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弱者が歩く千里の行進、キム・ジンスクの希望の歩み

[イシュー(2)]

ユン・ジヨン記者 2021.01.26 08:01

結局、韓進重工業解雇者キム・ジンスクの定年内の復職はなされなかった。 定年1日前の昨年12月30日、 民主労総釜山本部のキム・ジンスク指導委員はまた冷たい道に立った。 釜山市の湖浦駅から青瓦台まで、千里(約400km)の道を歩くという。 2年でガンが再発して手術を受けた直後で、坑癌治療も始まるところだった。 周辺が引き止めたが、彼女は主張を曲げなかった。 12月30日、釜山市湖浦駅の前で キム・ジンスク指導委員とファン・ミラ金属労組釜山梁山支部未組織部長、 チャ・ヘド前韓進重工業支会長の3人が青瓦台に向かって歩き始めた。 果てしなく続く冬の道の上で、彼らは定年最終日と新年初日を迎えた。

そして彼らの足跡とともに他の足が集まった。 解雇されて追い出された労働者と生活の基盤を公権力に侵犯された住民、 そしてもうひとつの世の中を願う市民が彼らと共に行進した。 三人が始めた「希望の歩み」デモ行進は、いつのまにか三十人、そして六十人に増えた。 彼らは互いの存在を確認しながら共に慰労して、互いに連帯しながら歩いた。 1月14日、ワーカーズは亀尾で35年経って自分の職場に戻ろうとする韓進重工業造船所の解雇者キム・ジンスク、 そして彼女と一緒に歩く「希望の歩み」と会った。

韓進重工業の作業服を着たキム・ジンスク指導委員がデモ行進の隊列まん前で力強く歩く。 速度を落としてほしいという注文に歩みが少し遅くなりながら、また速度が上がる。 キム・ジンスク指導委員一人で歩いていれば、すぐに青瓦台に到着しただろうという笑い話も出てくる。 寒波が少しやわらいだとしても、それでも真冬、 デモ行進を初めてすぐ背の汗が固まる。 キム指導委員がデモ行進を始めてから一週間、 釜山には44年ぶりの寒波が訪ねてきた。 厳しい寒さの中で行進するのは苦痛だったようだが、 キム指導委員はデモ行進の初日が一番つらかったという。 からだを支えるのが難しい程強い風が吹いた12月30日、 三人が強引に千里道デモ行進を始めた日だった。

そして同日、韓進重工業はキム・ジンスク指導委員が復職を拒否したという報道資料をマスコミに配布した。 保守報道機関や経済紙は似た内容の記事を吐き出した。 会社がキム指導委員の「再採用」と8千万ウォンの「慰労金」の支払いを提示したが、 労組がこれを拒否したということだ。 それと共に2011年からキム指導委員の賃金を計算すれば、 5億4千万ウォンにのぼるともいう。 いつものように、会社と保守言論は労働者の要求を悪意的に歪め、 金銭的問題に狭小化した。 さまざまな報道で不愉快さが積もるが、 キム・ジンスク指導委員はかなり淡々としていた。 会社の世論化作業も、保守言論の報道方式も、 変わったものがないからだ。

「彼らは金だけでこの闘争を報道しようとします。 闘争する労働者の名誉をなんとかして傷つけようとする意図でね。 当の私は(会社の案を)伝えられていません。 しかし私に先に(会社の案を)提案しても拒否したでしょう。 会社が提示するのは「復職」ではなく「再入社」ですから。 再入社とは、つまり解雇と復職の責任は全く負わないということと同じです。 補償金8千万ウォンも、役員が募金して払うということなんです。 金額の問題を別として、それは積善でしょう。 だから8億ウォンも受け取れません。 金で解決するものなら、すでに86年に解決していました。 その後にも使用者側は着実に金で懐柔しようとしましたし。 2008年にも働かずに月200万ウォン払うといいました。 そんなことは一考の価値も、意味もない金です。 彼らの本質はこれです。 今回も韓進がこの問題を見る水準が如実にあらわれたのです。」

キム・ジンスク指導委員は2020年、定年をむかえたその年に工場に戻れなかった。 しかし現場に戻れない労働者にとって、定年に何の意味があろうか。 キム指導委員も復職なしで定年はないと言う。 「私の時計はまだ工場から追い出された86年で止まっています。 これから35年の歳月が残っているのです。 35年以内には復職できるのではありませんか?」

