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LNJ Logo 〔週刊 本の発見〕『憲法を武器として−恵庭事件 知られざる50年目の真実』
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毎木曜掲載・第388回(2025/5/15)

酪農家・野崎兄弟の「生きるための闘争」

『憲法を武器として−恵庭事件 知られざる50年目の真実』(稲塚秀孝 著、タキオンジャパン、2017年)評者:那須研一

 1962年12月、北海道千歳郡恵庭(えにわ)町(現恵庭市)の陸上自衛隊島松演習場で155ミリカノン砲を使った実弾射撃訓練が実施されるさなか、近くの牧場で酪農を営む野崎健美・美晴(たてよし・よしはる)兄弟(当時ともに20代半ば)は、発射点と着弾地を結ぶ通信線をペンチで切断した。 

「私はどうして被告という名でここに立たされなければならないのでしょう。自衛隊は演習で私たちの生活がどんなに困ろうと、私や父が難聴になろうと、母が病気になろうと、牛が死のうと、酪農経営が困難になろうと、近くで大砲を打たないと約束しようと、私たちの抗議を受けようと、すぐそばでどんどん大砲を撃ち続けたではありませんか。私は通信線を切りました。あたりまえじゃありませんか…私は自衛隊の演習とこの起訴によって、2つのものを失いました…母が死んだこと…私たちの生活に大きな支障をきたしていること…失われたものは永久に返ってきません」(1967年、札幌地裁での公判・美晴さんの最終弁論)

 自衛隊による砲撃訓練から牛と我が身を守るべく電話線を切らざるをえなかった兄弟にとって、軍事演習による爆音被害は昨日今日のことではなかった。戦後まもなく帝国陸軍の同演習場を接収した米軍は1955年から2年間にわたり毎日、兄弟の牧場の間近で1000〜1500機のジェット機による爆撃訓練を実施。牛の狂奔と死、早流産、受胎率の低下など、甚大な被害を受けた。

 野崎一家は、演習場での座り込みや街頭での署名活動で抗議。世論を動かして米軍の訓練を中止させ、補償を勝ち取ったが、騒音と過労のため両親とも病臥と避難を余儀なくされ、年若い兄弟が牧場経営を担うことになる。1958年、今度は自衛隊が演習を開始。ジェット機による爆音被害に加え、戦車の走行が牧場の清流を泥水にしてしまう。

 2人の必死の訴えにより飛行訓練は中止させたものの、代わって大口径砲撃訓練が激増。酪農は壊滅的打撃を受ける。何度陳情と抗議を繰り返しても、自衛隊は実弾演習をやめない。電話線切断のやむなきに至った兄弟を、自衛隊北部方面総監は告訴。(写真=映画『憲法を武器として』より)

 警察は捜査当初、器物損壊罪で取り調べを進めていたが、翌年3月、検察は、器物損壊より長い懲役を科すことになる自衛隊法違反で起訴。自衛隊法による処罰を実現することにより、自衛隊の合憲性を確定しようとする国家意思であった。

 しかし、真の加害者は自衛隊である。野崎兄弟の生活権と財産権を一方的に侵害・破壊しながら何の補償もしない自衛隊と政府。演習の根拠である自衛隊法は憲法9条に違反するのだから「切断は自衛隊法違反」とする論拠は無効、と主張する兄弟。北国の公判は全国の注目の的となり、2人の裁判闘争の支援に多数の労働者・学生・市民が結集。無報酬で集まった300名を超える弁護団が形成された。

 真正面から自衛隊の違憲性を問う恵庭裁判の中で「三矢(みつや)研究」=「有事」における陸海空3自衛隊と米軍の共同作戦シュミレーションの内実も開示された。1960年代にすでに、日米共犯の軍事行動が画策されていたのである。

 恵庭裁判は大方の予想を超えた展開を見せる。本書と同名の映画でも、闘いの軌跡と公判の結末を知ることができる。憲法9条と自衛隊。住民を度外視した演習場や基地の建設と訓練。日米「安保」=日米一体の侵略戦争策動。そして、平和と人権を守る労働者民衆の闘い。極めて今日的な問題の凝縮したブックレットである。

(健美さんは後年、自分の闘いの原点と支えになったのは、憲法第十二条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」であった、と述べている)

*筆者紹介 那須研一さんは学童支援員。反戦運動のアクティビストでもある。今回から〔週刊 本の発見〕チームに加わりました。


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