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第3回 国労魂とは何だったのか?〜国鉄闘争の総括(上)

*このシリーズは上・中・下の3回に分けて掲載します。上は2/16掲載。中は2/23、下は3/2に掲載します。写真は「政治解決案」を受諾した国労臨時大会(2010年4月)

国鉄闘争の総括―戦後労働運動の生成・発展・消滅過程と国鉄労働組合の検証――

             江藤正修(2011年2月15日脱稿)

1,はじめに

 2010年4月9日、政府と与党3党、公明党が合意した「JR不採用問題の政治解決案」を4者(国労闘争団全国連絡会議、鉄建公団訴訟原告団、鉄道・運輸機構訴訟原告団、全動労争議団)・4団体(国鉄労働組合、全日本建設交運一般労働組合、国鉄闘争支援中央共闘会議、国鉄闘争に勝利する共闘会議)が受け入れ、1987年4月の解雇以来23年にわたった国鉄争議は基本的に終了した。

 そこで確認された解決内容は]族魘1人平均1563万円、団体加算金58億円(闘争団などの事業体に対する補償金)、JRへの雇用について北海道、九州などの各社に200名位の採用を要請する(その他の雇用について政府としても努力する)というもの。

 23年間にも及ぶ争議の解決という重さを考える時、この解決水準が十分でないことは言うまでもない。それは合意された解決内容に「解雇が不当労働行為であった」という謝罪がひと言もないことであり、同時に争議の眼目であったJRへの復帰が「200名程度の要請」にまで縮小されてしまった点である。また、23年という過ぎ去った歳月を考えれば、和解金の金額はあまりに少額と言わざるを得なし、年金の補償が見当たらない点も指摘しておかなければならない。

 だが一方で、国鉄闘争を取り巻く気の遠くなるような不利な条件の中で、よくぞ解決までこぎつけたという思いがこみ上げてくるのを抑えることができない。この論文執筆の眼目の1つは、その“気の遠くなるような不利な条件”の解明にあるので、その詳細は後ほど述べる。ただ一つだけ挙げておけば、国鉄の分割民営化とは国労解体攻撃であり、それは1960年の三井三池闘争にまで遡る支配階級の“悲願”であったということである(中曽根はそれを「戦後政治の総決算」と表現した)。そう考えるのならば、「よくぞ解決までこぎつけた」という思いは、あながち的外れとは言えないのである。

 だが、そうはいっても争議を闘ってきた当事者たちは、深く考えれば考えるほど心穏やかではないであろうと推察する。たとえば、音威子府闘争団家族会の藤保美年子さんが4党合意に反対して2000年7月の国労臨時大会で叫んだ言葉、「私たちは確かに年をとった。顔にしわも増えた。だが私たちには1987年2月のJR不採用通知で時間が止まっている。この時間を取り戻すにはJR復帰しかあり得ない」という願いに、今回の解決はほとんど届いていないと思うからである。

 また私は、1990年代初頭の争議開始の段階で、闘争団の中心メンバーの一人が語った次の言葉を忘れることができない。「われわれは争議を勝利させることで総評労働運動を再建させたい(総評解散は1989年)。その際、闘争団は解決金を軸に再建のためのオルグになる決意だ」。もちろん、1047人全員がこのように考えていたわけではないだろう。だが闘争団の中軸を担うメンバーの中に、このような思いが少なからず存在したことは事実なのである。そして、このような感覚は国労が戦後労働運動の中で培ってきた誇り、魂、総じて言えば国労の戦闘性の中から生まれてきたものである。

 闘争団を担ってきた彼らは、その後経験をさらに積みバランス感覚にも磨きをかけていることだろう。だから、今回の争議の解決に直面して、その解決水準をやむを得ないものと自らに言い聞かせ、また、まわりにもそのように説得しているに違いない。

 だが、果たしてそれだけでいいのだろうか。自らの闘いの“敗北的側面”に向き合い、掘り下げることが、実は当初の志に応えることではないのか。またそうすることによって、23年間の闘いの軌跡を、「無駄ではなかった」と未来の活動家たちに引き継いでもらうことになるのではないか。

 そうした作業はもちろん、当事者がやるべきものである。したがって、私たちが今から述べることは、そのような作業のための助言にすぎない。だが、23年間の少なくない時間を近くで歩んできたものとして、助言であっても一言述べる責任があると考えるのである。

