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〔週刊 本の発見〕『暴動の時代に生きて 山谷'68-'86』 | ||||||
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再び流れ出す抵抗の伏流『暴動の時代に生きて 山谷'68-'86』(中山幸雄 著、上山純二/原口剛 編、月曜社) 評者:大場ひろみ
中山の前口上に続き、広大グループの出会いから始まる物語は、のっけは青春小説のように青臭くて眩しいが、彼らのその後(75年、船本洲治は沖縄で焼身決起⦅自殺⦆、鈴木国男は大阪拘置所で虐殺される)を知る身には、その青ささえ既に胸に痛い。 大学にほとんど行かず、釜ヶ崎などで日雇い労働を経験していた船本と違って、おのぼりさんのように東京へ出て来た中山には、山谷が何処にあるのかもわからなかった。そんな「学生上がり」の四人が、暴動で捕まった労働者の救援活動から始めて、活動家リーダーの不正を暴いて追放したり、様々な名称の組織を起ち上げては崩壊させたり育てたりしながら、山谷の町に自らを否定されつつ、経験を積んだ。 意外なことに中山は山谷で暴動にあっていない。が、68年10.21の国際反戦デーで騒乱を経験し、「やっぱし胸騒ぐというのか、こういうのが革命というのかな」と思っていたが、「いまではまったく間違った認識だと思います」(中山)。 ただ、その自覚はずっと遅れてやってきたようだ。自分たちの中にあった山谷に来た動機の一つである「新左翼のスローガン」を捨て去るには、時がかかった。 また、68年11.5に、美濃部都政下の東京都庁へ10.25に提出した、越冬のための緊急失業対策、暴力手配師を取り締まれなどの要求に対する回答を求めて乗り込んでいったところが乱入事件になり、団交をしていた30名程が逮捕される。当時、対都庁交渉は闘争の中心に据えられていたが、船本洲治はこれを暴動との関係で「山谷にアメ玉をくれないから暴動が起きるのだと」「都庁に対する圧力闘争にすりかえられてしまった」と後に総括した通り、彼等は「改良闘争が改良すら許されない山谷の状況の中で、山谷労働者は改良を求めているんだ。これは決して改良主義ではない」(船本)と、一部の新左翼の、改良主義といって現場での具体的な改善要求を対権力闘争ではないと貶める考えの真逆に立ち、「現場闘争」、彼等の定義で「横暴な業者や低賃金の業者と現場で闘うこと」を「発見」していく。 この頃に彼等が生み出した冊子などがユニークだ。そもそも毎日のようにビラを2千枚も刷り、労働者に配るのだが、「市民社会みたいにビラを取らない人はいない。ビラをやったらみんな取るわけだから、いくらあっても足らんのよ」(中山)。ビラ以外に『裸賊』という雑誌も作り、『土方学入門』(初心者向け山谷生活の手引き)や『労働者語録』(現場で問題が起こった時の対処法をQ&A形式で解説)⦅共に1972年⦆を日常の闘いの道具として発行した。 しかし現場闘争を繰り返すうち、闘争する相手のオヤジ(下請けの元締めや飯場の運営者など)が在日だったりする例が重なり、ただ攻撃するだけでいいのかという疑問が浮かんでくる。そんななか73年、釜ヶ崎へ行っていた船本が『釜ヶ崎反入管通信』というビラをあいりんセンターで撒いた(当時山谷と釜ヶ崎は労働者が行き来し情報も行動も連動していた)。「鹿島建設は戦前・戦中タコ部屋だった!」で始まるこの文は、現場での対立から下層労働者の中に出てくる排外主義を警戒し、戦中中国人労働者が蜂起して弾圧・殺害された「花岡事件」も取り上げ、朝鮮・中国からの強制連行を含む「労務者」の歴史を提起したものだ。別の文で「われわれは、朝鮮人労務者・中国人労務者の中に労務者としての歴史的・普遍的な運命をみる」ともいう。原文では「労務者」に強調のルビ(点)が振られている。このルビの意味は、「民族性より階級性を船本は強調していた」(中山)というが、「階級性」とは、戦前から現代に続く帝国主義に組み敷かれている「労務者」同士の連帯を指し示す言葉と見える。 この現場から自覚された反「日本帝国主義」が、山谷に入っていた黒川芳正らの「東アジア反日武装戦線・さそり」の行動にも影響を与えた。中山は73年8月、広島へ帰るが、山谷とも行き来し、79年山谷マンモス交番の警官殺害で逮捕された礒江洋一を含め、東アジア反日武装戦線ら仲間の救援が活動の範疇に入る。また韓国で起きた「南朝鮮民族解放戦線」(当時の朴正熙独裁政権へ反対する人々の地下組織)への弾圧・大量逮捕事件(79年10月)に対する救援運動も広島で開始する。救援する被逮捕者をそれぞれ分担したが、中山が担当したのは金南柱という詩人だった。中山らは金南柱の詩の翻訳に取り組み、詩集『農夫の夜』(87年凱風社)を世に出した(87年民主化に伴い88年末全員釈放)。 長くなるので80年代以降の山谷の過程には触れないが、ここまででも死屍累々であり、決して輝かしい歴史とはいえない。私見だが、私は「大正デモクラシー」当時の、底辺労働者の中に入り活動していたアナキストや、テキヤ自身が社会主義運動に身を投じた大正後期のビラ撒布運動(webマガジン『現代の理論』42号8月発刊で筆者が関連記事執筆)などに共通項を見出す。朝鮮人労働者や水平社運動と連帯し、資本主義の横暴に抵抗する彼等は弾圧に屈していったが、寄せ場における「流動的下層労働者」(船本)を世界に対峙する原点とみる発想は、彼等の伏流が再び地上に浮かび上がって流れを共にしたように思え、その流れはまたいつか浮上するのだと夢想する。 Created by staff01. Last modified on 2025-07-24 14:01:36 Copyright: Default |