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報告:鈴木文治ゆかりの地を訪ねる会

2015年は、友愛会を創立した鈴木文治の生誕130年にあたります。それを記念し、「鈴木 文治を顕彰する会」は、宮城県内における鈴木文治ゆかりの地である、生まれ故郷の栗原 市金成、および中学時代を過ごした大崎市古川を巡る、『鈴木文治ゆかりの地を訪ねる会 』を8月29日に実施しました。訪問先は、吉野作造記念館(古川)、金成ハリスト正教会(金 成)、金成歴史民俗資料館(同)、鈴木文治胸像(同)、鈴木文治生誕記念碑(同)など。小雨 が降っていましたが、地元の労働組合員を中心に結集した約30名が参加しました。案内役 は、地元「鈴木文治を顕彰する会」の芳賀清明さんと、東京「友愛労働歴史館」の間宮悠 紀雄さん。

1897年、片山潜や高野房太郎らが、職工義友会を母体として「労働組合期成会」を立ち上 げたのを機に、日本で最初の労働組合が結成されました。しかし、1900年に治安警察法が 制定されてストライキを違法行為と定められ、労働運動の弾圧が始まり、1901年には労働 組合期成会も解散に追い込まれました。ここに、明治時代の労働組合運動は断絶します。

鈴木文治は、1885年9月4日、宮城県栗原郡金成村に生まれました。10歳の頃に父親とと もに、金成ハリストス正教会で洗礼を受けました。宮城県尋常中学校志田郡立分校(現・ 古川高校)を卒業後、旧制山口高等学校に入学。1905年、東京帝国大学法科大学政治学科 に入学後は、同郷の先輩である吉野作造とともに、本郷教会に所属しました。

東大卒業後、秀英舎(現・大日本印刷)を経て、東京朝日新聞に入社。1911年ユニテリアン 派の統一基督教弘道会(安部磯雄会長)に幹事として就職。「労働者講話会」等の社会事業 に携わりました。そして1912年、労働者の地位向上を目指して、東京のユニテリアン教会 ・惟一館(現・友愛会館)において、14名の賛同者とともに「友愛会」を創設。鈴木は「労 働者の人格の尊重」を訴えながら、労働争議の調停や啓蒙活動に取り組みました。

1915年・1916年の両年渡米して米国の労働組合事情を学び、1919年には「大日本労働総同 盟友愛会」と改称。また同年、政府・財界主導型の労使協調団体「協調会」への参加を拒 絶するなど、体制に対して対決的な姿勢を強めました。1921年にはさらに「日本労働総同 盟」と改称。1920年代以降は実権を松岡駒吉・西尾末広らに譲り、ILO総会出席等の国際 活動や、普選運動に比重を移していきました。

1926年、社会民衆党の結成に参加し中央執行委員となりました。1928年、第1回目の男子 普通選挙となる第16回衆議院議員総選挙に、総同盟の拠点である旧大阪4区から立候補し 当選。これは、日本初の無産政党議員8名のうちの一人となったことを意味しています。1 930年落選後、1936年・1937年と社会大衆党公認で旧東京6区から当選しました。

1940年、反軍演説を行った代議士斎藤隆夫の除名問題で、党議に反して採決に対し棄権す ると、中央執行委員会により、党首の安部磯雄、西尾末広、片山哲、水谷長三郎らととも に除名処分となりました。1946年3月12日、戦後初の総選挙に日本社会党から立候補の届 出を行った翌日に、心臓病により急逝。鈴木文治は、60歳の生涯を閉じました。

戦前の日本労働運動における、中心人物の一人である鈴木文治をめぐって、様々な角度か ら考えさせられたフィールドワークでした。

【報 告】佐藤和之(佼成学園教職員組合)
【写 真】http://blogs.yahoo.co.jp/tocka_jikkoi/65792359.html


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