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LNJ Logo 新刊紹介「1978・3・26 NARITA」〜明かされる管制塔占拠闘争の全貌
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明かされる管制塔占拠闘争の全貌
勝利の偶然と、問われた「その後」

■4月25日(金)発売
「1978・3・26 NARITA
 管制塔を占拠し、開港を阻止したオヤジたちの証言」
30周年記念出版編纂委員会・編著/結書房
1300円+税

1978年3月26日。開港を目前に控えた成田空港(三里塚空港)の管制塔が反対派の突入部隊に破壊され、開港が延期された事件があった。三里塚闘争にかかわる人々のあいだで、なかば伝説的に語られてきた「3・26闘争」。その舞台裏を、当事者たちの証言でまとめた本が4月25日、発売された。当初は元被告それぞれに原稿の執筆を依頼。だが完成が遅れに遅れ、編集者は急きょインタビューと対談方式に転換したという。

 「空港包囲・突入・占拠」――無謀とも思える作戦が成功すると確信していたのは、計画を立案・指導し、最後まで獄中にいた最高責任者和多田粂夫と、彼が師と仰ぐ農民運動家山口武秀ただ二人。「赤ヘル3派連合」から選抜された22人の先鋭部隊の行動は、仲間にも秘密にされた。

暖かい快晴の日曜日。施設内のマンホールから飛び出した決死隊は、管制塔をめざして疾走した。午後1時を期して、いくつかの偶然が紙一重で重なった。警備の指揮命令は停止し、警備本部は解体した。制服警官の発砲が始まった。だが命と人生を賭けた青年、学生、労働者の士気が、恐怖を凌駕した。巧妙に仕組まれた陽動作戦に、機動隊はまんまと乗った。和多田は宿敵の公安エリート・三井修参事官に、勝った。

 成果の代償は、小さくはなかった。第9ゲートから突入し、管制塔占拠のきっかけをつくった部隊には、全身火傷で命を落とした同志がいた。メンツをつぶされた国家権力の報復は、想像を超えていた。20代の若者たちは、長期の獄中生活に耐え抜きながら、同志を死に至らしめた悔恨の重荷を、生涯背負うことになった。

 服役後、それぞれの道を静かに歩いていた15人の戦士と2人の事後逮捕者。05年3月、国と空港公団が時効寸前に損害賠償訴訟の強制執行を開始した。平穏な市民生活を直撃した差押さえ。元被告たちはカンパ基金を創設し、インターネットを使って呼びかけた。激励の言葉がサイトを埋めつくした。入金のたびに増え続けるホームページの集計金額が、さらなる相乗効果を生んだ。全国から集まった1億300万円の現金が、航空局に叩きつけられた(写真下)。三理塚闘争に心を寄せる人々の熱い思いが、またしても不可能を可能にした瞬間だった。国の執念が、仲間たちを再び強く結びつけたのは皮肉である。

 「いつかは言わなきゃならないって思ってた。あなたがたは、俺らを管制塔にのぼらせて終わりかよ!って」――行動隊長として極限の修羅場をくぐり抜けた前田道彦は怒る。地元に名を馳せた人望厚い超優等生。事件後、マスコミ総がかりの過激派キャンペーンを一身に浴びる。政府の政策を根本から転換させた大闘争。その光と影。問われていたのは、「その後、どうするか」だった。

 30年という時の流れを経て、胸の奥底に閉じ込めた青春の足跡を、「オヤジ」たちが等身大で語る。燃えるような闘志、空港への憎しみは消え、穏やかな会話のなかに、冷静な反省が込められている。さまざまな困難や課題を抱えながら、三里塚空港反対闘争は、したたかに今も続いている。(佐藤隆)


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