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頑張れ派遣美術! 頑張れ浦二洞!

[派遣美術-現場美術]派遣美術、浦二洞の貧民運動と会う

シン・ユア(文化連帯) 2017.09.19 10:53

2011年、派遣美術チームは本当に忙しい一年を送った。 2012年も忙しかった。 2013年も相変らず忙しかったし、2017年の今も忙しい。 忙しいということは、それだけ派遣美術チームが行くべき所が多いということで、 路上で闘争する人々が家に帰れなかったということを傍証したりもする。

あちこちを回っていると、闘争現場ごとに本当に多くの要請がくる。 「私たちの座込場を一緒に作ろう」、 「私たちが記者会見をするのだが、ちょっとパフォーマンスを考えてほしい」、 「私たちが文化祭するのだが、企画をちょっとお願いできないか」、 「文化祭の象徴儀式はどんなものが良いだろう」、 「デモ行進するのだが、象徴物を製作してもらえるだろうか」、 「連帯バスをやるのだが、みんなが参加できるような企画はないか」、 「00闘争事業場の広報イメージ作らなければならない」、 「今日は集中闘争なのだが撮影チームを運営できないか」、 「写真チームも構成してほしい」、 「公演チームの交渉をお願いしたい」、 「後援支援金を作るためにTシャツでも作ろうと思うができるか」、 「後援展示を企画したいがどうすればいいか」。

2011年の希望バスは、派遣美術チームにも手にあまるようになってきた。 どこかの現場、どこかの空間、誰かの人々があれこれのことで戦っているので、 私たちの所にも希望バスがきてほしいと、 数えきれない程多くの連絡がきた。 一緒にできない条件などで残念なことが多かったわれわれは、 最低限の連帯のための最低限の行動が必要だった。 どの現場、どこでも苦しくないことはなく、連帯の助けを待っているのではないか。 時間を分けて分けて、現場に行く。 来てくれと要請する現場も多かったが、 派遣美術チーム一人一人の生計のためにも時間が必要だった。 それでまた時間をまた分けなければならなかった。

派遣美術チームの作業は文化連帯活動家の筆者が一番、闘争事業場への連帯をよくして、 そのうちに一般的に要請が入ってくるルートになる場合が多い。 事業が確定すれば、派遣美術チームにSNSを使ってあらかじめ話を伝え、アイディアを集める。 時には現場の議論の中で、派遣美術チームの作家に意見を聞いてすぐに決める時もある。

派遣美術チームはこのようにして仕事を作って行く。 誰かがこんなことをやってみようと言えば、すぐに肉付けして、そぎ取るものはそぎ取る。 アイディアが集まればそれぞれ役割を決めて一緒にする周辺の友人を集める。 そして材料を購入したり、家ごとに使って残った絵の具、筆、ペンキ等等をちゃっかり包んで出て行く。 そして共同作業する空間を決めて、決められた空間に集まる。 作業空間といっても、イ・ユニョプの作業室か、あるいは平沢市大秋里の村の倉庫を借りることがほとんどだ。 派遣美術家は作業空間と作品倉庫に対する欲望がある。 貸間暮らしの境遇では、作業室は思いもよらない。 とにかく京畿道安城にあるイ・ユニョプの作業室が最適の空間だ。

普通1泊を基本に作業したり、さらに長くなる日も多い。 作業が終わったものは現場に運んで追加作業をしたり変形する。 設置当日、警察との衝突ですぐに壊れるが、それにはあまり執着しない。 いや、腹は立つが、一緒に戦うことが私たちが連帯する最大の理由なので、 起上り小法師のように、また作って、また作る。 壊れた形態で、また新しい形態で作れば良い。 派遣美術チームの長所は無から有を作り出すことではないだろうか。 時々はゴミ作家という言葉を聞いたりもすることを考えればである。

周辺の人々の心配の中一つが財政だ。 金はどこで用意するのか…。 当初、派遣美術チームの活動は自分が持っている絵の具と現場に捨てられている物を活用することから始まった。 そのうちに絵の具の費用、交通費、食費、宿泊費などはほとんど自分の財布から出した。 だが最近、材料費は要請する闘争事業場が出してくれることがほとんどだ。 初めて材料費の財政要請をした時は、大きな事業場ではない場合、とても申し訳なくて言い出すのも難しかった。 「材料費はちょっと出してほしいのだけど…」。 いつも言葉を濁してばかりいた。 今はそうではない。 堂々と要求する。 相変らず材料費だけではあるが。

