本文の先頭へ
LNJ Logo 私はこうして活動家になった!〜韓国サンケン労組・キムウニョンさん
Home 検索
 




User Guest
ログイン
情報提供
News Item 0220kim
Status: published
View


私はこうして活動家になった!〜韓国サンケン労組・キムウニョンさん

 解雇撤回を求めて韓国サンケン労組が日本に遠征してきたのは昨年の10月。いま4か月が過ぎようとしている。連日の抗議・宣伝行動の先頭に立っているのが、剃髪姿のキムウニョン(金恩亨)さん(韓国サンケン労組解雇者復帰闘争委員会議長)だ。1月末、彼女に取材を申込み快く応じてもらった。2時間半に及ぶインタビューとなった。韓国サンケン争議についてはすでに様々な報道があるので、今回は彼女の生い立ちと活動家になるまでの道のりを中心に紹介する。【佐々木有美】

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 キムウニョンさんは、1970年10月1日、馬山に生まれた。現在46歳で夫も活動家だ。幼いころはちょっと変わった子だったという。男の子と遊ぶことが多く、その中でもガキ大将だった。父親は日雇いで貧しかった。彼女が4歳のとき、1歳の妹が亡くなった。病院に行くことはもちろん、薬を買うこともできなかったからだ。友達の家で時計がなくなったときには、貧しさゆえに彼女が盗んだといわれた。母親は否定したが信じてもらえず、結局近所の人の前でウニョンさんは母親から折檻された。あとになって、その家から時計が出てきた。彼女は、その家に行って、「わたしはいいけど母親にあやまって。母が傷ついたのだから」と訴えた。小学校に上がる少し前だった。

 小学校で弟が喧嘩をして弟だけが不当な罰を受けたときには、「貧しいからと差別するな」と校長に直談判し、担任に謝罪させた。幼い彼女の正義感はどこから出て来たのか。「多分妹が亡くなったのを目の当たりにして、貧しさがどれほど人を傷つけるのか、どれほど悲しいのかを感じたからだと思う。また、母親が自己主張をしない人なので、自分がしっかりしないと母や弟妹もちゃんと生きていけないと思った」。

 彼女の人生の転機になったのが、全斗煥軍事独裁政権を倒した1987年〜88年の韓国民主化闘争だった。当時、馬山商業女子高校の生徒だったウニョンさんは、高校の教師たちの影響で歴史や社会に目覚めていく。夏休みの宿題で光州事件(1980年の民衆蜂起弾圧事件)の本を読み、初めてこの事件を知って大きなショックを受ける。「光州民衆の闘いは民主主義とは何かを教えてくれた。食べ物を分かち合い一緒に闘い続ける姿、道庁の中で最期をとげた人たちのことを知って、このような人がいるからこそ韓国はりっぱで美しい国なのだと思った」。また、済州島の4・3事件(1948年の島民蜂起に対する弾圧事件)についても学び、「自分の人生がひっくりかえるような」体験をした。

 「今までは個人的にわたしが貧しく不幸と思っていたが、韓国全体、苦しい歴史があることを知った。歴史の中でどれほど多くの血が流れ、民主主義が作られてきたのか知ることになった」。高校3年のとき、教員組合(全教)所属の教員が解雇される事件がおきた。生徒も高校生の組織を作って反対闘争をした。しかし彼女は、最初の集会に父親の手術で参加できなかった。このとき、参加した生徒の多くが退学処分を受けた。不可抗力とはいえ、仲間を裏切ったような思いにかられた彼女は、一緒に最後までやり遂げなければ、大きな悔いを残すことを、このとき思い知らされた。

 高校時代には、サークルでも歴史や哲学を勉強した。マルクス・レーニン主義や世界の革命についても学んだ。どこでも語られていたのは労働者階級の偉大さだ。それに比べて韓国の労働者の現実は悲惨だった。革命小説も読んだ。ソ連の作家オストロフキーの『鋼鉄は如何に鍛えられたか』が、彼女の運命を決めた。「革命することはかっこいい」と感じ、革命に人生を捧げようと思った彼女は家を出た。サークルの先輩たちと共同生活をはじめ、工場に入ることになった。給料の半分は生活費、あとの半分は、地域の労働組合協議会に醵金した。こうした活動を端緒に、ウニョンさんは1990年、韓国サンケンに入社することになった。

 ウニョンさんの父親は、たのまれもしないのに、自分の車に「反共」のステッカーを貼るような人だった。だから彼女のこうした行動にずっと反対していた。高校時代には、家にある本を全部焼かれた。家出する直前まで、毎日のようにたたかれた。ある時には、靴を全部水に漬けて外出できないようにされた。家を出て、2〜3年たって、やっと父は和解の手をさしのべてきた。その後は、彼女が労働組合の委員長になっても何も文句を言わなかった。父は民主労働党の党員にもなり、いまは率先して運動している。ウニョンさんの生き方がお父さんに影響を与えたのだ。

 先輩たちとの共同生活はその後どうなったのか。民主化闘争のすぐあと、世界はソ連・東欧社会主義の崩壊(1989〜1990)に直面する。韓国でも、革命や労働運動に目標をもっていた人たちの多くが展望を失い運動から離れていった。先輩たちの中にもそうした人はいて、あるときには一人での生活を余儀なくされた。でも彼女は「ここから出て行こうという気はしなかった。ソ連や、社会主義圏が崩壊しても、わたしが去っていく理由にはならないと思った」。

 1990年に韓国サンケンに入社したウニョンさんはハンダ付の仕事につき、1995年に労組(当時は韓国労総)委員長になる。1995年12月には、韓国労総を脱退、1996年に民主労総に加入。その後何度かのリストラ反対闘争を闘った。その中で、彼女が一番つらかったのが、2010年〜2011年の闘いだった。20年ちかく一緒に闘った仲間たちがリストラで会社を辞めた。去っていく仲間からは「韓国サンケンにはもう展望がないから一緒に辞めて新しいことを始めよう」と涙ながらに誘われた。若い人たちと残って闘うか、それとも辞めるか、悩みに悩んだ。韓国サンケンは海辺にある。夜、工場の屋上から船の灯りを見ていたら、タイタニック号の映画を思いだした。「乗客を逃がして、最後は船と一緒に沈んでいく船長と船員の姿が浮かんだ。長年一緒にやってきた仲間は、出ていくかもしれない。けれど自分は船長の運命にあるのだから、最後までやるしかないと思った」。

 昨年末、サンケン労組は韓国の地方労働委員会で勝利した。しかし、まだ具体的な進展はない。闘いはまだまだ続く。最後に「あなたの好きなことばは?」と質問した。ウニョンさんは「ことばではなく好きな歌があります。それは『あなたは同志だ』という歌です」と歌ってくれた。その歌詞には「計算するのではなく、自分の道をゆく。最後まで仲間と歩んでいく」とあった。

〔補足〕インタビューは1月31日に行なった。なお今回のインタビュー記事の続編「若い人を育てることが運動」はこちらです。また2月22日のレイバーネットTVでも大いに語っています。レイバーネットTV114号


Created by staff01 and Staff. Last modified on 2017-02-25 03:59:01 Copyright: Default

このページの先頭に戻る

レイバーネット日本 / このサイトに関する連絡は <staff@labornetjp.org> 宛にお願いします。 サイトの記事利用について