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済州4.3抗争と大邱10月抗争、地域的抵抗の再構成

[記者コラム]虐殺を越えた抵抗の記憶、歴史は流れなければならない

チョン・ヨンギル記者 2013.04.04 10:49

歴史は記憶だ。また、忘れられない記憶は歴史になる。済州4.3事件が65周年 をむかえた。映画〈チスル〉の興行とともに国家暴力による虐殺の記憶は 「美しい島」済州の痛みを思い出させる。「歴史家とは、同時代の人々が 忘れたがることを専門的に記憶する人」というエリック・ホブズボームの言葉を 借りれば、1948年4月の済州を忘れず記憶する人々すべてが歴史家だ。

▲映画〈チスル〉の一場面[出処:〈チスル〉]

セヌリ党も「済州4.3事件65周期を追慕しながら」という論評を発表して 「済州の痛みを抱き、4.3事件の犠牲者と遺族の名誉を回復することにさらに 大きな関心と努力を傾ける。さらにセヌリ党は和解と共生の時代、国民大統合の 時代を開くことにさらに努力することを約束する」と明らかにした。

セヌリ党は済州4.3事件と呼ぶが、他の公党の統合進歩党と進歩正義党は 「済州4.3抗争」と呼ぶ。歴史が簡単に定義されない「記憶闘争」の空間で あることを見せる部分だ。80年の光州は光州暴動から光州民主化運動、光州民衆 抗争へと記憶闘争が展開した。だから済州4.3抗争の記憶闘争は現在進行形だ。

解放以後の歴史を調べれば、権力に抵抗する抗争はたいていソウル首都圏では ないところで起きた。済州4.3がそうだったし、大邱10月抗争、釜馬抗争、 5月光州がそうだった。しかしこれらの抗争は敗北と痛みとして残っている。

独立的住民共同体建設のための抗争と虐殺惨劇の記憶

済州4.3事件は、当時の済州道民30万人のうち3万人が命を失った悲劇的な 事件だ。2003年に済州4.3事件真相究明および名誉回復委員会が〈済州 4.3事件真相調査報告書〉を採択して、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が国家 権力による大規模な犠牲だったと済州道民に公式に謝罪するまで、済州の人に とって4.3事件は思い出すことさえ恐ろしい過去だった。李承晩政権により 「共産党清算」の旗の下で行われた虐殺であることに加え、南北分断という 政治状況が全て消えていないからだ。

国家権力による虐殺事件なら、被害者の治癒が優先されるのはもちろんだ。 21世紀になっても続く分断状況で、民間人虐殺への憐憫と受難の歴史として止 めることがその終着点ではないだろう。住民の自発的な共同体建設のための 抗争と抵抗の記憶を忘却のかなたから救い出さなければならないためだ。

▲2013年4月2日夜、済州市庁の前では済州4.3抗争を賛える追慕前夜祭が開かれた。

済州4.3研究所は、済州4.3事件を「1947年3月1日の警察の発砲事件を 基点として、警察・西北青年団の弾圧に対する抵抗と単独選挙・単独政府反対 を旗じるしとして、1948年4月3日、南労働党済州道党の武装隊が武装蜂起して から、1954年9月21日に漢拏山クムチョク地域が全面開放されるまで、済州道で 発生した武装隊と討伐隊間の武力衝突と討伐隊の鎮圧の過程で、多くの住民が 犠牲になった事件」と定義している。

47年3月1日、警察はデモ群衆に発砲して6人が死亡し、8人が重傷を負う。以後、 警察の発砲に抗議して、官公庁と民間企業などの労働者95%以上が参加した 3.10全面ストライキが行われる。米軍政は事後処理の過程で、警察の発砲 よりも南労働党の扇動に重きをおいて強攻政策を進める。4.3が勃発するま での1年間、米軍政は2500人を拘禁してテロと拷問が続く。こうした状況で済州 は抑圧と統制の空間に変わる。

また、48年4月3日の南労働党の蜂起が、共産主義的な理念を実現する積極的な 蜂起だったのかは、さらなる確認が必要だ。済州4.3を南労働党の4.3 蜂起の勃発と見るのは誤りで、「共産党粛清」という言葉に免罪符を与えるも のだ。済州4.3研究所が明らかにするように、済州4.3の展開は47年3月 1日の警察発砲が始まりだ。それでも政府の報告書は3月1日の銃器発砲を 4.3武装蜂起の導火線だと記述し、南労働党の武装蜂起を虐殺事件の始まりと 認識させるイデオロギー的な評価が介入している。