2,戦後社会の主導力の位置を占めた国労

国鉄闘争を総括する場合、過去のことだけを対象にしてもあまり意味があるとは思えない。国鉄闘争の総括と今後の労働運動の展望とをどのように結びつけるのか。この点が最も問われていると考えている。

 その観点からの総括を考えた場合、検討すべき第1の中心環は、国鉄闘争と戦後労働運動との関係についてである。国労を中心とする総評左派は戦後労働運動を主導してきたといってよい。かつてジャーナリストの大宅壮一が“昔陸軍、いま総評”と当時の総評の強さを半ば揶揄的に表現したように、国労に代表される総評左派は戦後社会を動かす1つの動力の役割を果たした。総括にあたって考えなければならないのは、戦後社会を動かす動力の源となった魂とは何であったのかという点である。

 確かに国労は一時期、戦後社会を主導する1つの勢力として存在したが、そこにはそれが許された社会的基盤とそれに基づく精神的優位性や個人としての誇りがヘゲモニーとして機能していた。これが何だったのかから総括を始めることが必要だと思う。その上で、こうした主導力、あるいは魂だったものがなぜ挫折し、崩壊したのか。この解明が必要であると思う。

3,敗戦と戦後復興における自然発生的な労働者ヘゲモニー

 戦後史の中で国労は、どのような位置を持っていたのだろうか。1945年の日本の敗戦は、資本や軍隊、あるいはそうしたものを含んだ権力と権威の全面的崩壊であった。軍隊はもとより資本は財閥解体で位置を失い、旧来の政治権力も崩壊するなど旧主導力、旧権力は解体されたのである。それは生活基盤の解体を意味したが、その局面で問われたのは誰が復興過程を主導するかであった。すなわち、生きるために誰がどのように能力を発揮するかが問題となったのだが、その場面で登場したのが労働者であった。

 戦中に産業報国会に結集し、軍需生産を通じて生産能力、生産技術を強力に蓄積してきた層が存在した。この層が、軍需から生活物資への生産基盤の切り替えを自発的に展開したのである。

 その当時、資本や権力は隠匿物資をヤミ市場で売り払って儲けるという、非生産的で生産放棄に近い対応を行っていた。これに対して労働者の側は、生活物資の自主生産という形を取りつつ戦後復興の出発点を築いていったのである。このようにして旧来のヘゲモニーからの転換が、戦後復興の過程を通じて自然発生的にではあったが行われた。  そのような労働側の生産への自発的動きに対応しつつ、それを意識的に組み立てていったのが傾斜生産方式である。自然発生的に労働の側が発揮した復興過程に対する対応を利用しつつ、どこに集中して再建の道筋を立てるのか。そこで登場したのが計画的集中方式である傾斜生産である。

 傾斜生産方式には計画経済が取り入れられていたが、それは戦後復興の中心官庁である経済安定本部を有沢広巳などの労農派マルクス主義学者が担ったからである。そして、この時期の傾斜生産の対象となったのが石炭と鉄鋼、国鉄を中心とする運輸、米などの食糧生産であり、戦後復興の出発点はここから集中的に組み立てられることになった。戦後復興を軸に高度経済成長の源流が作り出される強力な出発点になったのである。

 このことから明らかなように、戦後復興のためには労働者の力を借りる、あるいは労働者のヘゲモニーに依存しなければならないという関係が職場で起きてくるわけである。

 そのような力を政治主義的に利用しようと試みたのが産別会議である。吉田内閣を打倒して人民政府を樹立するため、2.1ストを頂点として政治的に利用したのである。ところが産別の闘争は、戦後復興を主導する自然発生的な職場からの動きと有機的に結びつかなかった。戦後復興で示された下からの自然発生的な主導力は、政治主義的利用と引き回しに反発した。その結果が、2.1ストの挫折から産別の衰退・崩壊、そして共産党の権威の失墜となって表現された。

 その後、産別に代わって「職場に労働組合を」を合言葉にした登場したのが総評である。総評結成を試みた高野実たちは、政治的にはアメリカを利用し政府とも協調した。その意味で総評は、明らかに右から登場したのである。

