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「労働するギター」を取り戻すための8年の闘争

[今日、われわれの闘争]コルトコルテック(1)時間が止まった工場で蘇る連帯

シン・スニョン(全国不安定労働撤廃連帯常任活動家) 2014.06.23 17:21

[編集者注]とても多くの労働者たちがとても長い間戦っている。 ますます長期闘争事業場が増え、やっとつかんだ勝利の知らせを聞いたのはずいぶん前のことだ。 以心伝心で連帯の気持ちを分けあって頑張るが、難しい戦いは主体の役割になり、孤独に続く。 絶えず自らを慰め、新たに決意して、今日も明日も戦うが、時には忘れられ、時には無視される労働者たちの話。 全国不安定労働撤廃連帯が[今日、私たちの闘争]でチャムセサンの読者と分けあおう。共に戦い、共に勝利する日まで、人間らしく生きたいわれわれすべての連帯を望んで伝える。

6月12日正午、「自由・平等・正義」と刻まれた大法院を出たコルト・コルテック・ギター労働者たち、 そして8年の闘争をそばで見守ってきた人々が集まって明るく笑った。 5月19日からコルテック整理解雇に対する大法院の「常識的な」判決を要求して続けてきた25日間の24時間1人デモを終える瞬間だった。 「上告をすべて棄却する」という機械的な一言に、こみ上げる怒りにもかかわらず、むしろ彼らは明るく笑った。

▲2014.6.12.大法院の前[出処:コルト・ギター不買流浪文化祭facebook]

多国籍搾取で世界市場の30%を占めるコルト・コルテック

コルト・コルテックは仁川と大田にあるギターの工場だった。 お金と同じぐらい楽器が好きな朴栄浩(パク・ヨンホ)一家は、お父さんの代からピアノやギターなどを輸入して販売していたが、 国内に工場を作り、直接生産し始めた。 1961年、パク・チュンギュが設立した首都ピアノ社が無理な事業拡張で1972年に不渡りを出すと、 当時海外マーケティングを担当していた26歳の朴栄浩(パク・ヨンホ)が1973年にギター専門メーカーとして設立したユア通商が、コルト楽器の前身だ。 世界的なギター・ブランドであるフェンダー(Fender)、ギブスン(Gibson)、アイバニーズ(Ibanez)などのOEM生産と共に、 1980年代の初めにコルト楽器と名前を変えた後、自社ブランドのコルト・ギターを生産してきた。

1988年に主に音響機器の製造・販売をする子会社コルテックを設立して、 1990年には楽器事業部を新設した後、 翌年末には論山の楽器メーカーを吸収・合併して大田工場を設立した。 1993年にはインドネシアにPTコルト工場、1999年には中国にコルテック大連工場を設立し、国内の生産ラインを縮小し始めた。 海外で生産した半製品を国内に入れて「韓国人の手先と集中力」で完成したギターに 「made in korea」と刻み、熱心に売った。 コルト・ギターの独歩的な成長動力は、低賃金と強力な現場統制、不安定な雇用だった。 急激にウォン安になった外国為替危機はむしろ機会になって、さらに常勝疾走した。

労働者たちが作ったギターで朴栄浩は莫大な富と名声を得た。 唯一の障害は1987年に仁川コルト工場にできた労働組合だった。 機械のように働かせられる労働力だけが必要であり、労働組合のない工場を息子に譲りたかった朴栄浩は、2000年、大田に「夢の工場」を新築した。 労働者を作業だけに没頭させ、余計なことを考えないように、まったく窓ない工場で、 物量計画に合わせていつでも労働力を使い捨てできる労働組合のない工場だった。 四方が塞がれたホコリだらけの工場で非人間的な統制と最低賃金に耐えて働き、 怪我をすれば労災どころか解雇で追い出される工場で、労働者たちはギターを作った。

そのようにして生産されたコルト・ギターは、 2002年にはサムスン電子・永安帽子などと共に産業資源部の「世界1位市場占有率商品」に選ばれ、 世界市場の30%を生産・流通する代表ブランドに成長した。 200万ウォンの資本金でギターを作り始めてから30年で、 朴栄浩は仁川のコルトと大田のコルテック、インドネシアのPTコルトと中国のコルテック大連、そしてコルト・ギター販売専門店のギターネットまで、 五つの法人を事実上所有する1200億ウォン台の資産家になった。