彼女は35年の歳月を遡る闘争をする。 そしてそれを「時代の復職」の闘争だと話す。 治癒、回復しない歪められた歴史は現在まで残り、労働者の人生を過去に留まらせる。 20世紀の国家暴力と民主労組弾圧の歴史は、 21世紀の労組破壊シナリオになってよみがえり、 そしてまた別のキム・ジンスクが生まれる。 色あせた過去にもうひとつの現在の人生が積もる。 それで彼女の復職闘争は、労働者に向かう国家暴力と民主労組弾圧の歴史を治癒し、正しく立て直す過程だ。 国家と資本が誤りを認め、これを原状回復して、また労働者が死んだり不当に解雇されないように現在を正しく立て直すこと。 彼女の闘争が単にキム・ジンスク個人の復職闘争にならない理由だ。

▲キム・ジンスク民主労総釜山本部指導委員

「軍事独裁政権の時期に解雇された労働者は多いです。 東一紡績、元豊毛紡、YH、コントロールデータ等等。 これらの人は本当に私にとっても大先輩ですね。 70年代に解雇された方の中で復職された人は誰もいません。 80年に代釜山で闘争した三和ゴム、チヤンゴムの労働者たち。 彼らの中でも復職した人は誰もいません。 さらに、その時期の労働運動は民主化運動と認められたのに、 復職することができないのです。 そんな労働者はすでに工場がなくなりました。 復職を要求する空間そのものがなくなるのです。 幸い、韓進重工業は規模が小さくなってもまだ残っています。 70〜80年代に解雇されたすべての労働者の気持ちと私の気持ちは違わないでしょう。 そしてその時期に労働運動を弁護した弁護士が大統領になりました。 もうこの問題を政治的に解決する主体は文在寅(ムン・ジェイン)大統領でしょう。 そのような意味で時代の復職と表現し、それで青瓦台まで歩いているのです。」

韓進重工業、再び垂れた雇用危機の亡霊

変わらない過去はまたある。 整理解雇の嵐が吹き荒れた韓進重工業に、また雇用危機という亡霊が垂れた。 昨年12月、韓進重工業の売却を推進している産業銀行と債権団は、 東部建設コンソーシアムを優先交渉対象者に選定した。 直ちに労働界と市民社会の反発が起きた。 該当コンソーシアムは造船業と関係がない私募ファンドで、 3年の雇用維持義務期間以後、影島造船所を閉鎖して不動産投機開発をするのは明らか白だという批判だった。 国策銀行の産業銀行が投資金回収だけ没頭し、 再び労働者を整理解雇に追いやっているという声も高まった。

文在寅政権は 労働尊重社会を標榜すると話しました。 韓進重工業は産業銀行で管理して、産業銀行は国策銀行です。 しかし売却の方式は朴正煕(パク・チョンヒ)、李明博(イ・ミョンバク)、朴槿恵(パク・クネ)政権のときと全く同じです。 彼らの間で金を回して儲けるゲームです。 労働者の意志はたった一言も反映されません。 売却が透明に進められることでもありません。 労働者は以後、彼らの生存権さえどうなるのか分かりません。 工場を作って守ってきた労働者が、 まさに自分の人生を決める権利がないということはとても矛盾しています。 文在寅政権でも、 過去と全く違わない旧態の方式で売却が進行しています。 最近、産業銀行のイ・ドンゴル頭取が 双竜車に無争議宣言と団体協約を3年単位で契約することを要求したといいます。 私の復職問題では「労使問題なので介入できない」と話した人です。 一つの口で二つの話をするような矛盾した人が国策銀行頭取ということがとても苦しいです。」