これまで保守政治勢力は、済州4.3を北朝鮮の指令を受けた共産主義者による 暴動と烙印してきた。これは、分断状況での強硬鎮圧と虐殺を正当化する根拠に 利用された。それと共に、民間人を虐殺した加害者は「暴徒」や「韓民党政権」 だが、原因提供者は「共産党」だというような主張をする。これは済州道民に レッドコンプレックスと自責感、敗北主義を抱かせた。

長い間強要された沈黙のためだったが、映画〈チスル〉の限界のように、今日 4.3は「抗争」というより国家暴力による「良民虐殺」にとどまっている。 良民虐殺までは国家が認めたためだ。南北単独政府樹立と米軍政に対する抗争 の記憶はどこに探せるだろうか。

5.18光州抗争と大邱10月抗争

[出処:キム・イルス、2004、「大邱と10月抗争- 10.1事件を見る目、暴動から抗争へ」より]

80年5月、光州でまた国家暴力が行われる。以後、5月の光州では多くの人々が 絶えず記憶との闘争を行なってきた。そして彼らは5月の光州の記憶として87年 6月抗争まで引き出した。現在も5.18光州抗争は民主主義と国家権力に対抗した 抗争として記憶の歴史とされている。これは済州4.3抗争の記憶で凝視すべ き部分だ。

大邱10月抗争もまた、済州4.3抗争と似た記憶をしている。「レッドコンプ レックス」と守旧勢力に強要された「忘却」の政治がそれだ。

済州は、歴代の大統領選挙で、保守的な反共体制の下で有力な候補に投票する 指向が続いた。この保守反共勢力は、特定の選挙では全国得票より多い得票を 済州で受けた。李承晩と朴正煕(パク・チョンヒ)が当選した大統領選挙では、 全国の平均得票率より済州の得票率が高かった点からもわかる。

こうした結果は、今日の大邱でも示唆するところが大きい。1946年8月の専売庁 労働者のストライキ、ゼネラルストライキに続いて起きた大規模な群集デモの 10月抗争を記憶する大邱慶北の人々は多くない。これも10月暴動、大邱暴動と 記憶されてきたためだ。その程度の被害なら、済州4.3とは比べものになら ないが、抑圧の過程は似ている。10月抗争について政府は長い間、米軍政府と 警察への反感、軍政内親日派の存在などにより勃発したが、過激な闘争路線を 選んだ朝鮮共産党の扇動だとされた。国家権力による管制記憶の捕縛は、その 後の人民革命党事件と南朝鮮解放戦略党事件にまで続き、大邱の「保守の牙城」 を強固にした。

「記憶」の戦い、地域自治の必要性

5.18光州抗争の至難な記憶闘争は、光州を「民主化の聖地」と認識させる までにした。もちろん、5.18光州抗争を止まった歴史として剥製にしたためか 内部の利権争いまで行われているが。水は流れてこそ腐らないように、歴史に 対する記憶も現在と共に流れてこそ、その意味が変わらない。

▲2013年4月3日済州、江汀海軍基地工事現場の姿

済州4.3抗争も、忘却された記憶との戦いを続けている。済州江汀海軍基地 建設をめぐる住民の抵抗は、済州が「レッドコンプレックス」を突破する過程 であることをよく見せる。

半分の勝利と言われる4.19革命と87年の6月抗争は、中心部権力との直接の戦い として行われ、李承晩を退陣させて直接選挙制を施行させた。だが中央政府の 周辺地域での抵抗は、敗北と痛みとして記憶された。戦利品の一部を得る戦い が、中央政府があるところだけで行われたのは、地域自治が不在の状況も一役 買っている。また、光州が(今は停滞した状況とはいえ)記憶闘争があったので 抗争の記憶が現在の人にも残されれた。保守の中心であるTK地域が、また解放 と抵抗の空間となるためには、歴史の記憶についての自治と地域を中心とする 抵抗の再構成が必須だ。(記事提携=ニュースミン)

※参考文献
済州4.3事件真相究明および犠牲者名誉回復委員会、2003、『済州4.3事件真相調査報告書』
キム・ヨンス、2008、『過去の歴史清算、『民主化』を越えて『社会化』ロ』、図書出版メーデー
キム・イルス、2004、「大邱と10月抗争 - 10.1事件を見る目、暴動から抗争で」
イ・ソンウ、2011、「国家暴力に対する記憶闘争:5.18と4.3比較研究」
チョン・ヘグ、2011、「解放空間での10月抗争:その意味と評価」
ホ・サンス、2005「済州4.3事件の真相と政府報告書の成果と限界」

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2013-04-05 07:06:59 / Last modified on 2013-04-05 07:08:00 Copyright: Default

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