貪欲の疾走に向かう無理、黒字整理解雇と物量海外移転で偽装廃業

しかし満足しなかった。 2003年を過ぎると朴栄浩は海外の工場に大規模な施設投資をして国内工場の生産を減らし始めた。 1997年から生産装備と技術を海外の工場に移転し、海外の受注はソウルのコルテック本社が専門に担当して国内外の工場に配分し、 国内工場の生産物量を意図的に減少させた。 そうして海外で物量を引き出して国内の工場の経営難を招き、整理解雇と偽装廃業を強行した。 2005年11月から循環休職を繰り返した仁川のコルト工場で、2007年1月に整理解雇計画を発表し、2008年8月31日付で工場を閉鎖した。 表面化した雇用不安で2006年に労働組合を作った大田のコルテック工場も2007年4月、 一方的に休業を公示し、7月10日付で廃業を断行した。

コルトは1997年から2005年まで、191億ウォンの累積黒字を記録し、 その間2006年だけで8億5千万ウォンの赤字が発生、 コルテックは設立以後、一度の赤字もなく1996年から2007年まで878億ウォンの累積黒字を記録する絶好調の企業だった。 国内のコルト・コルテックと海外法人は、すべて朴栄浩の1人支配構造の下で 「コルト」ブランドのギターを生産する一つの企業体なので、 コルトとコルテックを分離すること自体が無意味だ。 海外工場に物量を集め、国内工場の物量減少を理由として強行した整理解雇と偽装廃業は、 勤労基準法24条の「経営上の理由による解雇の制限」で最初に規定される 「緊迫した経営上の必要」という要件とは何の関係もない朴栄浩の欲でしかなかった。

労働者たちは闘争に立ち上がった。 非人間的な待遇、最低賃金で働きながら、コルト・ギターを世界的なブランドにしたのは労働者たちだった。 窓のない工場で指紋がすりへるほど紙やすりをかけ、飛びちるホコリと有機溶剤を吸いながら痛まない関節がないほど酷使され、 十年、二十年の貴重な生活の時間を捧げてきた職場を愛していた労働者たちだった。 自分たちの血の汗で日々成長した会社が、 自分たちが稼ぎだした金で海外に工場を作り、機械を持ち出し、物量を集める過程を見守ってきた労働者たちは、素直に退くことはできなかった。

仁川コルトと大田コルテックには職場を取り戻そうとする労働者たちの座り込みテントが作られ、毎日のようにソウルのコルテック本社前に行って工場を運営しろ、交渉に出ろと要求した。 2007年11月には復職闘争をしていたコルトのイ・ドンホ組合員が焼身を試み、 2008年10月にはコルテックのイ・イングン支会長が楊花大橋周辺の高圧送電塔に上がって20日も断食して一か月間の高空籠城を行った。 命賭けの闘争を無視する朴栄浩に会うために、2008年11月25日にコルト・コルテック組合員数十人がソウルのコルテック本社で占拠座り込みを試み、全員連行されることもあった。

続くコルト・コルテック戦いが少しずつ知られ始めると、 朴栄浩は2010年にコルテック文化財団を設立して「共感・分かち合い・疎通」をモットーにコルト・ギターのイメージ向上のための文化支援事業を始めた。 文化疎外地域の住民と施設にギターを寄贈し、ギターの英才を発掘して競演大会を開くといった欺瞞的な社会貢献事業により、 黒字整理解雇と物量海外移転偽装廃業に対する国内外の非難の世論を揉み消そうとする試みだった。 しかし、金と偽善で闘争の意志と真実を隠すことはできなかった。 無返答と無視を続ける資本に対する数十人の労働者の孤独な戦いに、 時間が経つほど関心を持って連帯する人々が増えた。 高空籠城と本社占拠座り込み以後、コルト・コルテック闘争は新しい局面を迎えるようになる。

追い出された通り、時間が止まった工場で蘇る空前絶後の連帯

何十年もギターを作ってきた労働者たちが一日で街頭に追い出され、 焼身し、高圧送電塔に上がって戦っているという知らせが伝えられると、 文化連帯と闘争を支持する文化芸術家が支援を始めた。 歌の夢を育てたギターを作ってきた労働者たちの闘争を一足遅く知った彼らは、 2008年12月、弘大前のクラブ・パンで「あなたに生活の歌を聞かせてあげたい」という献呈コンサートを一週間開いた。 こうして始まった音楽家の連帯は、今まで毎月最終週の水曜にクラブ・パンで開かれるコルトコルテック水曜文化祭につながっている。

