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LNJ Logo BENTO日記「ツカレタネー」〜外国人が支えるコンビニ工場
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レポート : 堀切さとみ

 29年勤めた職場を早期退職した。しばらく羽を伸ばしていたら、数か月後に市民税や社会保険料、年金の請求が届く。金額をみて目玉が飛び出さんばかりに驚いた。組織を飛び出してみて、初めて社会の常識を知ったのだ。
 手伝い程度のアルバイトはしていたが、本気で仕事を探さなくては。新聞の折り込みに入っていた「コンビニ弁当の工場」が目に入った。時給千円チョットだが、家から近いし、何もやらないよりはいいだろう。
 面接に行ったのは、まだ残暑厳しい九月末のこと。その場で採用が決まり、翌週ビデオ研修があるので、受けにきてくださいと言われた。そのビデオ研修に来たのは10名で、日本人は私だけだった。きけば外国人が8割なのだという。「久しぶりの日本人だ」と、社員は喜んでいたらしい。

2023年10月〇日
 工場はとにかく大きい。「炊飯」「調理」「加工」「清掃」など、いくつもの職種に分けられていて、私は出来た製品を店舗ごとに「仕分け」する部署だ。
 玄関を入ってから作業場にたどり着くまでが大変だった。衛生管理が厳しいため、防御服みたいな作業着に着替え、毛髪対策、消毒、手指チェックなどの様々な工程をくぐりぬけるのだが、まるで迷路みたいだ。引率してくれた日本人女性は、この工場で40年働いているという。「大変な仕事だけど、ここしかなかったのよね」という。

 仕分け室には「番重」という箱がぎっしり置かれた棚が並んでいる。加工調理された弁当やおにぎりを、それぞれ指定された数だけ番重に詰めていく。簡単な仕事だけど、ひたすら量が多い。隙間なくきれいに並べれば気持ちいいのだが、こだわっていると配送の時間に間に合わない。午前中ですでに筋肉痛、昼食時はグッタリ、大丈夫かなあ。
 「最初がキツイのよ。慣れれば大丈夫。月曜も来てね!」と日本人の社員に励まされるが、う〜ん、どうだろう。何でも「迷路」がイヤで辞めた人もいるのだとか。つまり一日で来なくなる人は結構いるということ。
 10時半から夜8時まで。もはや歩くのもツラかった。「階段は手すりを使うように」と掲示があるが、皆そうしている。仕事を終えたロッカー室はネパール人とフィリピン人の世界で賑やか。みんな目がきれい。彼女たちはもう何年もやっているベテランだ。コンビニのお弁当とパンとおにぎりは、外国人労働者が支えている。

11月〇日
 一ヶ月半が過ぎ、初めて日本人の新人パートと一緒になった。若いパートは外国人ばっかりなので、思わず「日本人ですか?」と聞いてしまった。私は週二回でやっとだというのに、彼女は週五回。しかも子どもを保育園に預けてくるというのだから凄すぎる。今日で四日目だそうだが、初日はお弁当が喉を通らなかったという。「私も箸が持てなかった。けど、そのうち慣れるよ」と励ますが、本当に最初はどうなることかと思った。
 仕事が終わるとスーパー銭湯に行って、マッサージ代わりにジェットバスを腰やお尻にあてて、次の出勤までにどうにか筋肉を回復させていた。最低賃金の一割が、スーパー銭湯代に消えていくのだ。それでも体はちゃんと労働に馴染んでいく。

 それにしてもネパール人やバングラ人たちは頼もしい。「コッチジャナイヨ」「ソレハダメネ」「ヤサシーネ」。短い言葉で必要なことを教えてくれる。体はきついが、何だか清々しい。
 夜8時。仕事を終えて送迎バスを待つ外国人のパートたち。入れ替えに、これから勤務に入る外国人がバスに乗ってやってくる。24時間365日稼働する不夜城を背に、自転車のペダルをこいで帰路につく。

11月△日
 10個ある仕分けの棚のうち、今日は私以外全員外国人だった。皆、黙々と作業しているが、たまに商品が来ない時間は、あちらこちらから外国語でおしゃべりが飛び交う。もちろん私にはわからない。彼女たちのまったくわからない会話のシャワーを浴びていると、まるで映画の中にいるような感覚になる。

 最初に仲良くなったのは、25歳と40歳のネパール人だった。少し先に入社した二人は、片言でいろんなこと(適当なサボり方とか)を教えてくれた。痛む腰を伸ばしていると、25歳の彼女は「ツカレタネー」と体に絡みついてくる。そうやって、私を外国人従業員の世界に招き入れてくれた。いつか、ありがとうのつもりで「ナマステ」と言ったら「それはコンニチハのイミね」と言われた。ありがとうは「ダンネバード」。初めてにして覚えたネパール語だ。
 若い子も年配の人も、まつげが長い彼女たちの笑顔は最高にチャーミングで、疲れも吹き飛んでしまう。笑顔はバンコク共通語なのだと思う。