2011年にも私たちは忙しかったし、お金もなかったし、空間もなかった。 筆一本を持って駆けつけたが、全国あちこちが闘争の現場だったし、暮らしていくのはとても厳しい時間だった。 竜山撤去民がそうだったように、ソウル浦二洞の板子村(貧民街)の火災は多くの人の記憶に残っている。 6月11日、江南の真中で暮らしす人々の暮らしの場が一瞬で崩れてしまった日だ。 貧困社会連帯活動家の提案で、派遣美術チームはここに駆けつけた。 この頃から、派遣美術チームの一人一人も生計戦線に飛び込んで、 時間を合わせて動くのは難しくなった。 それで二人、三人が動くしかなく、現場で一緒に作業できる人たちを集めた。 そのうちに製作よりは絵を描く作業の方が多かった。

浦二洞に到着したわれわれは、火災現場を見て回り、村の人々と挨拶も交わした。 村の住民は共同で食事の仕度をして、共に寝られる空間を作り、外部の人の訪問に警戒の目つきを見せることもした。 笑いながら挨拶するのもぎこちない時間が流れた。 慰労の言葉も大変だった。 村の住民の警戒は、浦二洞の過去を聞けばある程度理解することができた。 平沢市大秋里の住民が国家の政策で強制移住させられたように、 浦二洞の住民も国家の政策が作った移住対策の被害者だ。 性格は違っても、国家の政策が生んだ被害者なのは明らかだ。

1979年に大統領令によって、自活勤労隊が組織された。 自活勤労隊は路上の浮浪者、戦争孤児、屑拾いが自活できるように助けるという名目で、 都市貧民を一つの地域に強制的に集めて強制労役をさせた団体だ。 しかし1981年、自活勤労隊員の集団受け入れで事故が頻発すると分散政策で強制収容者などを10の地域に分けてまた強制移住させ始めたが、 浦二洞266番地もそのうちの1か所だった。 軍隊式の統制による監視とともに人権を踏みにじられて暮らした人々は、 1988年の自活勤労隊の解体とともに何の住居対策もなく、ぽつんと残された。

その後、彼らに飛んできたのは土地不法占有に対する土地弁償金請求書であった。 不法占有だなんて。 都市貧民を助けるという政府の政策は、結局平凡な市民を法律違反者にして投げ出すものではなくて何か。 2006年基準で、世帯当りの土地弁償金は5000万ウォンから1億8000万ウォンだった。 浦二洞266番地の住民は、移住したくても移住できない条件に置かれていた。

浦二洞266番地に連帯した人々は応援文化祭を準備して、派遣美術チームは筆を執った。 応援文化祭に参加した学生と村の入口のフェンスにイメージ作業することにして、しばらく話をした。 私たちが暮らしたい空間、村の人々が望む空間をイメージとして作ってみようと。 ビルと高層建物がソウルを覆う状況で、この空間だけは素朴な大小の家ができればいいと話し、イ・ユニョプ作家の進行でイメージ作業に入った。

赤い家、黄色い家、青い家が大小集まった形状が描かれて、錆ついてみすぼらしいフェンスはますます夢のような村に変身し始めた。 薄暗くなると、ピカピカの姿に散歩していた周辺の村の人々がイメージを見るために集まったりもしたが、 相変らず冷たい表情だ。 子供が「私も描いてみる」と駆け付けると、その子供のお母さんが話す。 「だめ、汚いから」と子供を連れて遠くにビルの森に行ってしまう。 住民のあるおばさんは、遠くから絵をながめて 「あの、あそこの木の下にある家はまるでウチみたいだね」と言いながら、 燃えてしまった村の中で自分が暮らしていた家を回想したりもする。[続く]

付記
この文は文化連帯が発行する話倉庫〈文化パン〉にものせられました。* 文の一部は筆者が民衆言論チャムセサンに寄稿した文中一部を抜粋したのです。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2017-09-23 17:16:59 / Last modified on 2017-09-23 17:17:01 Copyright: Default

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