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タブーを作っているのはだれか?〜『表現の不自由展』森達也トークイベント | ||||||
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タブーを作っているのはだれか?〜『表現の不自由展』森達也トークイベント堀切さとみ東京・江古田にある「ギャラリー古藤」で『表現の不自由展〜消されたものたち』が開催されている。 「東京新聞」などで大盛況が伝えられる中、1月25日は『放送禁止歌』の上映と、森達也氏(聞き手は岩本太郎氏)のトークイベントがあった。これまた大盛況。示唆に富んだ内容だった。 1999年にフジテレビで偶然放送が叶った『放送禁止歌』。対象になったのは政治的な歌やいわゆる差別用語が使われた歌、最近でいえばキヨシローみたいな原発批判の歌なんだろうなと思っていたら、それだけではなかった! ピンクレディーの『S・O・S』や北島サブちゃんの『ブンガチャ節』なども問題歌だったのだ。(何がまずかったのかはあえてここには書かないが) 長谷川きよしの『心中日本』。これはタイトルが暗すぎるというので禁止。『心の中の日本』とタイトルを変えたら放送できたのだという。(震災とか天皇崩御とかがあったわけでもないのに!) 「放送禁止を言うのは誰なのか」。これが森達也(写真上)の出発点だ。「放送=公共性」の名のもとに“要注意歌謡曲”の一覧を出した民放連にインタビューすると「拘束力はまったくない。参考資料に過ぎず、放送するかどうかは各局の判断に任せていた」という。 2004年のイラクでの三人の人質に対する「自己責任」という言葉の言いだしっぺは『週刊新潮』だったが、かの編集部の言い分は「週刊誌は世間 の“逆”をよむのが習性。世間はきっと『人命を救え』一色になるだろうから、あえて『自己責任』という論調をはった」んだそうだ。 戦前の治安弾圧。あの時も上からの強制的な圧力がかかる前に、メディアは自主規制した。今もそうなっていないか。昨今そんな論調がある。 結局は「責任回避」なんじゃない? メディアが「世論なるもの」のせいにしてるだけなんじゃないか。そしてそれは市民も同じだ。岩本さんは「イラク人質に対して皆『自己責任』と言ったが、本当は『自業自得』という意味だった。でもその言葉を使いたくなかったのだ」と言ったが、なるほどな と思った。日本人は優しくありたい。そして自分に責任が回ってくることを極力回避するのだ。 森達也はかつて『A』『A2』でオウム真理教を撮った。「よく撮れたね」と言われたが「え?撮っちゃいけなかったの?」と思うほど自分は“鈍かった”という。だからこそ、ありていなオウムを撮ることができたのだ。 事実、オウムの信者と長野県の住民は仲良くなっていた。ほほえましいエピソードはいっぱい転がっていたのに、メディアにとってそれは「見せてはならないもの」だった。今も「敵視」しなきゃいけない対象があれば、それは100%「敵」であり、そいつらは「残虐」でなければ困るのだ。 敵がハッキリしているとラクだ。でも実は今の日本を覆っているのは、政治的な圧力以上に自主規制や同調圧力だ。「日本人が日本人を差別してはいけない」と言って『竹田の子守唄』が放送禁止歌になり、「不安を煽ってはいけない」と言って福島の自主避難者や『美味しんぼ』が叩かれている。 埼玉に避難した福島原発避難民の映画『原発の町を追われて』を撮った私は「よくこんな本音が撮れましたね」とNHKのディレクターに言われたことがある。でも「これはテレビでは放映できないです」とも。 日本人が望む避難民像と違うものだったからだ。「テレビでオンエアしたら、この人は叩かれますよ」と。それが現実であり、人間らしさであるにもか かわらず。報道人は被災者の覚悟や期待を打ち消してしまう。 岡林信康の『手紙』。部落差別によって好きな人と一緒になれなかった女性の心情を歌っている。「暗い手紙になりましたが、私は書きたかった」という歌詞がある。(岡林はこの歌を二度と歌わないと言っているらしいが)どんなつらいことでも書くことによって生きていける。それが表現すること の基本だろう。それを奪う権利は誰にもない。 トークイベントの最後に、今のフランスの現状に触れて森達也さんは「『私はシャルリ』というのが『私は在特会』と同じになってしまわないか。表現の自由というのは、何を言っても許されることではない。マイノリ ティーに向かうものはヘイトスピーチだ」と語った。 その上で「”傷つく人がいるからやめましょう”というのもおかしい。そんなことを言ったら料理番組を観たって傷つく人はいるかもしれない。メ ディアは加害者であるという決意をしないとだめ。その覚悟がないから指摘されることを避けて、いとも簡単に”放送禁止”にしてしまう」 『放送禁止歌』の結論は、タブーを作っているのは「自分」。他人のせいにしたがる人たち。熱いトークを会場の隅っこで「平和の少女像」が見つめていた。 Created by staff01. Last modified on 2015-01-26 07:24:42 Copyright: Default |