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あなたにとって「李石基」とは何か?

[寄稿]「私たちの中の」国家保安法がどこにつながっているのか

ソ・チャンホ(人権運動連帯) 2013.09.10 11:20

国家情報院の真実攻防が重要なのではない!

国家情報院発の「政治」が世間を揺さぶっている。李石基(イ・ソッキ)議員の拘束捜査に続き、セヌリ党は李石基の除名を持ち出し、法務部は統合進歩党の解散を検討している。その上、「与敵罪」の適用を進めている。与敵罪は「敵国と結託して大韓民国に対敵した者」を処罰するもので、朝鮮戦争以後に判例がない死文化した条項だ。李石基の弁護団は「内乱陰謀罪適用に自信がないので、与敵罪を持ち出した」と批判している。国家情報院は、李石基を事件化させるために全方向的に総力を傾けている。韓国社会にとんでもない波紋を起こしながら、社会全般に広がっていっている。

これをあおっているのは、言うまでもなく国家情報院とセヌリ党を中心にする 保守勢力だ。一度手綱をつかんだ国家情報院と保守勢力は、最後を見届けよう とする。5月の統合進歩党京畿道党の会で李石基議員と一部の党員が講演と討論 の中でした話について、内乱陰謀と国家保安法違反が提起されているが、ここで 真実は重要ではない。その上、セヌリ党の議員が続々と統合進歩党議員に「君も ROか」という調子で発言する姿は野蛮な暴力に近い。

烙印は「世論裁判」の名で行なわれている。世論裁判の真実はすでに決まった。 世論裁判は5月の会が「RO会合」であり、内乱陰謀を試み、国家保安法を破り、 北朝鮮による暴力革命のために国会を橋頭堡としたということだ。国家情報院 と保守勢力は「李石基=統合進歩党=従北=進歩勢力」という等式で、統合進歩党 だけでなく、多くの社会運動勢力に対する「烙印」を押すために、それこそ すべてを賭けている。

大衆の恐怖を利用した「国家情報院の政治」

ここで世論裁判に頼った烙印は、基本的な論争と討論をできる条件も押し倒す。 問題は、世論裁判が自由ではないということにある。分断体制と盲目的な反共・ 反北朝鮮が支配的で物理的な力を持つ構造で、なぜ理性的でバランスの取れた 討論ができるだろうか? そして李石基の考えの何が問題で、どこまでが同意、 あるいは批判できるのかの社会的な論争と討論が全くないままで「大衆の恐怖」 に基盤する国家情報院の政治だけが残っている。ここでは、思想と表現の自由 はさらに締めつけられる。いや思想と表現の自由を認められる余地はまったくない。

▲資料写真

李石基をきちんと呼び止めるための思想と表現の自由

李石基事態の本質は、思想と表現の自由の問題だ。思想と表現の自由を徹底的 に大衆の恐怖に利用する国家情報院は、思想と表現の自由はおいしいエサ以上 でも以下でもない。しかし思想と表現の自由は、その範囲がないところに意味 がある。「私がすれば表現の自由、君がすれば扇動」のように適用された瞬間、 思想と表現の自由を保障する意義は直ちに消滅する。すなわち、国家情報院が 許容する範囲で表現できるものが思想と表現の自由ではないということだ。

一部の社会運動陣営は、思想と表現の自由をどちらも認めれば、テロや暴力も 認めるものだと主張するが、これは横車でしかない。誰かの頭の中にある極端 と違い、思想と表現の自由を保障することがそのまま「テロと暴力の容認」と 等値ではない。例えば私たちが経験した軍事クーデターをするために軍人が集 まり、軍事クーデターの謀議をするのは思想の自由とは言わず、組織暴力団が ナワバリ戦争の前にアイディア会議をするのを思想の自由と言わないのと同じ だ。反民衆的な暴力を主張する思想に対する統制と評価は、民衆がするべきで、 認められない思想は自ら疎外されるだけだ。それが民主主義の原則だ。この 条件で、李石基に対する思想は「客観的」に開かれる。

また、思想と表現の自由という原則は、民衆が社会の発展方向を自由に討論し、 社会運営を統制するために必要な原則を意味し、ここで思想は韓国社会に対す る色々な分析と発展方向を提示する役割を果たす。だから思想と表現の自由が 保障されなければ、韓国社会の多様な分析と発展方向もちょうどそれだけ制限 され、韓国社会の矛盾を解決する多様な想像力とその可能性もちょうどそれだけ なくなってしまう。結果としてわれわれは現実の問題を解決できず、現実に支配 されるだけだろう。国家情報院が描く現実がそうだ!

共に戦おう!

李石基事態を通して、社会運動陣営は多様な視点からの論争が行われている。 だが自明な事実は、国家情報院による政治、政局だという事実だ。国家情報院 が、このように韓国社会に中心に置かれたことがあっただろうか? これは逆に、 国家情報院の問題が大衆的にあらわれる契機であら、国家情報院による政治が 今後も続くかどうかの分岐点になることができる。今こそ古い維新の思い出か、 民主主義への陣痛かという時だと言えば、誇張だろうか?

私は私自身に李石基を通じて尋ねようと思う。李石基という名は「国家情報院 の」国家保安法でなく、「私たちの中の」国家保安法がどこにつながるのかを 問いかける。国家情報院が提起する国家保安法から、私たちがいかに自由なの かを問い直しているのだ。私はあえて主張する。社会運動の未来と、より良い 世の中のための民主主義に進むためには、国家情報院と韓国社会は両立しない! 私はただ皆の戦い、皆のための戦いであることを望む!

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2013-09-11 00:24:04 / Last modified on 2014-12-24 19:05:46 Copyright: Default

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