大規模な整理解雇の試みで何回も社会的議論を起こした韓進重工業も、 代表的な労組破壊事業場だ。 李明博政権の時期、 会社は労組破壊専門労務法人「創造コンサルティング」を使い、民主労組瓦解を試みた。 韓進重工業はキム指導委員が整理解雇撤回を要求して85号クレーンに上がった2011年と、 会社に企業労組が設立された2012年に総額10億3400万ウォンを創造コンサルティングに入金した。 その後、労組破壊犯罪が社会的問題になったが、 韓進重工業では責任者の処罰などの後続措置は行われなかった。 韓進重工業支会のチャ・ヘド前支会長は 「昨年には金属労組韓進重工業支会が多数労組になった。 すると会社は組合員の範囲にもない技術事務職や研究職職員を企業労組に集団加入させた。 結局、企業労組がまた交渉代表労組地位を持つことになる」とし 「政権が変わっても労使関係は相変らず2011年に留まっている」と伝えた。

「弱者の連帯」になった希望の歩み

釜山市湖浦駅からソウル青瓦台まで。 400キロの距離を毎日少しずつ歩いていく。 何と1か月を超える長い旅行日程だ。 1日1日が積もるほど、さらに多くのキム・ジンスクらが集まる。 全国各地で散って戦っていた人々が出会い、長いデモ行進の隊列を作る。 キム指導委員はこれを「弱者の連帯」といった。

「こうして歩きながら、毎日何度もかっとします。 会社で整理解雇された大宇バス、韓国ゲイツの労働者たちとは初めから共に歩きました。 毎日共に歩きます。 亀尾に入ると旭硝子解雇の仲間たちも共に歩いています。 自分の闘争ではないのに、こうして献身的に合流するのは容易ではないでしょう。 本当に有難いです。 昨日は韶成里のおばあさんを訪れましたが、まず涙を流されました。 それこそ道で続く弱者の連帯と慰労ですね。」

行列の前列には「大宇バス355人不当解雇撤回」と書かれた青いゼッケンをつけた4人の労働者が歩いている。 昨年8月に整理解雇された蔚山大宇バス労働者だ。 金属労組大宇バス支会のカン・ビョンギ代議員は元日から希望の歩みデモ行進に参加した。 そして青瓦台までの長い旅行日程にも同行しようとしている。 半年以上空の工場で座り込んでいる解雇労働者たちにとって、 キム・ジンスクの解雇は他人事ではない。 生存権を奪われた労働者にとって、人々の連帯がどれほど大きな力になるのかもよく知っている。

「昨年3月30日、会社が突然、工場閉鎖を通知しました。 コロナ19で経営が悪化したという根拠ないいいわけをしました。 会長は会社を買収した時から正規職がない会社を望んでいました。 でなければ工場をなくすという考えでした。 コロナを口実にして工場を閉めるのです。 労働者の反発にもかかわらず、会社は8月に整理解雇を通知して、 355人の生産職労働者がすべて雇用を失いました。 会社は解雇回避の努力もせず、労組との協議もしませんでした。 労組は会社の整理解雇が不当だとし、地方労働委員会に救済申請を提起して、 地労委は12月4日に不当解雇と判定しました。 しかし会社は地労委の判定は受け入れられないとし、 工場の廃業を強行する立場を固守しています。 現在、組合員は稼動が止まった工場でテントを張って座り込みを続けています。」

現代起亜車1次協力業者の韓国ゲイツもコロナ19を口実として工場を閉めた。 希望の歩みデモ行進で会った韓国ゲイツの労働者は6か月以上、 一方的な工場廃業阻止闘争を続けている。 金属労組韓国ゲイツ支会のチェ・プンソク支会長は金属労組の歴史で 黒字廃業をした所は韓国ゲイツがほとんど唯一だという。 実際に韓国ゲイツは20年間で1041億の純利益を記録する大邱地域の優良企業だった。 廃業直前の年には45億ウォンの純利益を上げた。 その上、外資系会社の韓国ゲイツは大邱達西工場に入居した当時、 取得税や財産税免除などの各種の税制優遇を受けた。 現在、会社は一方的に生産工場を廃業したが、販売法人はそのまま維持し、 中国から完成品を逆輸入する方式で金を稼いでいる。

「地方自治体はコート資本を誘致しながら色々な特典を提供します。 だが投機資本が出て行く時は制度的に何の規制もありません。 韓国ゲイツのような黒字廃業さえ規制しなければ、 赤字の工場が廃業しても何も言えなくなります。 ドミノ現象が起きて私たちのような人がさらに増えるでしょう。 現在、組合員は工場の前でテント座り込みを続けています。 会社が労組に業務妨害禁止仮処分を申請し、 工場に入るたびに30万ウォンの罰金を払わなければなりません。 トイレにも行けません。 会社は労働組合と全く話そうとしません。」