 トイレで話しかけてきた女性も美しかった。彼女は「6時間勤務で休憩ナシ」という。「あと30分長く働けば、休憩貰えるのに」と言ったら、子どもを預けているから少しでも早く帰って顔が見たいのだそうだ。異国の地での生活は、どんなに大変だろうかと思うけど、私の方が彼女たちに守られていると感じる。

 ネパール人、バングラディシュ人、フィリピン人、・・・一緒くたになって同じ現場で仕事をしていると、それだけで仲間だと思う。汗をかきながら外国人と一緒に番重の移動作業をするのは、無条件に楽しい。彼女たちの国を「敵だと思え」と言われる日が来ても、ノーと言える自分でありたい。

2024年1月〇日
 25歳のネパール人が「帽子の色が変わった」と喜んでいた。半年働くとグリーンから黄色になるのだ。
 帽子の色が変わったところで、氏名が帽子に印字されるくらいのもので、給料が上がるわけではない。それでも「ヨカッタネ〜」と彼女の頭を撫でてあげた。きっと私は半年後はここにはいないだろうと思いながら。  ところがその数日後、私も帽子の色も変わったのである。どうやら日本人は三か月で変わるのだとか。
 帽子の色より自給アップの方が嬉しいんだけど、今まであまり話したこともない人たちからも「おめでとう」「出世したね」と言われ、私のことを「オネーサン」と呼んでいた外国人たちが、たちまち「ホリキリサーン」と連発するようになった。

 その日の午後、違う部署に回された。腰への負担は少ないが、首が痛くなるパンのラインの仕事。頸椎ヘルニアの私は「ヤバイ!」と途中何度も代わってもらおうとした。しかし、私一人が抜けると作業は止まってしまう。班長の外国人が「上バカリ見チャダメ!」と言うのでナニクソと頑張ったら、終わる頃には「ホリキリサン、初めてナノニ早カッタネ〜」と褒めてくる。

 次の出勤日。掲示板をみるとやはりその配置だった。
 「大丈夫かな、でもやるしかないか」。
 そう思っていたら、今まで無愛想だと思っていたハマさんというフィリピン人がコソッと教えてくれた。
 ここは皆が断る作業なのだ。黙っていると、いつまでもやらされるよと。
 それで思い切って、班長に事情を話した。「そこを何とか」と言われるかなと思っていたら「あ〜、それじゃ大変だ。無理してやることない」と言う。あっけないくらい簡単なことだった。
 日本人はなんで我慢してるんだろうと、外国人は思うのだろう。私はそういうところが典型的な日本人なのだ。たかだかバイトなのに。なんで体を壊してまで働く必要がある?
 そんなことを外国人に教わった。

1月△日
 珍しく朝礼があった。九州にある系列会社で、送迎バスの運転士が居眠り事故を起こし、乗っていた外国人従業員20人がケガをしたというのだ。送迎バスの運転士も大変だなと思う。しかし、会社にとっては1人の運転士よりも20人の従業員の方が大事。いわく「20人も労災で働けなくなり、工場が回らなくなっている。バスに乗る人はシートベルトをするように」とのこと。

 休憩時間は食堂かロッカー室で過ごす。食堂のテーブルには衝立があり、隣りの人と話をするでもなく黙々とお弁当を食べる。ロッカー室では、ダウンコートを敷いて仮眠する人がいたり、スマホで家族とビデオ通話する人も。聞けば「下の子は日本に、上の子どもは母国に残してきた」という。


*工場内の食堂

2月〇日
 「節分」なんてすっかり忘れていた。豆まきは風情があるけど、恵方巻なんて買ったことがない。
 その恵方巻のおかげで、コンビニ仕分けのバイトは早出&残業の大忙しだ。どうせ大量に戻ってくるんでしょ?と聞くと社員曰く、フードロスが問題になってるから以前ほどは沢山作らないけれど、店頭にたくさん置いてある方が見栄えがいいから注文が多いのだとか。
 ホームレスのために、コンビニの物置に売れ残った弁当を置いておく店長がいる。子ども食堂みたいなことをやってたコンビニもあった。期限切れが近い商品を半値で売る店もある。でも、やっぱりオーナーの大半は、廃棄を前提に見栄えを気にするものなのだろう。

 このところ何度か、心が折れそうな仕事をしている。まだ賞味期限前の総菜やサンドイッチを、容器と中身に分けて廃棄するのだ。被災地に持って行けばいいのに。きれいにパッケージングされた商品は、人々の口に入ることもないまま、店に送られる前に捨てられる。外国人はこの仕事をみたらどう思うのか。調理、加工、製造、すべての現場で過酷な立ち仕事をしているというのに。モッタイナイと思う気持ちを殺して、単なるモノと言い聞かせて、ビニールを乱暴に剥がす。