2009年の3月から2011年の1月までは、世界的な楽器博覧会が開かれるドイツと米国、日本へと六回の遠征闘争に行ってきた。 生産量の絶対多数を海外受注と輸出に依存するコルト・コルテックの労働弾圧の実状を知らせ、 工場の正常化に圧力をかけるために、国境を越えた気持ちが集まった。 遠征闘争を通じてコルト・コルテック労働者の戦いを支持する国際ネットワークができ、 コルト・ギターの重要な納品業者のフェンダー(Fender)社との懇談会と真相調査が行われ、 レイジ・アゲインスト・ザ・マシンのギタリストのトム・モレロとボーカリストのザック・デ・ラ・ロッチャを初めとする世界有数のミュージシャンが積極的に闘争を支持する意志を表明し、大きな問題になった。

2011年の春からは、コルト・コルテックの労働者たちが仁川のコルト工場で共同で座り込みを始めた。 一つの資本に対抗し、一つの空間で一緒に戦い始めたことで、 闘争はさらに固くなり多彩になった。 使用者側の断電・断水のために、暑さと寒さに耐えながら少数の労働者が守っていた工場は人のぬくみが感じられるコルト・コルテック・ギター労働者の家として新たにスタートした。 貪欲の資本が離れた工場には、美術家の作品と音楽家の歌、宗教家の祈祷が宿り、 大小の連帯の足が続いた。 工場は空間が必要な芸術家の作業室になり、そのまま展示会場にもなり、コンサート会場にもなった。 いつ用役が押しかけるのか、いつまた追い出されるのか分からないが、 ギター労働者と連帯する気持ちは集まり続け、 彼らの笑いとおしゃべりとざわめきで小さな解放区になった。

何よりも大きな変化は、労働者が作り出した。 生計の手段として無数に作ってきたのに、直接演奏する意欲も余裕もなかったギター、 解雇から5年間は触ることもなかったギターに、楽器として出会った。 二台のギターと一台のベース、そしてパーカッションのカホンをラインアップとする4人組のコルト・コルテック・ギター労働者バンド、コルベンが結成された。 2011年12月、クラブ・パンの水曜文化祭でデビューしたコルベンの活動は、 活発に3年間続いている。 徐々にレパートリーを広げて披露するコルベンの舞台は、 相変らず少し粗雑で笑いも出るが、工場に戻るために闘争する切実な気持ちは歌と演奏にそのまま込められ、聞く人に伝わる。

労働者たちは「振動ジェリー」との出会いを通じ「九日目のハムレット」で演劇の舞台にも立った。 躍動的な連帯、そして挑戦と変化を全身で受け入れた労働者たちの努力と勇気で誕生した舞台だった。 地下の小劇場を埋めた観客の熱気と大学路の演劇人の注目の中でアンコール公演も行った。 闘争を描いたドキュメンタリーも作られた。 キム・ソンギュン監督の「ギター話」(2009)と「夢の工場」(2011)が釜山国際映画祭と劇場で上映され、カメラを持って現場で一緒にする監督は、闘争が勝利する時、 三番目のドキュメンタリーを作る計画だ。 ノンクル監督はミニドキュメンタリー「工場」(2013)で、ガス充電所に変わってしまった仁川のコルト工場座り込みの日常と最後の瞬間を描き、 壊して消そうとしても消えない連帯と闘争の時間が貴重な記録として残った。

苦しい闘争の過程で、労働者たちにとって「ギター」は新しい意味を持って続々と続く連帯の根になった。 今まで500チームを越えるミュージシャンが闘争を支持する舞台に立ち、 無数の公演とフェスティバルが続き、 多くの芸術家たちが搾取と利益の道具に転落したギターに怒り、つらく感じて、それぞれの方式で連帯している。 工場で、クラブ・パンで、またどこかの路上で、ギターを作ってきた無骨な手で演奏し、歌うコルベンと、どの闘争事業場でも会えなかった文化芸術家の奥深い連帯は今も続いている。

▲仁川コルト工場用役侵奪後の工場前の文化祭[出処:コルトコルテック・ギター労働者共同行動]