4,総評を生み“国労魂”を成立させた復興推進の力

ところが職場の趨勢を見るならば、自主生産からはじまる下からの自主的な生産過程におけるヘゲモニー、すなわち戦後復興における労働者のヘゲモニーは依然として持続し、そのことが「職場に労働組合を」という総評民同のスローガンをリアリティのあるものとさせた。上部の指導部が反共右翼であったとしても、そこに組織された大衆が自発的に生産復興を推進していく力を発揮したのであり、これが「ニワトリからアヒル」(結成当初の反共右翼から翌51年の大会で左傾化した総評を評したマスコミ用語)の転換を作り出した原動力の1つだったと思う。

 そのような勢力の中心を担ったのが民間では炭労と鉄鋼、官公労では国労、全逓、日教組などの総評左派といわれる労働組合である。日教組は戦後復興の中心である傾斜生産の枠組みには入らないが、教育問題は別の意味で戦後復興の過程で重要な位置を持っていた。たとえば日教組の教研集会などに象徴される自発的な教育運動が、下からのヘゲモニーを形成していったのである。

 ここでの総評左派の特徴は、戦後復興過程に対する単なる抵抗勢力ではない。生産の停滞で物資が不足して国民全体が飢えている中で戦後復興を担うわけだから、総評左派は国民生活全体に対する主導力として登場したことになる。その意味では労働運動の左派といわれるところに国民的ヘゲモニー、国民的支持が生み出されることになった。

 労働運動における“ニワトリからアヒル”への転換は、政治的には社会党左派が一挙に登場してくることを意味した。戦後社会党は戦前からの社会民主主義の伝統を受け継ぐ右派が多数であったが、総評運動から生まれた活動家が議員になることを通じて、左派が社会党のヘゲモニーを握ることとなった。この状況も、総評の動きと同じ基盤の上で成り立ったのだと思う。後に清水慎三によって「社会党・総評ブロック」と命名された構造は、そのようなエネルギーによって作り出された。

 活動家が歴史的過程を主導したという復興過程におけるこのような経験が、勝利意識というか優越性に基づく確信を形成させることになり、1つの魂を作り出しているのである。それは腕一本の熟練労働・技能で家族を養うという古い中家族、大家族の枠組みの中にいる労働者たちである。親戚などを含めた中家族・大家族には、そのような熟練労働者に頼って生き抜くという戦後の一過程が存在した。腕一本で戦後復興に貢献すると同時に、大家族・中家族的構造を背負って親戚も含め飢えた家族を支える。これは熟練労働者たちの誇りなのである。

 戦後を支えてきたという確信とそれを率いてきた優越性、さらに家族を支えてきた誇り、こうしたものが総評左派の戦闘性の基盤を形成していたのである。そして、これこそが国労の戦闘性を支えてきた根拠、国労魂を形成してきた第1の歴史的基盤だったと思う。  国鉄分割民営化に反対して解雇された国労闘争団のメンバーたちが1990年当時、争議をスタートさせるにあたって抱いた思い、すなわち自分たちが勝利することで総評労働運動を再建するのだという自信と確信は、このような歴史的基盤によって生み出されたと思うのである。

5,前近代と近代化の混合社会から生まれた戦闘性

 この側面を資本の側から見るならば、戦後復興過程において労働側の自発的な生産能力(労働者の戦後ヘゲモニー)に依存する構造のもとで、労使関係が成立したことになる。それを端的に示しているのが同意約款である。労働組合が同意しなければ労働協約などを改定できないという内容が同意約款だが、そのような協約を結ぶことで資本は、“労働者の戦後ヘゲモニー”に依存する形態をとった。国労や炭労に対しては、部分的ではあれ下部の人事権を与える対応さえ行われたのである。

 戦後の職場で支配的であった年功序列には第1に、身分制度ではないものの戦前からの前近代的で家父長的な位階制秩序がシステムとして取り入れられていたと同時に、第2として戦後復興における能力主義も取り入れられていた。戦後復興において能力を発揮したのは、叩き上げの熟練労働力である。そこでは年功的に蓄積された力、能力が重要になった。年功序列とはもう1つの側面として能力主義的要素を持っている。若手が能力を蓄積する過程が年功序列という秩序となり、ここが団結の基盤となるのである。

