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「クソ社会」を脱するために〜宮台真司・藤井聡『神なき時代の日本蘇生プラン』を読む

土田修(ジャーナリスト)
 今月初め、東京都豊島区のシネマハウス大塚で足立正生監督映画の特別企画があり、安倍銃撃事件の山上徹也被告をモチーフにした映画「REVOLUTION+1」の上映後に、足立監督と社会学者の宮台真司氏のトークイベントがあった。そこで聞いた宮台氏の「若者論」と「クソ社会論」に心が動かされ、この本を読むことにした。宮台氏はトークイベントで「損得勘定に閉ざされた会話に終始し、大きな声で語られた方に罰せられたくないから従う」だけの空疎な学生の在り方を、「そこらじゅうに分散している凡庸な実存」と評したが、そのあたりをもっと詳しく知りたくなったからだ。

▪️「クソ社会」と「クズ人間」

 この本の副題には「『クズになってしまわない』ための処方箋」とある。「損得マシーンと自己保身に走る下劣な日本人が、さらに下劣化している」という宮台氏の指摘にはうなづくしかないが、氏は「クズ」を「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシーン」と定義する。そのクズが作りだしたのが、「クソ社会」だ。同書の共著者である藤井氏には申し訳ないが、ここでは宮台氏の言説のみを追ってみたい。

 宮台氏は同書の中で「クソ社会」についてこう語る。「経済指標で見ると日本がめちゃくちゃなのは、『沈みかけた船での座席争い』しかないからです。だからこそ、日本だけが産業構造改革ができず、最低賃金は高い国の半分だし、平均値賃金も2015年に韓国に抜かれ、2018年には一人当たりGDPもう韓国に抜かれました。今は最低賃金が抜かれつつあります」。とはいえ、それは日本政府の経済政策の失敗という次元の問題ではなく、政官民を問わず、左派・右派の違いにも関係ない「日本人の劣等生」に由来するという。では「日本人の劣等生」とはなんだろう?

 宮台氏は「日本にはもともと『社会』という概念がなく、『世間』という概念があるだけだったと言う。それは柳田國男が『世間の話』で書いていることでもある。それを踏まえて「『社会』があるかどうかは、自分の所属集団(内集団)とは無関係な他人の所属集団(外集団)が多数あることを前提に、全ての集団の共通プラットフォームであるコモンズ(共有財)に関わろうとする意欲があるかどうかで決まる」と続ける。*写真右=宮台真司氏

 日本人の多くにはSNS上のつながりでしかない「知り合い」がいても「仲間」はいなくなった。以前、若者にとって「仲間以外はみな風景」だったのだが、「仲間」がいなくなったので、周囲の全てが「風景」になってしまった。「仲間」の感覚が消えたことで、「仲間」の感覚の想像的な延長上にあった「世間」が消えた。宮台氏はそうした状況を「パブリックな言葉がなくなった」とも表現する。

 そのコモンズが「パブリック」であり、コモンズへの関わりへの意欲が「パブリックマインド」だというのが宮台氏の主張だ。日本にそれがない理由として「暴君の圧政などによる『悲劇の共有』や、それを前提にした『市民革命の記憶』の述べ伝えがない」と指摘する。だがその日本でも明治維新や秩父困民党、新宿騒乱などが起きたこともあり、この主張には若干の異論がありそうだ。

▪️沈みかけた船での座席争い

 さらに宮台氏はこう続ける。「『社会=パブリック』がある西洋人は、『社会』への配慮によって自発的に自らの自由を制約します。『社会=パブリック』がない日本人は、『社会』のかわりに『世間=地縁共同体の想像的延長』への配慮によって自らの自由を制約します。そのとき日本人は、『お上』への恭順を『世間』が期待していると受け止め、それゆえ『お上』に恭順します。だから『お上』がクズだったら、日本は終わるのですす」

 政治もメディアも国民の多くも長く続いた安倍政権に飼い慣らされてしまったかのようだ。失敗続きのマイナカード導入、国際的孤立を深める入管法改悪、ネオコン主導のバイデン政権に媚を売る軍事費拡張…安倍政権より100倍悪質な岸田政権に対し、首相官邸前や国会前でせめて数十万人規模の抗議行動が起きないという摩訶不思議な現状を見る限り、宮台氏の言う通り日本は終わっているとしか言いようがない。

 同書の中で面白いと思ったのは、「コモンズ」を持ち出しながら、斎藤幸平氏のように、取ってつけたようなお為ごかしのお説教を垂れるのではなく、「沈みかけた船での座席争い」しかないクズ化する社会を脱する方法論として「コモンズ」を提起していることだ。その一つが、マルクスの言葉を借りて全人格的で、なおかつ人為的に作れる「新しいアソシエーション」や「協同組合」、地域から新たな価値感を模索する営みとしての「ミュニシパリズム」、「生き物としての場所(街)」で「仲間として存在することに意味がある」という感受性を生み出す「共同身体性」などへの言及となって表れている。

 「共同身体性」! この言葉に思わず反応してしまったのは、フランスの現象学者メルロ・ポンティが『知覚の現象学』の中で「私とは私の身体である」と書いていたのを思い出したからだ。メルロ・ポンティは身体を基軸に共同主観性へと向かったが、その身体とは「物としての存在」と「意識としての存在」を併せ持つ両犠的存在だったといえる。「共同主観性」を「社会」(または社会意識)に置き換えれば、宮台氏の「共同身体性」は「クソ社会」を脱し、本本来の社会を取り戻すキーワードになるのではないかと思う。宮台氏の論壇でのさらなる活躍に期待したい。

●筆者=土田修 ル・モンド・ディプロマティーク日本語版の会 理事兼編集委員/元東京新聞記者


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