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毎木曜掲載・第396回(2025/7/17)

資本に放つ石つぶて〜私とマルクス

『経済学・哲学手稿』(国民文庫/大月書店、カール・マルクス著、藤野渉訳 第1刷1963年、原著1844年) 評者:那須研一

 私の生まれは1960年代の新潟県長岡市。駅前繁華街の反対側「学校町」の木造小住宅。道路を挟んで真向かいに、意匠を凝らした和洋折衷のモダニズム建築の、新大工学部の校舎がありました。

 「道路」と言っても土埃の舞う空き地。通行するのはせいぜい自転車か荷車。二足歩行を始めて間もない私と近所の幼児の遊び場。小枝でいくつも円を描いて「けんけんぱ」。古釘を地面に投げつけて「陣取り」。3時には隣家の茶の間でドーナツ。思えば幸福な日々でした。

 幼稚園に上がる頃に環境が一変。地べたがコンクリートで舗装され、自動車が我が物顔で高速走行。近所の紐帯も断絶。「いってらっしゃい」のあとに「車に気をつけろ!」。クルマの方こそ俺に気をつけろ!お前ら何様だ。

 家族の証言によると、5歳の研一君(私)は、うちの前をびゅんびゅん走る車めがけて手当たり次第に石ころを投げつけていたそうです。モータリゼーション粉砕!

 高校の教員だった父の書棚には『共産党宣言』『空想から科学へ』『ドイツ・イデオロギー』『賃労働と資本』…大学前の園児、習わぬマルクスを読む。許すまじ、資本主義。(*写真=若きマルクス)

大月書店版マル・エン全集の配本が始まる。『フォイエルバッハ論』『ドイツ農民戦争』『家族・私有財産・国家の起源』…上京、進学後に文庫本で手にとったのが、マルクス26歳の学習ノート『経済学・哲学手稿』。先達アダム・スミス、泰斗ヘーゲルと格闘しながらオリジナルの思想を紡ぐ。

「私的所有はわれわれを非常に愚かで一面的なものにしてしまったので、ある対象がわれわれの対象であるのは、われわれがそれを持つときにはじめてそうなのである、つまりそれが資本としてわれわれにとって存在しているか、それともわれわれによって直接に占有され、食われ、飲まれ、われわれの身につけられ、われわれによって住まわれ等々、要するに使用されるときはじめてそうなのである。もっとも、私的所有は、占有のこれらすべての直接的実現そのものを、再びただ生活手段とのみ解するのであって、それらが手段として奉仕する生活とは私的所有の生活、すなわち労働と資本化なのである」(第三手稿[私的所有と共産主義]151-152ページ)

 まさにその通り。食うために働き、働くために食う。労働者は人間らしさも労働の成果も手離し(=「疎外」)、資本に奪われる。労働者は、働けば働くほどやせ細り、資本はますます肥え太る。余計な自動車道路を作って環境破壊。しかし労働者は、食うためには働くしかない。働くためには食わなければならない…奴隷生活の無限ループ。

 後年、マルクスは『資本論』で剰余価値の生成過程=労働力搾取と価値増殖のメカニズムを明らかにして変革の展望を示した。その原点は『手稿』。私を革命へと鼓舞するのは遊び場を奪われた怒りと青年マルクスによる閃光的直観だ。「私的所有の止揚は、すべての人間的な感覚と性質の完全な解放である」。(同、152ページ)

 今こそ私たちは「私的所有」=疎外労働と資本化された現実に対して、万国の労働者の団結で立ち向かい、資本主義を粉砕する本当の石つぶてを放たねばならない。

(付記:「私的所有」の原語はprivateigentum。同書の岩波文庫版『経済学・哲学草稿』では「私有財産」と訳されている)


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