希望の歩みが大邱を経て、亀尾へと移動する間、 チャ・ホノ支会長をはじめとする金属労組旭硝子非正規職労働者もデモ行進に合流した。 亀尾国家産業団地にある外国人投資企業の旭硝子も 2006年に地方自治体から土地無償賃貸と各種の税制優遇を受け、韓国に進出した。 彼らは非正規職労働者を不法派遣で雇用するなどの費用削減で、 年平均1兆ウォンを売り上げたが、2015年に携帯メッセージ一通で 178人の労働者を大量解雇した。 解雇された労働者は今年で7年間闘争を続けている。 会社は労働者が集会で道路にラッカーを塗ったとし、 5200万ウォンの損害賠償を請求して、議論を呼んだ。

「2017年に雇用労働部が不法派遣だとし、 178人を正規職として雇用しろという是正命令を出しました。 17億8千万ウォンの過怠金も賦課しました。 しかし会社は今まで雇用労働部の是正命令を拒否しています。 2019年の民事訴訟1審でも解雇された非正規職労働者を会社が直接雇用しなければならないという判決が出てきました。 初めから検察は不法派遣に無嫌疑処分をしましたが、 大検察庁検察捜査審議委員会が起訴決定をして、 現在刑事訴訟が進行中です。 裁判は3年目になりますが、今年の5〜6月には1審宣告が出てきそうです。 労働部、検察、裁判所がすべて労働者の主張を認めたのに、 会社は時間を引き伸ばしているのです。」

ソウル青瓦台前、2月7日を待つハンストと拝闘争

希望の歩みが一歩踏み出すたびに、青瓦台の前ではキム指導委員の復職を願って拝をする。 キム指導委員の復職を要求して始めたハンストはすでに年を越した。 現在、青瓦台サランチェの前にはキム・ジンスク指導委員の復職を願うハンスト闘争と拝闘争が続いている。 先立ってソン・ギョンドン詩人とソ・ヨンソプ神父、ソン・ミソン緑色党共同運営委員長、 キム・ウ権利探しユニオン活動家、チョン・ホンヒョン金属労組釜梁支部主席副支部長などは、 今日(1月26日)で36日間、青瓦台前でハンスト座り込みを続けている。 彼らは2月7日、千里の道のデモ行進を終えて青瓦台に到着する希望の歩みを 指折り数えている。ぜひ互いに無事に出会えることを切実に願う。

昨年12月22日、青瓦台前でハンスト座り込みに突入した 金属労組釜山梁山支部のチョン・ホンヨン首席副委員長は、 ハンスト20余日で体重が12kg以上減った。 既に長いハンストで体力が限界に至ったが、 零下25度の寒波にもかかわらずビニール1枚張ることができない。 今年59歳の彼は、自分が定年を迎える前にキム・ジンスク指導委員の復職を見るのが夢だと言う。 それは20歳の時から30年間、労働活動家として生きてきた彼にとって、 最後の宿題のようなものだった。

「2003年にキム・ジュイク、クァク・ジェギュ二人の烈士が出てきた後、 会社と合意する過程で私が交渉幹事を引き受けました。 その時、会社は労組が要求した100種類のうち99種類はすべて受け入れられるが、 たった一つ、キム・ジンスクの復職だけはだめだといいました。 その時、全経連、経済人総連など財界は、 理解できないほどキム・ジンスクの復職に反対しました。 資本は決して民主労組運動の象徴的人物であるキム・ジンスクを容認させませんでした。 公権力もまたこれに足並みをそろえました。 当時、私がキム指導委員に電話して、交渉状況を報告しました。 その時、キム指導委員はいかに残酷だったでしょうか。 最後の通話で、キム指導委員は 『それで事案が終了できのなら、そうしよう』と話しました。 どれほど涙を飲んで言った言葉だったでしょうか。
その後も毎年、賃金団体協議交渉でキム・ジンスクの復職案が上がりました。 しかし交渉が終わる頃には毎年後回しにされました。 18年間、キム・ジンスクの復職を前に掲げて闘争したことがありません。 2003年、私の年齢が40、不惑の年齢でした。 その時、私が間違っていたのではないか、 なぜ誰一人頑張らなかったのだろうか、 18年間の負債感と後悔が付いて回りました。 昨年5月に闘争を始め、この長い間の宿題を解かなければならない、 どんな形態でも終えなければと思いました。」