 資本の側は、そのような秩序を“職場秩序”として取り入れていくやり方を取った。年功者を中心とした職場共同体的な構造に企業の側の職場秩序が依存する構造であり、労働組合的な団結が職制的機能を持つのである。労働組合のヘゲモニーに依存する形で、資本の側の経営秩序も作り出される構造といってよい。したがって戦闘的なヘゲモニーやそこから生まれる誇りは、同時に労使癒着の構造を内包することになった。

 労働組合の秩序に資本の側が依存する中から生み出されたのが同意約款であるが、職場闘争はそのような同意約款に依存し、現場協議制などを通じて獲得された慣習、慣例という形で職場の力関係が形成された。そして、このような構造が戦後復興のあり方だったのである。

 戦後日本の経済は、朝鮮戦争で生じた特需ブームに依拠しつつ、一面の焼け野が原の状況からの驚異的な復興をなし遂げた。ところが一方では、前近代的な年功序列的秩序が存在した。その意味では産業復興の過程で蓄積された年功序列的な忠誠心、家父長的で上意下達的な秩序と能力主義的な力が一体となっているのである。そこに生まれたのは、前近代と生産復興に基づく近代化という2つの要素が結びついた混合社会である。そして、前近代と近代が結びついた混合社会は、戦後復興の奇跡を引き起こしたのである。

6,経営権の奪権と労働者イニシアティブの解体=三池争議

 戦後日本におけるフォーディズム(大量生産・大量消費のアメリカ型生産システム)はドッジプランからはじまる。ドッジプランは大量の首切りと大合理化を行うことで、日本の産業構造を徹底的な近代化に転化しようとしたが、朝鮮戦争が起きたために中途挫折することになった。旧秩序と旧生産能力を温存し、その能力に依存することで、朝鮮戦争で生じた特需ブームに対応することが求められたのである。

 したがって、本格的にフォーディズムが導入され始めるのは朝鮮戦争の休戦後ということになる。アメリカのフォーディズムのシステムが全面的に持ち込まれ、高度経済成長が始まることになるのである。

 ここから開始されたのが労働者イニシアティブの解体である。職場と生産過程における労働者のイニシアティブをどう解体するか、角度を変えて言うならば資本の側の経営権の奪権が中心問題となったのである。それまでは経営基盤を労働組合に依存させていたため、合理化、近代化に向けた転換を行おうとしても、そこが大きな壁、阻害要因になってくる。その阻害要因をいかに打破するかが労使の中心問題になったのである。

 この攻撃は民間からはじまった。労働組合に経営基盤を依存させた旧来型の職場秩序を全面的に解体して、新しい職制を中心とする職場秩序に切り替えなければならない。それを目的として生産性運動が開始された。生産性向上のためには職場の経営権を奪権して、合理化・近代化を全面的に推し進めなければならない。とくに資本が開放経済体制に転換して自由化・国際化が始まる民間職場では、国際競争力に打ち勝っていかなければならなくなったのである。

この動きは1955年を起点に1960年代にかけて全面化し、それに対応した職場秩序の確立が経営権の奪還という形態を取ってなされていった。それを象徴するのが労働組合に依存した労働協約の全面的廃棄である。さらに、生産阻害者というレッテルを張った活動家のパージと人員削減、経営権の奪還・労働協約の破棄が同時に推進された。このような攻撃が一斉に始まったのである。

 そして資本の側は、近代化に同意する労働者を職場から組織していった。すなわち、QCサークル(職場内の小グループで行う品質管理活動)やZD運動(不良品・欠陥ゼロ運動)などを組織していくことを通じて、金属関係を手始めに労働組合をJC派(IMF・JC=国際金属労連日本協議会)の方向に転換させていったのである。このようにして資本の側は民間職場から戦後労働運動の包囲を開始したわけだが、その出発点となったのが炭労の解体である。

 先ほど述べた「生産阻害者というレッテルを張った活動家のパージと人員削減、経営権の奪還・労働協約の破棄」という攻防の焦点が1960年の三池闘争であり、この闘いの敗北が「近代化に同意する労働者を職場から組織」してJCの結成に至る出発点になったのである。その結果、60年代に入ると労働戦線の右翼的再編成が民間において一挙に推進されることになった。

*以下、中(2/23掲載予定)に続く


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