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●映画「地の塩」「フツーの仕事がしたい」のみどころ

労働者の文化はどこから生まれるのか〜精神の境界をこえる

 木下昌明

 今度レイバーフェスタで上映される『地の塩』に、わたしの好きなシーンがあり ます。これは実際にあったアメリカの鉱山労働者のストライキ闘争をもとに描いた 映画ですが、そのなかで婦人たちのピケに、参加できないで見守っていた女主人公 のエスペランサが、婦人たちともみ合い拳銃をとりだす警官をみて、とっさに自分 の靴をぬいで叩きおとすところ。彼女はそれまで、組合のたたかいは女の出る幕じゃ ないという夫の言いなりでしたが、このアクションをきっかけに赤ん坊を夫にあず けて猛然とたたかう女性に変身するのです。抑圧された者がその呪縛された精神の 境界をこえる瞬間がそこにとらえられていました。一瞬ですが、そのときの目を輝 かす彼女の表情がわたしの脳裏にやきついています。

 この彼女の軌跡をみればおわかりのように、人はその抑圧をはねのけるとき、理 論で学んだり仲まと討論してわかったつもりになっ ことです。映画には、そのた たかう者の主体のあり方が描かれています。その点、わたしはレイバーネットの集 まりに参加していて気づかされることですが、参加者のなかには解雇されてたたかっ た体験者が多いということ−−こういう人々の発言をきいていると、わたしはエス ペランサのそのシーンを連想してしまいます。

 また、これもフェスタで上映される土屋トカチの『フツーの仕事がしたい』のな かで、主人公のトラック運転手が、一度は会社側から組合を脱退させられるものの、 つぎには社長に向かって「組合をやめない」と宣言するシーンがでてきます。それ は昂然と胸をはってといったものではないのですが、それでも自らの意志によって、 かれは被抑圧者としての精神の境界をふみこえるのです。これはエスペランサと同 じで、自分で自分を前に押しやるのです。かれの場合、それには傍らで撮りつづけ る土屋のカメラの力が大きいといえます。

 組合といっても、ここでは顔のないノッペラボウの集団としてではなく、一人一 人が人生をかけて「労働者」を表明していく顔のある存在として描かれています。 わたしたちはこういう自らの境界をのりこえる姿を映像化することが大切で、そこ に労働者の文化たるゆえんがあります。労働者の文化は、出来合いの「文化」では なく、たたかいのなかから生まれてくるものだからです。(レイバーネット日本・ 運営委員)


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