キム指導委員の解雇は87年の労働者大闘争を前にして、 民主労組運動を弾圧するために政府が行った国家暴力だった。 当時、キム指導委員は労働条件改善を要求する宣伝ビラを配布したなどの理由で対共分室に連れて行かれて拷問を受け、 3回の懲役と5年の手配生活を体験し、解雇された。 だから労働・市民社会はもう政府がこの問題を解決しなければと誰もが話す。 チョン首席は「文在寅政府がこの問題を解決しなければならないのに、 産業銀行のイ・ドンゴル頭取が直接キム指導委員の復職を邪魔している」とし 「産業銀行頭取の任命権限は文在寅大統領にいる。 その上、産業銀行は韓進重工業を投機資本に売却しようとしている」と批判した。

昨年12月23日、青瓦台の前から始まった拝闘争も結局年を越した。 キム指導委員の復職を願う人々が集まって始まったリレー3千拝闘争は、6千拝に、 1万拝にと増え続ける。 全国津々浦々から人々が青瓦台の前にやってきて、毎日拝をする。 キム・ジンスク指導委員の歩みごとに彼らの願いがかなうことを祈る。 キム・ジンスクの長い友人、保健医療労組のパク・ムンジン指導委員も 青瓦台の前で毎日拝をする。 ガンと闘病している友人が千里の道を歩きはじめたという消息を聞いて、 パク・ムンジン指導委員はむしろ安堵のため息をついた。 キム指導委員の性格を誰よりもよく知っているので、 彼女がどんな選択をするようになるのか心配していたからだ。

▲パク・ムンジン保健医療労組指導委員

「私はキム・ジンスクのスタイルをよく知っています。 明確に年末になれば闘争をするはずなのに、どんな闘争をするのか心配になりました。 あるいは超強度の闘争を決めるかと思ってとても恐ろしかったです。 それで歩くと言われた時、むしろうれしかったです。 今処した色々な状況を考慮した最善の選択だったでしょう。 そして一人で歩くのではなく、仲間たちと共に歩くのだから。 もうひとつの歴史を作るのだから。 それこそ革命の道だと思います。」

彼は最初に拝闘争を始めた時だけでも、この上なく気持ちが複雑で息苦しかったという。 2019年の冬、パク・ムンジン指導委員が嶺南大医療院労組弾圧問題解決を要求して 6か月以上高空籠城をした時、 ガン闘病中だったキム・ジンスク指導委員が釜山から250里を歩いてきた。 キム指導委員の行進は長期化した高空籠城のもうひとつの転機になり、 一月ほど後にパク指導委員は地面を踏んだ。 今回は自分が大きな力を集中する番だが、 拝闘争で大きな力になるのか心配になった。 だが毎日青瓦台を訪れる市民と共に拝をして、 彼はさらに多くの気持ちがしっかり集まっていることを経験する。 多くの心が集まって、キム・ジンスクが歩くところに強固な勇気と力になることを、 そしてその力で労働者たちが歩くところがもっと固くなることを念願する。

「実は2月7日以後が怖くなります。 キム・ジンスク指導委員が青瓦台に到着しても問題が解決しなければ、 また何かをしますから。 これからもっと多くの歩みが集まれば嬉しい。 労組にも話したことがあります。 全国でデモ行進を組織して、色々な形の歩みが青瓦台で出会えればうれしい。 京釜線と湖南線を通り、ソウルに上がってくる二つの歩みが松明になればいい。 今からでも遅くないと思います。 この闘争をキム・ジンスクひとりのための闘争だと思えば、 労働運動の過去と現在と未来が否定されそうな気がします。 労働運動の自尊心を守るための戦いに、もっと積極的な動きが必要です。」

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2021-01-31 22:30:56 / Last modified on 2021-01-31 22:30:59 Copyright: Default

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