判決で止められない闘争、法で規定できない人生

2012年2月23日、大法院はコルト・コルテックの整理解雇について交錯した判決を出した。 コルトの整理解雇は不当解雇と判決した。 だがコルテックには大田工場の廃業が全体の経営悪化を防ぐための避けられない措置だったことについての審理が必要だとし、不当解雇の原審を破棄して事件を高等法院に差し戻した。 判決文には企業が全体的に黒字でも、一部の事業部門を閉鎖して整理解雇をすることは可能だという趣旨が含まれていた。 大法院の主審の1人は先日、国務総理候補に内定して巨額の前官礼遇が知られ、非難の世論により辞任した安大熙(アン・デヒ)だった。 この判決は民主社会のための弁護士の会の「2012韓国人権報告大会」で最悪の障害判決に選ばれ、 選定委員は大法院が整理解雇という「地獄の門」を開いたと評した。

法による最低限も考慮しない裁判所の判決が続いた。 2014年1月10日、ソウル高等法院は自分たちが選任した公認会計士の鑑定結果までひっくり返し、 コルテックの整理解雇は正当だという政治判決を出した。 6月12日の大法院の宣告も違わなかった。 「解雇は殺人」という言葉がスローガンではなく、労働者たちの死で立証されているのに、 資本の利益のために労働者の人生はいつでも捨てていいという力の論理が裁判所の正義に化けて繰り返された。

不当な整理解雇の判決にしばらく笑っていたコルトの労働者たちにとって、現実は苛酷だった。 朴栄浩は判決を履行するどころか3か月後にまた整理解雇を通知した。 仁川工場を廃業した後、コルト楽器は法人の事業目的から楽器製造・販売などをすべて削除して、動産・不動産の賃貸業だけを残した。 国内ではもう楽器を生産しないと言って仁川工場建物と敷地を売却した。 だが2012年12月、時効20年のコルト楽器の商標権を更新し、指定商品としてギター、電気ギター、電子オルガン、電気オルガン、ピアノなどを登載した。

一方、彼らの法は厳しく執行された。 コルト・コルテック闘争の拠点であり、ギター労働者の家、機械がなくなった空間を芸術と連帯で埋めた仁川工場に撤去代替執行の許可が出された。 2013年2月1日、正月連休前の冬の朝、予告もなく押しかけた警察と用役は、 眠っていた労働者を追い出して工場の入口を封鎖した。 知らせを聞いて駆け付けた人々と共に翌日再進入に成功したが、 2月5日に最後まで残っていた13人が全員連行され、労働者たちは路上に追い出された。 資本と法は労働者の闘争を踏みにじり、連帯する文化芸術家の作品をゴミ扱いして壊した。 労働者たちは工場正門前のテント座込場で闘争を続け、 青春を捧げた愛憎の工場が消える姿を見守らなければならなかった。

2013年4月17日、コルト・コルテックの労働者たちは6年間戦いながら、 どうしても言い出せなかったコルト楽器の「不買」を宣言した。 また、音楽家と文化芸術家の支持を集めて「No Cort」流浪文化祭と不買署名などにより、 搾取と利益に没頭するばかりのコルト・コルテック資本の素顔を知らせる活動を本格的に始めた。 これに呼応するかのように、闘争を支持するインディー・ミュージシャン19チームが参加するフェスティバル、「コルト火の海、私たちが本当のコルトだ」が8月に弘大前の路上で開かれ、 コルテック文化財団の茶番で一足遅く闘争を知ったシン・テチョル、チェ・イチョル、ハン・サンウォンといった国内最高のギタリストが12月に 「ギター・レジェンド、ギター労働者と会う」の舞台に立った。 自由と抵抗のギターを演奏し、労働の価値がよみ返るギターを夢見る人々の気持ちが出会い、長い闘争と共鳴した。

2014年4月24日には宗教界、法曹界、政界との連帯で、コルト・コルテック・ギター労働者の闘争の社会的な解決を模索する文化祭「心の声」が開かれた。 1年、2年と闘争するのは問題にもならず、8年、10年闘争しても少しも動じない資本と権力だが、 戦いをやめない限り、連帯の心はますます増える。 工場に戻るために数え切れないほどの戦いと変身を厭わない「平凡な」労働者と、 その横で限りなく連帯する人々とが、今日を生き、明日を戦う力を交換し、 そうして今まできた。

闘争2000日を越え、新しく1日目の戦いを始めるのだと気持ちを固めた日から、 また2年という時間が流れた。 そんな戦いの日々がそのまま人生になり、闘争の終止符を打つのは労働者の役割だ。 金も法もない場所で、遅くてはあっても少しずつ進みながら、 さらにしっかりした戦いを準備するギター労働者と共に、 「われわれは着実に生きていく」。

[出処:金属労働者(シン・ドンジュン)]

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2014-06-24 08:03:00 / Last modified on 2014-06-24 08:03:01 Copyright: Default

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