ う。最も反人権的で極悪な犯罪と言えることの一つが戦争ですが、世界のどの 国も戦争犯罪をきちんと処罰しません。しかし憲法の平和主義精神に立脚して 見ると、戦争が持つ犯罪的な性格は路上で起きる犯罪よりさらに深刻な場合が ありますね。そんなことの実体を司法制度では扱うことができませんが、国民 の見地から実体を見直し、これがなぜ犯罪と規定されなければならないのか、 われわれの司法制度は戦争に派兵をすることを犯罪とは規定していませんが、 人権法の視点から見れば違うかもしれません。今回の竜山国民法廷も、対抗で 国民法廷というものを作り、事件を私たちの見点から再照明するという意味が あります。

社会権の領域である再開発や住居権の問題は、現行の司法制度の枠組み内で処罰するのは難しいです。竜山国民法廷でいかに解いていくのでしょうか

事実、犯罪といえば難しいです。特に再開発問題は。警察の公権力執行が違法 だったということは、現行の法体系の下で犯罪として扱うにはあまり問題はあ りませんが、再開発の問題は定められた手続きにより実施するので、それ自体 が犯罪として現行法で処罰されるのではありません。

それでも処罰されませんが、われわれはそれを犯罪と考えています。関連して 『強制退去罪』という名前を付けましたが。現在、国際人権基準、条約、社会 権規約を見ると、再開発の過程で守るべき手続きや補償の原理がすべて規定さ れています。そういったことがちゃんと守られていない状態で我が国では再開 発が行われているというです。形式的には適法性を備えていても、私たちがそ の内容を見た時、それが結局憲法の理念、人権の理念、国際条約の原則に違反 した状態で行われれば、それが実際に持つ犯罪的な性格について話さないわけ にはいかないんです。法律に『強制退去罪』がなくても、私たちが任意に作っ たものではなく、すべて人権法や国際条約を根拠に、これには犯罪性があると 見ます。

このように、司法体系の限界が多くても、また法を言う理由は何でしょうか。法廷という枠組みを借りて龍山惨事を扱う理由をお話しください。人権活動家の悩みは「法廷という空間で法の論理に閉じ込められず、人権の論理で侵害の内容を構成して違反事項を整理すること」と言っています。

今、現行法の枠組みで犯罪かどうかを扱うのではありません。人権法的な原則 が現行法に反映されているものもあり、されていないものもあるのではないで しょうか? 例えば警察が強制鎮圧でどんな安全規則遵守を守るべきか、どんな 原理が適用されるべきかは、すでにある程度人権法的な基準が入っています。 もちろん韓国の裁判所はそうした基準をきちんと適用していません。警察比例 の原則もありますね。警察権とは実際の鎮圧過程で多くの人々が死ぬかもしれ なければ、事実、強制鎮圧は最後の選択でなければならないという法の原理が すでに形成されています。ところが韓国の裁判所はそうした原理をきちんと適 用してきませんでした。警察権の行使に対する規制原理としての人権法の見点 が部分的には反映されていますが、完全には反映されていない状況で、警察権 発動の適法性について私たちが人権法の見地から判断しようということです。 違法なら処罰できますし、処罰すべきだと主張できます。現行法で処罰される かどうかが重要ではなく、どんな行為が処罰に値するような反人権的な行為な のかを私たちが判断しようということです。部分的に現行法の論理を無視する わけではありませんが、現行法を越える人権の見点から見て、これが反人権的 な犯罪行為だと私たちが規定し、さらに法制度を変えようと主張できます。

一般人が陪審員として参加しますが、法廷は簡単に近付けるのでしょうか。考慮した計画がありますか

事実その部分がとても難しい部分なんです。専門家ではない人々、特に一般の 国民が起訴人として参加し、陪審員として参加する国民法廷では、あまりに法 的な論理と法的な言語で接近すると専門家の論争の場に変質する恐れがありま す。それは最大限しません。法的な用語が出てこないわけではありませんが、 出てきてもやさしい言語で説明し、表現もします。

まだ我が国で法廷は一般市民の立場としてはなじみがうすい空間でしょう。一 生に一度も法廷に行かない人のほうがはるかに多いでしょうし。法廷が厳粛で ちょっと怖くて。審判することに対しての人々は、『私がそんなことをしても いいのか、果たして私たちが』、こんな悩みもあるようです。

法があまりに市民から乖離してきたことで現れた現象だと言えるでしょう。そ れが韓国の司法制度が持つとても大きな問題の一つで、国民参加裁判が導入さ れて、少しずつ変わっています。事実、国民参加裁判に国民が陪審員として参 加してはいますが、気兼ねしています、法に対して。検事や弁護士がやさしく 説明しようと努力しても、法の論理が難しくてよく理解できません。それでも 陪審裁判が意味を持って、陪審裁判の決定が正当性を持つ理由は何でしょうか? 結局この人が犯罪者だ、そうではないということを国民に説得できる時、正当 性を持てます。常識的に見ようということです、われわれは。詳細な法原理は 知らなくても、詳細な法原理に対する究極的な判断は事実『常識』です。常識 的に判断して考えて、あの人に犯罪の責任を負わせるのが正しいのかというこ とは大衆が判断できます。『司法主権』とはそういうことでしょう。国民の判 断が反映されるべきです。そのような面で国民が参加する法廷というコンセプ トは、まだなじみませんが、長期的に見れば、国民は誰でもこの事件をどんな 見地から見て誰が責任を負すべきかについて国民の多数を説得でき、大きな正 当性が得られる時、法的な正当性を持つというのが韓国社会に定着しなければ なりません。

事実、起訴の募集過程でも多くの市民が「何をしようというのですか、本当に 処罰するのですか、本当に処罰するのでなければ何故するのですか」という人 もいます。私たちが事件の実体をどう見て、その事件の本当に犯罪者は誰か、 またそれを表わす作業、談論闘争の作業だと見れば良いのです。談論闘争の作 業を法廷というコンセプトを通じてするということは、既存の法談論と直接対 抗してするということです。司法制度の枠組みの中に入って談論闘争をする時 は、司法制度自体が人権法の論理が反映されていなければ話ができません。司 法制度自体が反人権的なのに、その中で談論闘争をすることができるでしょう。 ですから司法制度の枠組みで見ても、司法制度から出ようということです。そ れでこそ法的な談論で話ができるでしょう。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2009-10-13 03:54:11 / Last modified on 2009-10-13 03:54:12 Copyright: Default

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