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LNJ Logo 渡部通信〜江戸時代の朱子学批判と三浦梅園の『敢語』(その8、最終)
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(このメールはご迷惑を承知で多くの方々に発信します。
ご迷惑な方は止めますのでご連絡ください。)

今回は『敢語』紹介の最終回です。

「(7)人間諸関係における中国及び日本思想の簡潔な総括」

これまで紹介したことから明らかなように、梅園はこの書で、
単に<(1)「昔の王の道」の立場からの儒教批判>を展開しているだけではなく、
<(2)気一元論」の立場からの儒教(朱子学)批判>を展開しています。
しかも、それまで中国や日本でもあまり語られることのなかった
 <(3)大胆な孔子批判>
 <(4)女性の立場に対する理解と擁護>
 <(5)「利」の積極的評価>
 <(6)復讐についての柳子厚(柳宗元)の見解に対する高い評価>
などをも展開していました。

ところで、この『敢語』を読めば梅園がいかに
中国の制度や思想に通じていたかがわかります。
また、彼が若い時に書いた『夢記』を読めば、
日本の思想にもいかに通じていたかがわかります。
 
この『敢語』は、梅園の<条理学>が基本的に確立した頃に書かれたものです。
したがって、この『敢語』はその<条理学>を、
人間諸関係に適用したものであると言えます。
それゆえ、『敢語』は、それまでの中国、日本の人間諸関係に対する
思想(政治・道徳思想)を批判・総括したものともなっています。
 
梅園は主著『玄語』「例示」の中で次のように述べています。

「(古代の)聖人の天下を治めるは、能く衆情を抱容しつつ、
しかも模範(鋳型)にいれて陶治する」。
しかしその「先王の道が衰えると」、
いわゆる諸子百家、さらに仏老(仏教・道教)も出てきて
党派的論争が起きてきた。
だがそれは、「(周公が)天下を治めたやり方とは全然ちがうし、
天下化育の道とも異なる。」

そのうえで、具体的に何人かの「諸士」を取りあげ次のように批評しています。
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 老・墨・申・韓がつぎつぎに起こり、相い抗し相い攻め、議論を以って諸家に勝たんとするや、
 いきおい先王の道と異ならざるを得なくなった。
 孔子は乱世に彷徨(ほうこう)し、東周を(現実の政治に)再現しようと志して天下をめぐったが、
 誰も帰依するものがなかったので、結局、(現実政治の方は断念し)先王の道を修めて伝えた。
 かくの如きが孔子であった。
 孟子は戦国の権謀術数の時代に起こり、覇道を排撃して王道を主張した。
 それはやはり彼の新生面であったが、君臣の義を論ずる点に至っては、
 孔子と合しなかったのである。
 荘子はなげやりな人物であったが、
 しかし殷の湯王・周の武王を論じては孟子に劣るものではなかったのであるから、
 諸子とはいいながら、廃することはできないのである。
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ところで、『敢語』の基本となった<条理学>について、
梅園は『多賀墨卿君にこたふる書』の中で次のように述べています。
少し難しいのですが、ゆっくり読めばわかります。
また、少し長いのですが、省略せずに紹介します。
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 条理の(秘)訣は、
 『反観合一、捨心之所執(しゃしんのしょしゅう)、依徴於正(いちょうおせい)』
 のみに候(そうろう)。
 捨心之所執とは習気を離るゝ事にして、
 依徴於正とは徴と見えながら徴にあらざる徴あり。
 たとへば、日月は慥(たしか)に西にゆくの徴あれども、其の実は東に行く。
 水は正しく火の讎(あだ)と見ゆるれども、火は水によってなるごとし。
 天地の道は侌昜(いんよう:こざと偏をとった陰陽)にして、
 侌昜の体は対して相反す。反するに因(より)て、一に合す。
 天地のなる処(ところ)なり。
 反して一なるものあるによりて、我、これを反して観、合わせて観て、
 其の本然(ほんねん)を求むるにて候。
 此の故に、条理は、則ち一有二、二開一、
 二なるが故に燦立(さんりつ)して条理を示し、
 一なるが故に混成して罅縫(かほう:ぬい目)を越没す。
 反観合一は則ちこれを繹(たず)ぬるの術にして、
 反観合一する事能(あた)はざれば、侌昜の面目をみる事能はず。
 未だ侌昜の面目を見る事能はずんば、博識多覧・聡明穎悟(えいご)の人といふとも、
 天地の室(しつ)をうかがい見ることは、得(え)あるまじく候。
 此の故に、条理を天門の鎖鑰(さやく:かんぬき)とも申し候。                     
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これが、彼がそれまでの「陰陽五行説」を打破し確立した<条理学>の核心です。
ですから、梅園は、これまでの「五行説」と結びついた「陰陽」では
自分の<条理学>が正しく表されないとして「侌昜」という文字を使ったのです。

彼はこのことについても、『贅語』「陰陽帙 余論第一」の
<侌昜の字義>で次のように述べています。
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 そもそも、侌昜という名称は『易』ではじめてあらわれました。
 けれども、そのいうところは、或いは道といい、或いは儀といい、
 或いは爻(こう)というのであって、易を説くにはいいかもしれませんが、
 天地を考えるについては、靴の上からかゆい所をかく感があります。
 阜、こざとへんをつけて、陰陽として、土地の日なた日かげで呼ぶのでは、
 本義以外のものを借りてつい別の意味を生じさせてしまうので、
 これにかかわってはなりません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

また、中国の著名な唯物論者である
戴震(1723〜1777、梅園(1723〜1789)とほぼ同時代)でも、
結局「陰陽五行説」の枠を打破することはできませんでした。

「気一元論」に基づく梅園の<条理学>は、
現代の言葉でいえば<唯物弁証法>と言えるでしょう。
(弁証法の核心は「対立物の統一」であり、
梅園の「反観合一」と通じます。)
これを体系的に論述したのが梅園の主著『玄語』です。
これはヘーゲル(1770〜1831)の『大論理学』以前に出ています。

最後に梅園の以下の言葉を紹介しておきます。
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 一元気と云事は誰が云い初(はじめ)たる事にや。
 未考(いまだかんがえず)。『漢書(かんじょ)』律歴(りつれき)志(し)にも出でたれば、
 漢の時は専(もっぱら)云いたるなるべし。もっともよき名なり。
 扨(さて)是(この)輩より陰陽と云(いう)字、盛に云ならして云(いう)事なれども、
 陰陽と云字の正しき解(かい)も見へず。
 うわすべりに世に通用して、
 復(また)は『左伝』なども陰陽・風雨・晦明(かいめい)(夜と昼)などと云いて
 風雨・晦明と並べても云たり。
 陰陽と云者はいかなる物ぞと人、とへども、火じゃの水じゃの夏じゃの冬じゃのと、
 物によそへてのみ云いて、其のよせ物をのけて聞きたしと云へば、ひとりも知る人なし。
 書物にも見へず。我、幼稚の時より尋(たずね)思ふてよせ物をのぞき、
 天地に徴し、始て其の解をつくれり。
 大凡(おおよそ)、陰陽と云物をまる裸にして、其面目云い出せる、
 書籍(しょじゃく)有りてより以来、
 「自我作古(われよりいにしえをなす)」と覚へたり。(『洞仙(梅園の別号)先生口授』より)
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ご愛読ありがとうございました。
なお、『敢語』と梅園哲学の評価につ いて
関心のある方は私までご連絡下さい。

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