2月△日
 パンの仕分けライン。頸椎ヘルニアを理由に断ったら、あっさりと違う部署に回してもらえた。
 「皆が断る作業なのだ」。そう教えてくれたフィリピン人のハマさんは、今日もそのラインで仕事をしている。
 日本人だから断ることができるが、外国人はそうはいかない。私は彼女に助けられたと思っていたが、彼女はおもしろくはないだろう。「日本人は辞められちゃ困るんだよ」と素っ気なく言った。せっかく仲良くなりかけたのに。

 AIがバスを運転し、高齢者の介護をし、創作活動さえやろうという時代。お弁当にブロッコリーや唐揚げを置くロボットなんて、今か今かと出番を待っている。それなのに、いまだに人が手作業でやっているのは、ロボット一台よりも人間の方が、まだ安上がりだからだ。そして、この単純労働がなくなったら、外国人は困ってしまうだろう。
 人間を楽にするか、人間の仕事を奪ってしまうのか。
 現場にいると様々な思いが錯綜するが、とりあえずロボットは、高線量の放射能の中で動けるものだけでいい。

2月◇日
 外国人が8割の工場で働き始めて5か月。
 いろんな国の言語が飛び交うが、英語やハングルやドイツ語やフランス語やスペイン語じゃなくて、まるっきり想像もつかない言葉ばかりだ。彼女たちが母国の人どおしで不満や悪口を言い始めたら、日本人だけではなくて他の外国人も入っていけない。
 「日本人は優しくしてくれる。でも、フィリピン人の中に差別があるのが嫌だ」と、54歳のハマさんが言う。彼女は、きつい仕事に回されそうになった私に「ちゃんと断れ」とアドバイスしてくれた。この工場で働き始めて5年。それなのに相変わらず底辺で働く彼女にとって、指図してくる同胞の社員の存在が忌まわしいのだ。

 ベトナムから来た23歳の技能実習生は、日本に来る1か月前に、初めて日本語を勉強したという。「ニホンゴムズカシイ。トクニカンジ」「日本人だって漢字は書けないよ。頑張ってね」と言うと「ガンバラナイト!」と弾んだ声で言う。
 そんな彼女は日本が大好きで、理由は食べ物が美味しいから。「特に焼肉と寿司!」と屈託ない。3か月たったら、ベトナムに帰っていく。
 大学時代にアルバイトした喫茶店には、中国人がいた。中国人だというだけで虐めたり、差別する日本人は沢山いた。ジャパン・アズ・ナンバーワンだった時代だ。
 今は違う。日本で働く外国人は、日本人と対等かそれ以上に強くてたくましい。日本という異国の地で、みな自由に自分なりに生きている。

【今日でOWAKARE】
 ここでの共通の言語はローマ字。「BENTO(弁当)」「KENBEN(検便)」「BANJYU(番重)」など。そして何はともあれ、下手でも何でも、日本語を介して会話が成立する。
 せっかく外国人と一緒にいても、ことばひとつ覚えられないままに、OWAKAREの日が近づいていた。班長は「せっかく慣れたのに」と絶句した。一日で辞める人も多い中、5ヶ月で辞めていく日本人というのも罪深い。
 私の1ヶ月後に入社したМさんは、数少ない日本人アルバイトだ。今日で最後という朝、Мさんは「この職場、本当にヒドイ。これだけ働けば、なんだってやれるよね。解体作業だってできる。それで最低賃金なんて」  日本人ならこんな給料で働いたりしない。外国人だから耐えている。Мさんの憤慨は日増しに大きくなっている。
 朝、Мさんにコソっと「今日で最後なんだ」と言った。
 「そっか、よかった。私も早く次の仕事を見つけて辞めたい」と言われた。彼女は私と違って週五日も働いているから、もっと職場の内情を知っているのだろう。
 フィリピン人のハマさんにも打ち明けた。「え、ドウシテ?」みるみる顔色が変わるのが分かった。でもすぐに「今までありがとう。タスカッタヨ」と言ってくれた。
 最初に仲良くしてくれたネパール人の二人には、ロッカーにマグネットを貼り付けておいた。<ありがとう>と、初めてネパール語で書いたメモと一緒に。二人のことは忘れない。
 Мさんから聞いたのか、忙しい棚作業の合間をぬって「おつかれさま」と声をかけてくれる外国人たち。やさしくて、それだけに寂しさがつのる。いい人もいればイヤな人もいた。心のどこかで「日本人は辞められていいな」と思っているかもしれない。
 帰宅後、Мさんから「帰りのバスの中で泣いたよ」とラインが来た。彼女は外国人と一緒に会社のバスに乗って帰る。
 そんなにたくさんのことを話したわけではない。休憩時間もクタクタで、出てくるのはカタコトの日本語で。
 それでも、ここで働いた日々のことは、きっと忘れないだろう。


Created by staff01. Last modified on 2024-03-07 22:54:49 Copyright: Default

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